11.飛んで火に入る何とやら
日曜日。マリィは、いつになく緊張感を伴った朝を迎えていた。
勉強用ノート改め敵偵察用ノートがない――その事実は、彼女を震撼させるのに十分だった。
気付いたのは、起きて直ぐ。今後の計画を立てようとして――はっとした。
ノートと同様にペンも一つない。そこから数日前の行動を思い起こせば、何処に置き忘れたのかは自ずと知れた。
宮廷図書館だ。
あの、記憶の片隅に留める価値もない二人組の所為で、木曜日の計画は散々だったことを思い出す。せっかくいい感じに偵察を続けられると思っていたのに、対象には会えないわ、想い人を莫迦にされるわで踏んだり蹴ったりだった。おかげで、敵に関する調査の進まないこと。
今のところ敵に怪しい動きはないが、うかうかしてはいられない。手遅れになる前に、何とかしなければ。
――とまあ、彼女の中では、グランティシェクは完全に悪役になっていた。
一刻も早くノート回収に向かいたい彼女だが、朝食を食べてから出かけるようにと侍女に言われ、しぶしぶそれに従った。
大急ぎで朝食を終え(早食いは体に良くない上に行儀も悪いが、緊急事態なので大目に見てほしい)、マリィは机の事典を手に取る。
「宮廷図書館まで、本を返しに行ってくるわ」
まだ返す必要のないものだったが、他に借りているものがなかったので仕方ない。
午後から予定が入っているので、図書館で調べものを……なんて言おうものなら、止められる恐れがある。ちょっと返却しに行ってくる、の方がすんなり許可して貰えると思ったのだ。
果たしてマリィの考えは大当たりだった。
「午後から姉上様とのお約束があるのですから、お早めにお戻りください」
「ええ、分かってるわ。直ぐに戻るから」
そつなく念を押すミラダに答え、マリィは部屋を出た。
* * *
宮廷図書館へ向かうルートはいくつかあるが、一番の近道は宰相宮の傍を通るルートである。
爽やかな風が吹く小道を、マリィは速足で進んでいく。本当は緑地帯を突っ切りたかったのだが、誰かに見られないとも限らないので自重しておいた。珍事として後世まで語られては敵わない。草原を駆ける王女、とか誇張して伝えられそうだ。
休日の午前なので、人通りは少ない。役職に就いている人間ならばともかく、下っ端が休日に出仕することはないからだ。
宰相宮を通過しようとしていたマリィは、入口付近で人影を見付けて足を止めた。
(誰かしら――……って、グランティシェク・チェガル!?)
必死で探していた金曜日には見付からなかったのに、何の準備もしていない今日遭遇してしまうとか。
マリィはタイミングの悪さを恨んだが、さりとて巡ってきた好機をみすみす逃す手はない。幸いにも周囲は無人だ。一応きょろきょろと見回してから、その姿を追ってみる。
(日曜日に、何の用なの……?)
偵察を開始したマリィの眼が、次第に疑いの色を帯びてくる。
休日出勤が悪いわけではないが、休日なのにわざわざ出仕していることに、何やら作為的なものを感じて仕方がない。普通は自邸でのんびりと過ごすだろうに。それに叔父が出仕していないのに、秘書官である彼がやって来る理由が分からない。何か別の目的があって――いや、何かを企んでいるのではないか。
(もしかしてこれは……国を揺るがす大事件に発展するかもしれないわ)
彼の企みを未然に防げる人間は、自分しかいない。叔父は彼を信頼しきっているようだし、他の人も既に取り込まれている可能性がある。ここでマリィがいくら、「あの人は怪しい」と豪語しようにも、孤立無援状態では、逆にこちらの身が危ない。
(確実な証拠を掴まないと)
図書館に行くのは後回しだ。
マリィは、とりあえず彼の後を追うことにした。
思った通り、グランティシェクは宰相宮の執務室へと向かって行った。ただ違っていたのは、
(こんなところに、何の用かしら?)
彼が入って行ったのは、「第三資料室」と書かれた部屋だった。
普段は使われていない部屋。幼少時の記憶だが、そこが物置状態になっていることを、マリィは知っていた。何でも「一時保管庫」らしいのだが、実質「使わないものを取り敢えず置いておく場所」=「物置」となっている。
そんな場所に、一体どのような用があるというのか。物を運び込んでいるならまだしも、手ぶらで入って行くような場所ではない。
(まさか、良からぬことを企んでいるんじゃ……?)
ここを拠点に、何らかの活動をしている可能性は十分ある。物置で蠢く陰謀――何やらショボイ感じはするが、隠れ蓑としては丁度良いのかもしれない。
遂に馬脚を露わしたか。
マリィは密かに拳を握りしめた。
偵察を続けてきた甲斐があったというものだ。こうも簡単に尻尾を掴むことが出来ようとは。彼の悪事を暴けば、マリィの計画はまた一歩成功に近付けよう。
ささっと部屋の前に移動し、扉にぴったりと耳をくっ付ける。
(……静かね)
防音機能のない部屋だが、中からは物音一つしない。
(他には誰も来ていないのかしら)
彼女の頭の中では、数人が集って権謀術数を繰り広げていることになっている。薄暗い部屋に膝を突き合わせて語らう不届き者――彼らを一網打尽に出来たら、相当なお手柄のはずだ。
(覗いてみようかしら)
それは、かなり勇気のいる行動だった。下手をしたら、自身の身に危険が及ぶ。それでも、
(いえ、わたくしが行かないと)
何としてでも、彼の企みを止めないといけない。
どんどん妄想を膨らませるマリィは、使命感に燃えながら扉に手を掛けた。
そうは言っても、ばーん! と扉を開け放ち、「貴方の企みは分かっているわ。観念なさい!」と言える度胸はなく、そろそろとこじ開けるようにして、中の様子を窺う。
(あら……?)
誰もいない。少なくとも、視界に人影は見当たらない。
入口から顔だけを出した状態で左右を見回すが、人の気配すらしなかった。
(奥かしら)
良く分からないが、取り敢えず進んでみようと考え、彼女は一歩を踏み出した。
まさか消えてしまったわけではないだろう。どこかにいるはずだ。
(結構狭いわね。それに、こんなに積み上げて……)
今にも崩れ落ちてきそうなゴミ(にしか見えない)の山は、通行の邪魔でしかない。奥に進むのも一苦労である。
しかし、積み上げられた一角を抜けると、幾分視界が広がった。入口付近に集中的に固められているところをみると、運び込んだ不要物を、適当に置いていっているのだろう。きちんと配置を考えていたら、こんなことにはならない。
(これは一度整理した方が良いわ、絶対)
まさにカオスな物置では、どこに何があるか把握できるはずもない。
まったく……と、呆れながら更に進んでいくと、思った通り、奥に無駄なスペースが出現した。しかも結構広い。
(ああもう、勿体ない! 整理術が分かってないんだから!)
いっそ自分が移動させてしまおうか。そんなことまで本気で考え始めた彼女は、他の空きスペースを確認するため、周囲を見回し――いや、正確には見回そうとして――固まった。
(え?)
物置の一角。一瞬見逃してしまいそうになったその光景に、しかしマリィは違和感を覚えた。
チェストと、その上に積み上げられた空の水槽(用途不明)やら造花(埃まみれ)やら。それらに紛れて、人がいた。完全に不要物と同化しているが、そして上半身しか見えないが、あれは人だ。
それが誰かを認識する前に、目の前の人物は顔を上げる。
目が、合った。
「ひぃゃぁぁぁっ!」
王女らしからぬ悲鳴を上げ、マリィはずざざざっと後ずさる。そしてとっさに、手にしていたカモフラージュ用の事典(結構分厚い)を投擲した。
(あっ!!)
我に返ったときには、もう遅い。事典は意思を持ったかの如く、確実に相手の首を取りにいく。
「避けてっ!」
悲鳴に近い声で叫ぶも、相手は微動だにしない。
あわや顔面にクリーンヒット、というところで、彼――グランティシェクは分厚い事典を左手で受け止めた。
とん、と背表紙を掴む音が室内に響く。
(やるわね! ……じゃなくて!)
「ご、ごめんなさい。その、驚いてしまって……怪我はないかしら?」
「大事ありません。どうかお気になさらず」
突然襲撃を受けたにもかかわらず、彼の反応は淡々としたものだった。驚いた様子さえ見られないのを、マリィは少し不思議に思う。
「そ、そう。それなら、その、良かったわ」
結構本気の一撃だったはずだが、何ともないようだ。受け止めた手の方も、特に怪我は見当たらないし、痛がっている様子もない。
いくら敵とはいえ、怪我を負わせたとなっては寝覚めが悪い。彼の無事を確認したマリィは、投げつけた凶器――ではなく事典を受け取りながら、一刻も早くこの場を去ろうと算段した。この状況は不味い。色々と不味い。一度態勢を整えた方が良いだろう、と。
しかし。
「マリーヴィエ殿下」
「ひぃゃぁぁぁっ!?」
またしても王女らしからぬ悲鳴を上げ、ずざざざざっと、相手と距離を取る。図ったようなタイミングで名前を呼ばれて、驚かない方が可笑しい。むしろ再び事典を投げつけなかった自分を褒めてやりたいくらいだ。
安全な領域まで下がったマリィは、若干引きつった王女スマイルを浮かべる。
「……いえ。その、驚いてしまって」
どれだけ驚いたんだという反応だったが、彼女の目の前にいるのは、王女殿下にツッコミを入れるほど浅はかな人間ではなかった。律儀に「申し訳ありません」と謝罪の言葉を述べるグランティシェクを見て、マリィもいくらか冷静さを取り戻す。
「いえ。いいの。それで、何かしら?」
一刻も早く退出したい反面、あからさまに逃げるのも癪な気がした。呼ばれたのだから、せめて彼の言葉に耳を傾けてみようと思い、続きを促す。
しかし、それがいけなかった。
「何かお探しでしょうか」
「え?」
「この資料室は、普段は使われていないのですが……お探しの物でもあるのでしょうか。ご入り用の物があればお手伝いしますが」
(ああぁぁぁぁぁー!)
しまった。やってしまった。
己の大失敗に、マリィは思いきり頭を抱えたい気分になった。
休日の午前中に、わざわざ宰相宮の、しかも第三資料室(物置)にやって来る理由――それが彼女にあるはずもなく。
マリィは手にした事典を見つめた。
(駄目だわ……)
この状況では、せっかくのカモフラージュ用事典も役に立たない。
もはやこれまでか、と思った矢先、意外にも敵から救いの手が差し伸べられた。
「それとも――」
「え?」
あ、もしかして違う可能性を模索してくれている?――思いがけない救いの手に、マリィの表情は明るくなった。
次の一言を聞くまでは。
「私にご用でしょうか」
(うっ…………!)
それは、救いの手でも何でもなかった。むしろ状況は悪化した。
彼の推測は正しい。大正解だ。しかし世の中、何でもかんでも正しさを指摘することが正解とは限らないのだ――などと、意味不明な道理を説きたくなるぐらい、マリィの心境は最悪だった。やけになって、いっそ暴露してしまおうかとも考えたが、僅かに残った理性でそれを押し止める。
(こんなところで負けを認めては駄目だわ。早く、それらしい口実を考えないと……)
必死に頭を働かせ、納得して貰えるような状況を作り出そうとするマリィ。怖くて相手の顔を見ることができないので、自然と俯いた風になる。
と、ふっと視界が明るくなった。
右手にある窓から射し込む日の光が、陰鬱な部屋を照らしていく。徐々に色を変える様を見て、雲が晴れたのだと理解した。
何とはなしに、マリィは顔を上げる。
また、目が合った。
(あっ……)
事典を受け取ったままの状態だったので、グランティシェクとの距離は近いままだ。
以前は遠くから見ているだけだったのでマリィには分からなかったが、彼女とは結構な身長差がある。だから自然、彼がマリィを見下ろす形になり、反対にマリィは見上げる形になる。
初めて、まともに顔を合わせた気がした。
沈黙の中、どうしてかマリィには、視線を逸らすのが躊躇われた。
物置でこうして向かい合っている。一歩分もない距離で。ちょっと顔を上げて、気持ち背伸びして。
たったそれだけのことなのに。
その事実は、マリィを酷く落ち着かなくさせた。
「そ、そのっ」
何かを言わなくてはいけないような気になって、思わずそう口にしていた。口実? そんなもの現在進行形で考え中だ。
明らかに様子が可笑しい少女に、しかしグランティシェクは特に不審な目を向けることもなかった。勿論、彼女の言葉を遮ることも。
たっぷり三拍ほど時間を取って、マリィは続けた。
「あの……いえ大した用事ではないの。叔父様に用事があって宰相宮まで来たのだけれど、いらっしゃらないみたいで……。貴方がこの部屋に入って行くのが見えたから、叔父様のことを訊こうと思って、付いてきてしまったのよ」
「そうでしたか。バルトン様は、本日はいらっしゃいません。領地の方へ視察に行っておられますので」
「そうなの……。それは残念だわ」
心底残念そうに言うと、真実味を帯びてくるような気がする。
何とかなった。たぶん、それほど怪しまれはいない。
マリィは胸を撫で下ろす。叔父が視察で不在にしているのは、勿論知っている。今日から数日間は宰相宮に来ることはないことも。
ありがとう叔父様、と心の中で感謝しつつ、マリィは次の一手を考えた。これ以上、この話題を広げられるのは良くない。話題転換が必要である。それも、こちらが有利になるような――。
とっさに思い付いたことは、一つしかなかった。
「そ、それより貴方……、昨日わたくしを訪ねて来たようね」
「はい。殿下の忘れ物をお渡ししようと」
「忘れも――な、何故、貴方がそれを持っているの!?」
忘れ物って? とマリィが聞き返す前に、グランティシェクはさっと例の物を取り出した。言うまでもなくノートとペンである。
「金曜日に図書館で拾得しました。殿下のお持物であると考え、お届けしようと思っておりました」
「……わざわざ持ち歩いているのは、どういうことかしら?」
疑いの眼差しを向ける彼女に、グランティシェクは至って平静に回答する。
「一度はバルトン様にお届けしたのですが、私の方から殿下に返却するようにと言われまして。職務の合間にお返ししようと思い持参しておりましたが、職場に放置しておいては誰の目に触れるか分かりませんので、こうして携帯していた次第です」
「…………そ、そう」
無難過ぎる返答に、ケチをつける隙もない。
つまらない、と思いながらノートとペンを受け取った。
(それにしても、淡々と喋るのね)
まるで練習してきたかのように澱みなく喋る。少しでも動揺がみられれば、そこを突いてやるのに。さきほども、無表情のまま見返してくるし。こちらばかり心を乱されているようで納得いかない。
むむっと難しい顔をするマリィ。そんな彼女の心境を知ってか知らずか、グランティシェクはさらりと核心に迫る発言を投下した。
「殿下には、私のような者を覚えて頂いて光栄です」
(………………あ)
何さらっとバラしちゃってるの、わたくしは!!
マリィは再び、思いきり頭を抱えたい気分になった。これでは、一方的に調査を行っていたことがバレバレではないか。つまり彼はこう言っている。
何故自分のことを知っているのか、と。
「光栄です」などと言っておきながら、全く光栄そうに感じられないのが何よりの証拠だ。
顔に「やっちゃった」感たっぷりの後悔の色を見せながら、マリィは必死で苦しい言い訳を開始した。
「え、ええ……その、叔父様から、時折、話には、聴いていて」
それだけで顔まで分かるはずもないのだが、その部分には突っ込まれないことを祈るしかない。というか早く逃げよう。
「ああ、そうでしたか」
「そうなの、ええそうなの」
言いながら、マリィは後ろを振り返る。退路。退路を確保しなくては。
まるで敗戦兵のような気分だ。
「あの、これから用事があるから、わたくしは失礼するわ。――あ、お、叔父様には、わたくしが来たことは伝えなくて結構よ」
変な疑念を抱かれる前に退散するのが吉である。自分の方が立場が上で良かったと、マリィは心底思った。彼が自分を引き留めることは出来ないのだから。
しっかりと口止めすることも忘れず、彼女はくるりと体を反転させた。
* * *
部屋から出たマリィは、大きく息を吸う。
空気が美味しいと感じるのは、あの埃っぽさの所為だけではないと思う。
「…………あ」
一息吐いて、はたと気が付いた。結局彼があそこで何をしていたのかは、分からなかったではないか。それに、
(どうして、わたくしのことを知っていたのかしら)
新たな疑問も生まれる。
こちらの方こそ問いただしてやれば良かったと思っても、後の祭り。とっさにそこまで頭が回らなかった自分が悪いので仕方がない。
いずれにせよ、こんなことは暫くご免被りたいというのが、今の彼女の素直な感想だった。心臓に悪すぎる。
偵察は中止にして、当分の間は関わるのは止そう。
それが良いと判断し、マリィはそそくさと宰相宮を後にした。




