13.正しい距離のとり方
何故、会う?
マリィは回れ右して帰りたくなる衝動を必死に抑え、前方より近付いてくる人物に対する警戒を強めた。朝も会って、さらに姉の居所からの帰り道にも出会うとか……何らかの作為が働いているとしか思えない。
朝の一件で、当面は関わるのはよそうと決めたばかりのはずなのに。
しかも姉に変なことを言われたせいで、否が応でも意識してしまうではないか。
(ここを通るんじゃなかったわ)
いくら近道だからとはいえ、宰相宮の横を通過するべきではなかった。そうすれば遭遇率はぐっと下がっただろうに。
しかし今更悔やんだところで仕方がない。ここであからさまに回れ右をしたのでは、不審過ぎる。マリィは覚悟を決めて、前方を見据えた。
向こうから声を掛けられることは、まずない。秘書官が王女たる自分に話しかけるなど、よほどの用がなければ有り得ないからだ。
だから、このまますれ違うのを待つだけで良かった。そうすれば、きっと何事もなく終わる。互いに思うところはあるかもしれないが、少なくとも表面化はしない。それが事を起こさせない正しい選択であると、マリィは知っていた。
けれども――。
どうしてだろう。その選択肢を実行するのは躊躇された。
関わるのはよそうと思う反面、彼について何も知らないことに対し、焦りにも似た感情を抱いてしまったためか。
知り合ってから一週間しか経っていないことを思えば、仕方がないのかもしれない。しかし、何故か今は「このままではいけない」と思うようになってきていた。この心境の変化は、間違いなく姉との会話に起因するものであろうと推察されるのだが……具体的にどの部分でそれが訪れたかを分析する余裕はなかった。
近付いてくる。
そして自分も、近付いていく。
自然、マリィの心拍数は上がった。
分かっている。真正面から関わる必要なんてないことを。
心得ている。彼との「正しい」距離のとり方を。
でも、それでも。
(違う……)
徐々に縮まっていく距離を見て、マリィははっきりと思った。
そんなんじゃ駄目だ。うまく言えないが、何だかそれは違う気がする。
(こちらから、行かなくては)
もし、このまま何事もなくすれ違ってしまえば、何かが変わってしまうのではないか。せっかく掴みかけていた何かを失ってしまうのではないか。
何故だろうか。マリィは、ふいにそんなことを思った。
よし、話しかけてみよう。まずは今朝の件を尋ねてみるとするか。
マリィは気合を入れ、タイミングを見計らって足を止める。
「今朝は、あそこで何をしていたのかしら?」
言ってみて、ぎょっとした。我ながらとんでもない上から目線な言い方だ。どこぞの高飛車令嬢みたいである。
気合いを入れ過ぎた所為で質問というより詰問になってしまったが、今更態度を改めるのも変なので、取り敢えずそのまま返答を待つ。
そんな彼女の態度をどう思ったか知らないが、グランティシェクは全く気にしたそぶりも見せず、やはり淡々と回答した。
「必要な書類を探しておりました」
「そ、そう……。それで見付かったの?」
「はい。誰かが書類を仕舞ったまま、チェストごと資料室に移動させていたようです」
「そう……」
またしても無難すぎる回答に、ケチをつける隙もない。彼の回答の中から企みを見付けるのは、至難の業のように思えた。
「ではどうして、わたくしのことを知っているのかしら」
言ってから、しまったと思う。今までの話と脈略がなさすぎる。そしてやっぱり詰問口調だ。
しかしグランティシェクは、こちらの詰問にも律儀に答えてくれた。
「ヴィレム様より伺っておりましたので」
「どういう風に!?」
思わず身を乗り出すマリィ。
叔父は、一体どのような話をしているのか。まさか、結構なところまで話が進んでいるとか――と、一瞬にして嫌な予感が彼女の脳内を占める。
僅かに驚いた表情が、グランティシェクから漏れた。
(あ……)
こんな顔もするのかと、マリィの方が驚いたのも一瞬。その表情を引き出した原因が自分にあると分かるや否や、取り繕うように軽く咳払いした。
「その……叔父様は、わたくしのことを、どのように評していらっしゃるのかしら」
飽くまでも、グランティシェクとの関係がどうの、ということには触れない(藪蛇になりそうなので)。自分自身の評価を問うことで、何とか誤魔化す作戦に出る。
「熱心に勉学に励まれている由を聞き及んでおります」
「そう……」
いつ、その模範解答を用意していた? と聞きたくなるくらいの、正答っぷりであった。やっぱり面白くない。
(何かないかしら……)
このまま引き下がるのも悔しい。せめて一矢報いてからでないと、この場から立ち去れない。妙な対抗心が彼女の中で芽生えた。
(あ! そうだわ)
良い手があった。
マリィは余裕の笑みを浮かべる。
「貴方、カニを食したことはあって?」
「………………はい」
その間は何だろう。
たっぷりと時間を取って答えた彼に、マリィは首を傾げる。そんなに難しいことを尋ねたつもりはないのだが。
動揺しているようにも思われる反応は、彼女には全く理解不能だった。僅かな隙を見付けられたことは僥倖だが、原因が分からないことには、これ以上突いても成果が得られるかどうか分からない。
「ヴィレム叔父様はカニがお好きなの」
「はい。存じております」
「……そ、そう。随分と親しいのね。――まあいいわ。今度、叔父様とカニ料理を食してはどうかしら。きっと、お喜びになるわよ」
叔父の嗜好まで把握してるとは、恐ろしいほどの親密ぶりである。そのことに若干の恐怖を覚えながら、マリィはなるべく自然に“助言”をした。が、
「………………はい」
また、変な間があった。一体何だというのか。
マリィは再び首を傾げた。
飽くまでも無難過ぎる態度を崩さなかった秘書官は、マリィの謎の“助言”を怪しむ風でもなく、何事もなかったかのように通り過ぎて行く。
(よく分からなかったけれど……まあいいわ)
せいぜい叔父に嫌われるといい、と思う。
叔父は食べることが好きだ。そして何より、カニが大好きだ。
彼は、食物の摂取という行為を非常に神聖なものとして捉えている。――つまるところ、食事に集中したいタイプ、食事中は無言になるタイプなのだ。
そうはいっても、会食となると話をしないわけにはいかない。だから、普段の食事では普通に会話をする。マリィと共にする時には、気を遣って、彼の方から話題を提供することも多かった。
しかし、である。
本来ならば、彼は静かに食べたいと思っている。それが好物のカニであれば、猶更。ヴィレムがカニを食しているときには話しかけるべからず、というのは近しい者しか知らない、しかし極めて重要な事項であった。となると……。
マリィは想像する。
カニを食べている最中に話しかける秘書官。そして機嫌が悪くなる叔父――計画は完璧だ。
何やら小さ過ぎる、ささやか過ぎる企みだが気にしない。こういった一歩一歩の積み重ねが大切なのだと、彼女は思うことにした。
グランティシェクと分かれた後は、相変わらず沈黙が続いていた。あんなツッコミ処満載のやり取りの後でさえ、ミラダは何も言わない。
遂に耐え切れなくなって、マリィは口を開いた。
「……一応、叔父様の部下だからということで、声を掛けただけのことよ。その、労いの意味で」
どう考えても労う気持ちは微塵も感じられなかったのだが、ミラダは静かに「はい」と返事をする。
「だから、その、わたくしは、別に彼とは親しいわけでも何でもないから」
「……」
今度は無反応だった。
「え?」と思って隣を見ると、ミラダは僅かに表情を崩していた。何か言いたそうな、そんな表情で――だが、意を決したように口を開く。
「親しくなさったらよろしいのではないでしょうか」
「え?」
戸惑うマリィを余所に、ミラダは続ける。
「エナが余計なことでも申し上げましたでしょうか。あの子が何と言ったかは存じませんが、あまり真に受けられませんよう」
「どういうこと?」
「エナは以前、宰相宮に配属されていたのですが、そこで色々な噂を耳にしていたようで……。ですが所詮は噂。到底真実からは遠いものでございます」
マリィは首を傾げる。彼女の言っていることが、理解できなかったからだ。噂とは、何のことだろう。
しかしそれを明らかにするよりも、まず訊いておきたいことがあった。
「あなたは、彼と面識はあるの?」
「はい、何度かお会いしたことはございます」
なるほど、とマリィは納得する。
灯台下暗しとはこのことだ。こんな身近に、彼を知っている人物がいたとは。
「いつも、ああなのかしら」
「『ああ』とは?」
「その……喋り方よ。こう、あまり抑揚がないでしょう。表情も変わらないし。何を考えているのか、さっぱりだわ」
例えば、親しい者と話している時とか。そうでなくても、自分以外の者と話している時はどんな様子なのだろうか。そんな疑問が思い浮かぶ。
「私は業務上でしか、関わっておりませんので……」
「つまり貴女が見ているときも、ああだったのね」
むぅ、と考え込むマリィに、珍しく――本当に珍しく、ミラダの方から声が発せられた。
「マリィ様も、いつも通りにお話されればよろしいかと存じます」
「…………どういうこと? わたくしは、いつも通りよ」
突然言われた侍女からの助言に、マリィは目を丸くする。
訳が分からない。
(どこが可笑しかったのかしら)
普通に会話していたつもりだが――いや、あの詰問口調が良くなかったのか。それとも、そもそも話題が良くなかったのか。
明確な解答を得ることは出来ずミラダを見上げるも、彼女は静かに微笑むだけだ。答えは自分で見付けろということらしい。




