1.王女殿下の女学生な日々
全く、どうして今日に限って……と、愚痴りたくなるのを我慢し、マリィはペンを動かした。
だいたい、兄が悪いのだ。いつもはマリィのことなど放置のくせに、珍しく部屋にやって来たかと思えば――。
(くだらない)
何が「お茶会」だ。
思わず筆圧が強まり、洋紙が嫌な音をたてた。
「あっ」
しまったと思った時には、既に遅し。これまでの成果は水の泡となっていた。
(せっかく、ここまで書いたのに……。書き直しなんて)
作業を再開するも、先ほどと比べて、明らかにペースダウンしているのが分かった。それが分かっていながら、以前のペースを取り戻すのは、なかなかに困難だ。
せっかく積み上げた、完成間近の積木を崩されたときのような、脱力感。
(それもこれも、あのお茶会の所為で!)
あんなイレギュラーがなければ、とうの昔に終わっていたはずなのに。今、こうして睡眠時間を削ってまで、机に向かっているのは、全て茶会の所為だった。
そもそも、マリィがいたところで何も変わりはしない。せいぜいが、人数合わせといったところだ。
(……いいえ、正確には、「代替」ね)
お姉様の。
体が弱いお姉様。それでも茶会に出席しようと、無理をなさって――。
マリィは、慌てて自室にやって来た兄を思い出した。
「頼む。マリーの……マリーヴィエの代わりに、茶会に出席してくれ」
あんな風に頭を下げられたら、断るなんて出来ない。兄は本当に困っているようだったし、代わりが務まるのは自分しかいないということを、マリィは良く自覚していた。何しろ現在、国王エルヴィン二世の娘たる“王女殿下”は、二人しかいないのだから。
「痛……」
右手に痛みを感じ、ペンを机に置く。一気に書き上げたものだから、かなり負担になっていたのだろう。……まあ、それも水泡と消えたわけだが。
「マリィ様?」
主の変化を感じ取ったのは、つい先日、臨時でマリィ付きの侍女をしていたエナだった。諸般の事情、というかマリィの強い意向により、正式にマリィ付き侍女として採用されたばかりだ。
そして、マリィにとっては目下、最も必要な侍女でもあった。
他の侍女はもう下がっていて、今現在、部屋には彼女しかいない。こんな夜更けまで付き合わなくて良いと言ったのに、彼女はまだ主の傍にいる。
「何でもないわ」
心配させないように微笑んでみせると、エナはほっとしたような顔をした。
「あの、もうお休みになった方がよろしいのでは?」
そろそろ言われるだろうと思っていたら、案の定だ。しかし、勿論耳を貸す気はなかった。ここで眠ってしまったら、確実に明日は地獄を見る羽目になる。
マリィは再びペンを動かし始めた。
「いいえ。これを仕上げないと。わたくしのことは、放っておいていいから。貴女はもう休みなさい」
マリィの言葉に、しかしエナは納得していない様子で、まだ傍を離れない。
(圧力をかけられても、絶対に止めないわよ!)
どんなに「休め」と言われようが、これが終わるまでは、そのつもりはない。
ところが、机の上でペンを走らせ続ける主を見て、「あの」と切り出したエナの言葉は、予想外のものだった。
「ところで、先ほどから、何をされているのでしょうか?」
がくっと項垂れ……るのは、王族としての威厳を激しく損なうものであるような気がしたので、ぐっと我慢して、マリィはエナを見た。彼女は物凄く不思議そうな目で、主と、その主を苦しめているであろうものを見つめている。
焦げ茶色の瞳が真ん丸になっている。純粋な好奇心が、そこにあった。
「課題よ。明日の授業で発表するの。出来ていなかったら、クラスの笑い者になるわ」
「ああ、学校の!」
エナは合点がいったように頷く。
「今日は完徹するから、貴女は先に休みなさい。でないと、明日の仕事に差し支えるわ。
――私はこれが終わるまで、絶対に眠らないから!」
「わかりました。でも、ほどほどになさって下さいね」
厄介な置き土産を残して。
「明日は、あの方にお会いになられるんですから」
にっこり笑って、エナは去っていく。
ちょっと待て。何、物わかりの良い侍女のふりをして、出ていくの? せめて残された者の面倒を見てからにしろよ。
というツッコミを入れてくれる人は、残念ながらおらず――あとに残されたのは、ペンを持ったまま固まっている王女様だった。
風が冷たい。
初夏とはいえ、朝晩はやはり冷えるのだ。特に夜明け前――この時間帯は、最も気温が下がる。
しかし、マリィには寒さを感じている余裕も、そもそも窓を閉めるという考えすら浮かばなかった。
(エナが変なことを言うから!!)
おかげで、思い出してしまったではないか。
最後に会ったときのことを。
おかげで、想像してしまったではないか。
これから会うときのことを。
(今日こそは、お声をかけることが出来るかしら)
出来れば、お名前を聞いて。一緒に下校して。あ、寄り道をしても良いかも。それから――。
ぼんやりしていると、外から小鳥の囀りが聞こえ、はっとした。
(課題課題課題課題っ!!)
デッド・ラインまで、あと三時間弱。九時に始業なので、七時には登校の準備をしなくてはならない。
(集中しないと)
大きく息を吐いた。
エナの発言については、取り敢えず忘れよう。全身が熱を持っているのは、きっと課題に対する意欲の表れだ。そうに決まってる。
ぶんぶんと首を振り、マリィは再びペンを握りしめた。
* * *
「だから言ったのに」
「申し訳ありません……」
朝イチでやらかした侍女の姿に、マリィは溜息を吐く。こうなることは、予測済みだったにしても。
「今度からは、きちんと睡眠をとること。集中力を切らしては、仕事にならないわ」
わたくしもね、と心の中で付け加える。
「以後、気を付けます、はい」
ますます小さくなるエナに、マリィは「もういいわ」と言った。これ以上言っては、さすがに可哀想 だ。既に、他の侍女にもこってり絞られたことだろうし。
「それより」
声を小さくした主に、エナは何かを感じ取り、すすっとマリィに近づく。
マリィはほんのり頬を赤くしながらも、エナの耳元に顔を近づけた。この距離にも、随分慣れてきたものだと思う。今までは、自分とこんな距離で接する侍女はいなかった。本当に、変わっている。この侍女は。
「今日、いいわね」
必要最低限の言葉に、しかしエナは「何が」とは聞き返さなかった。
「はい。お任せ下さい」
心得ましたとばかりに、満面の笑顔で返すエナ。今朝の失敗はいただけなかったが、これはこれで心強い。
「あ、そうだ。マリィ様」
普通に名前で呼んでくれる侍女に、マリィも自然と表情が柔らかくなる。
何かしらと思って見返すと、エナはいつの間にか、手に白いリボンを持っていた。
「それは?」
「せっかくですから、お洒落して行きましょう。きっと、お似合いになりますよ」
リボンなんて、いつ以来だろう。マリィの頬はますます赤くなった。
学校へ行くときには、髪の毛はゆったりとした三つ編みにしている。きつく結っていては痕が残ってしまうので、王宮に帰ってからが面倒なのだ。そこで、あまり後に残らないように、緩く結うことにしていた。
エナは断ってから、丁度腰の辺りで揺れている房を手に取る。マリィが黙ってうちに、さっさとリボンを巻きつけていった。
「はい、出来ました。やっぱり。可愛らしいですよ、マリィ様」
「あ、ありがとう……」
照れてらっしゃるお姿は、もっと可愛らしいです! ――という言葉は飲み込み、エナは自分の見立てが間違っていなかったことを確信した。明るめの茶色に、白のリボンはよく映えている。
全身を映す姿見の前にいるマリィも、どうやら満足しているらしかった。
今のマリィは、どこからどう見ても、一国の王女には見えない。白のブラウスに、丈の長い臙脂色のスカート。化粧は日焼け防止程度のもので、装飾品もつけていない。さきほどエナにつけてもらった白いリボンが、唯一のお洒落と呼べるものだった。
良家の女子風の格好は、これから向かう王立女学院では、簡単に馴染んでくれる。わざわざ身分を主張するような格好をする必要はないので、マリィは入学以来、ずっとこうした姿を貫いてきた。
* * *
王立女学院は、王宮の近くにある。とはいえ、王宮から――正確には、マリィの自室からは徒歩で一時間弱かかる。
「マリィ様。お疲れではありませんか」
声をかけてきたのは、従者のフリッツだった。一応、マリィの騎士ということになっている。
「大丈夫よ。慣れているもの」
「しかし、昨晩は無理をされたとか」
何故それを、と思ったが直ぐに納得する。おおかた、侍女にでも聞いたのだろう。
元々、マリィの騎士はフリッツの父カレルが務めていた。
そのカレルが現役引退を申し出てきたのは、一か月前のこと。年齢が年齢なだけに、実はマリィも以前から心配していた。危険な任務はないといっても、体力的にも精神的にも、そろそろ辛いだろうとは思っていた。それに、先々月に念願の初孫が生まれたことで、家族との時間をもっと取りたがっているようにも見えた。
そういう事情のため、彼の願いは問題なく聞き届けられた。その時に後任として推薦したのが、彼の末の息子、つまり目の前のフリッツだったというわけだ。推薦の理由としては、マリィと年が近いから、らしい。そうはいっても、五歳離れているのだが。
マリィ自身、フリッツに何の不満もない。真面目過ぎる面もあるが、だらしないよりマシだし、何より信頼出来る。腕の方はよく知らないものの……命を狙われるような事態には、未だかつて陥ったことがないので、心配いらないだろう。こうして堂々と、たったの三人で城下を歩いていても、危ない目にあった例はないのだから。
「それほど無理はしていないわ」
「何も、歩いて通われなくても……」
今度はエナ。明らかに、マリィよりも疲弊している。この体力の無さはどうなのだろう、とマリィはぼんやりと考えた。
「……そうね。やっぱり、叔父様の家に下宿しようかしら」
叔父様とは、国の宰相であるヴィレム・バルトン公爵のことだ。現国王の同母弟にあたり、マリィも幼い頃から良くしてもらっていた。マリィの実母がバルトン家の親戚筋の出身だったこともあり、元々の繋がりは深い。
叔父には子供がいない。十数年前――マリィが生まれて間もなく亡くなった奥方との間にはとうとう授からず、その後も後妻も貰わなかった。
だからなのか、マリィのことは子供のように可愛がってくれ、マリィもまた、父のように慕っている。実の父よりも会っている時間が長いことは確実だ。
そんな彼は、王立女学院の目と鼻の先に屋敷を構えている。なんという、ベスト・ポジション。
(あの距離は魅力的よね)
徒歩が辛いというよりも、主に移動時間が短縮されるということが利点である。そのぶん、勉強時間に充てられるのだから。
(それに、面倒なお茶会にも参加しなくて済むし)
この際、王宮と距離を取るのも良いかもしれない。
自分一人がいなくなっても支障はなさそうだ。
「――この辺で良いわ。迎えは、いつも通りで」
いつの間にか、正門の近くまで来ていた。
他の学生とは登校時間をずらしているので、人の往来はあまりない。学生には王女であることを隠して通っているので、出来るだけ目立たないようにしている。
二人にはいつものように迎えだけを頼んで、マリィは正門を潜った。
(今日は、お会い出来るのかしら)
ふと頭に浮かぶのは、一人の人物。
先週の月曜日に会って――というか、一方的に見かけて以来である。
エナに自身の気持ちを打ち明けたのも、丁度その日だった。たまたま現場を押さえられ、そのまま詰問に近い質問攻めにあったのだ。
正直なところ驚きもしたし(侍女として有り得ないと思った)、怖かったが(向こうが必死過ぎて)、今では感謝してもし尽せない。彼女のおかげで、こうして自覚できたのだから。
その後、エナが「協力いたします!」と張り切ってくれるものだから、それならと気合を入れて彼の通学路に張り込みをしたものの、火曜・水曜は会えず。木曜日は兄に呼ばれて早退。金曜日は祝日のため、学校は休みだった。
(早く終わらないかしら)
始業前に終業後のことを考えるマリィ。好きで学校に通っているはずだが、想い人の前ではどうでも良くなってしまうものなのかと、そこだけは妙に冷静に分析した。
もうすぐ一限が始まるというのに、隣は空席のままだった。
(今日はお休みかしら)
隣席の彼女は、少し前まではそう仲良くもない、ただのクラスメートという認識だった。
その認識が変化したのが、つい最近。自分とのちょっとした類似点を意識し始めたことで、なんとなく気になる存在になっていた。
隣席の主は、バレク伯爵家の次女でアデーラという。金髪を丁寧に巻き、ここはパーティー会場ですかと言いたくなるほど、これまた丁寧に化粧を施した姿は、学校でかなり目立っていた。美人なのは誰もが認めるところだろうけれども、いやそこまで気合を入れなくても……ここ学校だからね、ということである。
そして、ここからがマリィにとって重要なことなのだが――その理由は、隣接する王立学院にお目当ての学生がいるからではないかと、専らの噂だった。
おそらく事実だろう。
以前のマリィならば、もしかしたら莫迦にしていたかもしれない。そんな理由で、と。
尤も、今となってはそうは思わない。
――だって、ご同類なのだから。
とはいえ。
(仲良くなるのは、おそらく無理でしょうけれど)
彼女が自分と「同類」かもしれないことは認めよう。が、だからといって、性格的に合うかどうかは別問題だと思う。
彼女は、貴族だ。
いや、自分は王族だが――それはこの際置いておくとして。とにかく、彼女は貴族らしい貴族だった。そしてそれは、この学校においても遺憾なく発揮される。
ちなみに、彼女の自慢は王位継承権を持っていることである。アデーラ曰く、王位継承権は九十八位とのことだが、いかにも怪しい。ぎりぎり二桁に見せかけているものの、おそらく三桁の前半といったところか。結構なサバをよんでいるはずだ。
(誰も確かめたりなんか、しないんでしょうけれど)
何故なら、とんでもなく王位継承者が多いから。自分も含めて。
現国王の子供は、王子が十二人、王女が十四人である(公式発表!)。先代の子供も二十人以上いたというし、先々代も似たようなものだったと聞く。複雑過ぎる系図は、もはや誰も覚える気はなく、間違って書かれていたとしても、訂正出来ないんじゃないかと思う。
これだけ王位継承者が多いと、わざわざ正確に把握してやろうと考える者はいない上、城下の庶民にも、「俺の王位継承権は千位なんだぜ(笑)」と言って自慢げに話す者もいる。彼らですら放置なのだから、もうどうにでもなれ状態だった。そのうち、「王族なりすまし詐欺」なんてものが起きても可笑しくない。
きっと王位継承争いなんて起きはしない。
マリィはそっと、平和過ぎるご時世を築き上げてくれたご先祖様に感謝した。