キューピットねこ
ここは、大阪府郊外の住宅地、昔ながらの田畑が広がる一方で、最近になってブロックのような住宅が、次々に立ち出した。駅まで歩いて三十分もかかるので、これまで開発の波から守られてきたが、ズドンと田畑を横切る大きな道路ができてから、景色はがらりと変わった。
梓は、この地で生まれ育った。両親と祖母、そして弟との四人家族で、梓はこの春から、地元の大学で、心理学を学んでいる。
ある日の夕食でのこと、母が眉を寄せながらぽつりと漏らした。
「最近、野良猫が庭に入ってきて、せっかく植えた花とか、無茶苦茶にしていくのよね」
父は興味なさげに返事する。
「俺は、猫なんか見たことないけどなぁ。どうせ野良猫なんだから、そのうちどこかへ行ってしまうだろう」
そう言って、開いたビールを飲みほした。
両親のやりとりを聞いていた梓は、心穏やかではなかった。チャトランのことが、脳裏を過った。まさかとは思ったが、心の中ではすぐに打ち消しにかかる。
「ちょっとコンビニに行ってくる」
梓は、両親に告げると、もやもやした気持を抱えながら家を飛び出した。向かった先は、近所の公園。公園と言っても、そこはブランコやすべり台が申し訳程度にあるだけで、住宅地の合間にポカンと空いた空間だった。
街灯の明かりが弱々しく照らすその場所は、昼間とは違って誰もいなかった。静かだった。時折、近くを通る車の音だけが家々の壁に反射して、大きく聞こえてくるだけだった。
梓は、いつものベンチに足早に向かった。暗闇の中で、ベンチの上に膨らみを見つけた。梓の足音を聞いて、その膨らみがわずかに動く。梓はそっと胸を撫で下ろした。
「チャトラン」
梓はそう呼びかけながら、ベンチに腰かけた。チャトランは、梓がベンチに座るのを待って、首を引っ込めて丸まった。撫でで欲しいのサイン。このベンチは、チャトランのお気に入りの場所だった。
梓は、横で丸くなるチャトランの背中を、そっと撫でてみた。時折、チャトランが、背筋をぴくんと伸ばす。撫でられて気持ちがいいのだろうか。まったく嫌がるそぶりを見せないので、梓は長い時間そうしていた。それは何よりも、梓にとって心が落ち着く時間でもあった。
また一台、音を立てながら車が走り去っていった。
梓とチャトランとの出会いは、梓が高校生のときに遡る。
梅雨の時期だった。高校からの帰り道、梓が何げなく公園に目を遣ると、ベンチの脇にちょこんと置かれた段ボール箱が目に入ってきた。雨は相変わらず降り続いていた。梓は、何を思ったのか、足元のぬかるみを避けながら、段ボール箱の傍に駆け寄った。耳を当てると。中からかすかな鳴き声が聞こえる。恐る恐る蓋を開けてみた。開けてみて、中にいたのが子猫だとわかった。
「かわいい」
梓は、声にならない声を出した。子猫は梓を見て、つぶらな瞳でまばたきをした。その動きがけなげだった。か弱かった。梓は周囲の様子を伺うと、子猫をそっと抱いた。傘をさしながら、そのまま家に連れて帰った。
「お母さん、ただいま。猫を連れてきちゃった」
梓の声を聞いて、母は目を丸くした。梓の胸元のふくらみを見て、悲鳴を上げるように叫んだ。
「駄目じゃないの。そんな猫なんて連れてきちゃったりして……」
梓には、母がそう反応を示すことはわかっていた。母は大の動物嫌い、その中でも人に懐かずに気ままに動きまわる猫は、特に苦手だったから。
梓はとっさに言い訳をした。
「雨だったから、可哀そうになっただけ。何か食べさせたらすぐに連れて行くよ」
そう言って、眉間に皺を寄せる母を振り切った。梓は来ていた制服から部屋着に着替えることも忘れて、冷蔵庫の中からミルクを取り出した。電子レンジで温めて、子猫に飲ませた。お腹が空いていたのか、子猫はぴしゃぴしゃと音を立てて、全部飲みほした。
「ごめんね。うちじゃ、あなたを飼ってあげられないの。毎日、食べ物を持って行くから、あそこで我慢してね」
梓は、子猫を撫でながらそう言った。何も知らない子猫は、無邪気に梓の掌をぺろぺろと舐めた。
そのとき、梓は子猫の身体を見ていて、ふとひらめいた。
「そうだ、あなたに名前を付けてあげよう。『チャトラン』はどう? 茶トラの猫だから『チャトラン』……ちょっと単純すぎるかなぁ」
チャトランは梓の顔を見て、ニャーと鳴いた。その名前が気に入ったのかはわからなかったけど、とにかくチャトランは嬉しそうに鳴いていた。
梓は、自分の部屋に置いてあったブランケットにチャトランを包んだ。そして、雨の中をまた歩いた。向かったのは、チャトランが元いた公園。
「ごめんね。ここで我慢してね」
そう言い残して、箱の底に持ってきたブランケットを敷いてあげた。その上にチャトランをそっと置くと、梓は俯き加減で公園を後にした。
梓はそれから毎日、学校から帰ってくると、チャトランの元に駆けつけた。家からミルクや柔らかい食べ物を持ち出して、チャトランに飲ませたり食べさせたりした。チャトランは、みるみるうちに元気になっていった。箱の中から飛び出して、公園を探検した。散歩に来た犬に驚いて、また箱の中に逃げ込んだ。
やがて、梓に彼氏ができた。同じ高校に通う同級生だった。高校に入学してから、梓は彼のことがずっと気になっていた。でも、クラスが違ったし部活も違った。声をかけたくでも、何を話せばよいのかわからなかった。
あるとき、たまたま部活の帰りに、学校の門の前で彼とばったり会った。最初に話しかけたのは、彼の方からだった。途端に、梓は頬を赤らめる。最初に自分が何を話したのかは、もはや覚えていなかった。だけど、恥ずかしさはすぐに消えた。部活はどうかとか、難しい勉強のこととか、話し出せば話題はいくらでもあった。そんな二人が、付き合いを始めるのは、ある意味自然なこと。帰る方向が同じだった。だから、学校から駅までの道で、そして電車の中で、たくさん話ができた。
彼の名前は、武志。中学校から始めたサッカーを、高校に入ってからも続けていた。長身で、端正な顔立ちをしていた。話の途中で見せる爽やかな笑顔が、梓の心をがっちり掴んだ。
武志とのデートと言えば、お互いの育ったところを行きすることが主だった。武志が生まれ育ったところは、コンクリートの建物が所狭しに立ち並ぶ、駅近くの一角だった。ある意味で、遊ぶ場所には事欠かなかった。カラオケボックスやボウリング場など、二人で楽しく過ごせる場所はいくらでもあった。
一方で、武志が梓の家の近くに来たときは、たちまち行き場所に困った。まさか、武志を梓の家に上げるわけにはいかなかったので、二人が向かった先はあの公園だった。あそこなら、梓の家からほどよく離れているので、家族に見られる心配はなかった。
武志との付き合いは、ときにはけんかをしながらも、順調に続いた。だけど、月日が経つのは早かった。梓と武志の青春の日々は、あっという間に過ぎ去ろうとしていた。
梓たちが高校三年生になる頃、二人の心の中には、『進路』という二文字が、重くのしかかってきた。それは二人にとって、どうしても避けられないことだった。
二人が、いつものように、梓の家の近くの公園で佇んでいたときのこと。梓の顔色を窺うように、武志がぽろりと口にした。
「俺な、東京の大学を受けようと思うねん」
梓は、血の気が引くのを感じた。それは、これまでの梓との会話の中で、武志がそれとなく触れていたことだった。武志には、システムエンジニアになるという夢があった。武志は、それを専門的に学ぶことのできる大学が、東京にあることを高らかに話していた。梓はこの日が来ることを、何よりも恐れていた。どうか、彼の気持ちが変わってくれるようにと、祈っていた。だが、武志の意思は変わらなかった。
梓は、心の中が真っ白になった。返す言葉に詰まった。
「そっ、そうなんだ。武志が決めたことだもんね……」
不意に出た言葉だった。本心からではないが、そう言うしかなかった。
ベンチに座る二人の間を、沈黙が支配した。
その長い沈黙を破ったのは武志。
「俺、いろいろ考えたけど、やっぱり自分の夢を追い求めたいねん。日本一のシステムエンジニアになって、日本中の人たちの役に立ちたいねん」
武志が熱く語る一方で、梓は口を固く閉ざした。もはやそれ以上、会話が続かなかった。
そのとき、俯く梓の足元で何かが動いた。動いたというよりも、何かがそっと触れたと言った方がよかったかも知れない。いつからそこにいたのだろうか。チャトランだった。茶色と白の優しい毛並み、背中には成長に伴って現れた白い斑点が、照明に照らされて浮き上がって見えていた。チャトランは、気まずい雰囲気の二人の間を取り持つかのように、二人の足元に寝そべった。再び、二人の間を長い時間が支配した。
武志は、志望していた東京の大学に合格を果たした。一方の梓は、地元で心理学を学べる大学に合格した。
合格を勝ち取った二人の間に、喜びはなかった。二人が離ればなれになるのは、もはや確実になったのだから。梓は、武志の口からそれを言われるのを覚悟していた。
武志に呼び出されて、梓は通い慣れた夜の公園に向かった。
梓は武志が切り出すのを、じっと待っていた。胸が張り裂けそうだった。逃げ出したくなりそうだった。
やがて、武志が沈痛な面持ちで口を開いた。
「俺たち、これから離ればなれになってしまうから、もう別れよう。その方が、お互いのためやし、梓もきっと、新しい誰かと出会えると思う」
梓の瞳から涙がこぼれた。それは、止めどなく流れた。武志が、そっと梓を抱く。いつもと違う冷たい感触。梓は武志の腕の中で泣き続けた。涙が枯れるまで泣き続けた。そして、どれだけの時間が経っただろうか。
「私、武志を応援するよ。武志、ずっと言ってたもんね。日本一のシステムエンジニアになるって。だから、必ず夢を実現させてね」
梓は声を振り絞って、笑顔で言った。最後は涙を見せたくなかった。
「俺、梓に出会えて幸せやった。梓といっぱい喋って、それにけんかもたくさんして、俺、人の気持ちがわかった。誰かに大切に思われることが、どれだけ幸せなことかを知った。梓には本当に感謝してる。今まで、こんな俺のことを思ってくれて、本当にありがとう」
武志は、別れ際にそう言った。そして、手を差し出してきた。最後に武志とがっちりと握手をした。お互いの前途を祝福するための握手。
やがて武志は、座っていたベンチを後にした。暗闇の中を遠ざかっていく武志の後ろ姿を、梓は必死に目に焼きつけていた。
武志が去った後、梓は魂を抜かれたように、その場に呆然と立ち尽くしていた。それからだいぶ時間が経ってから、足元にチャトランがいることにようやく気がついた。チャトランは、梓の両足にすり寄ると、梓の顔を見上げて優しく鳴いた。それは、まるで梓のことを慰めているようでもあり、元気づけているようでもあった。梓はチャトランを抱き上げると、さっきまで武志と一緒に座っていたベンチに腰かけた。
チャトランは、梓に抱かれながらうっとりと目を閉じた。その感触は、温かかった。柔らかかった。梓はそんなチャトランの温もりを、全身で感じていた。そう、梓は一人ぼっちではなかった。
梓は、晴れて大学生になった。大学での勉強は、高校までの勉強とは違って、新鮮で楽しかった。アルバイトを始めたり、サークルに入って活動を始めたりした。それらの新しい環境が、武志との別れの寂しさを少しずつ紛らせてくれた。
やがて梓は、同じサークルの先輩と恋に落ちた。心の中にぽっかり空いた穴を埋めようと、夢中で身体を重ね合った。しかし、それも長くは続かなかった。先輩に好きな人ができたのだった。
傷ついた梓は、再びあの公園に向かった。そこには、チャトランがいたから。俯き顔の梓に、チャトランは何も言わずにそっと寄り添ってくれた。
そんなチャトランに異変が起こったのは、梓が大学四回生に上がった頃だった。梓は、就職活動の真っ最中にいた。連日のように、会社訪問を繰り返す日々。見慣れぬ場所に行くのは、梓の気力をすり減らした。梓は、身も心も疲れていた。何かに惹かれるかのように、梓の足は公園に向かっていた。自分のことを「大丈夫だよ」と言って受け入れてくれる、チャトランに会うため。梓は、温もりを求めていた。自分を包み込んでくれるあの温もりを、探し求めていた。
ひっそりと静まり返った公園、そこにチャトランの姿はなかった。公園の中を隈なく探した。「チャトラン」と、何度も声に出して呼んでみた。だが、彼は姿を見せなかった。
途方に暮れた梓は一人、ベンチに腰かけた。そこから公園の中をぼんやり眺めてみる。見慣れた景色に向かって、梓は必死に彼の姿を探していた。
「チャトラン、どこに行ったの? 私を一人ぼっちにしないで」
と、心の中で悲痛に叫びながら……。
物音一つしない公園。一つだけある照明が、公園の中を寒々と照らし続けている。
梓は、ふと考えた。私はこれまで、寂しくなったらいつでもここに来た。そして、彼の温もりを感じていた。でも、今はそんな彼の気配すら感じられない。それはもしかしたら、彼は私に何かを伝えようとしているのかも知れなかった。それは……「梓なら大丈夫だよ」と。
梓は、彼と過ごした日々を振り返った。初めて出会った日の雨の音、武志と過ごした楽しかった日々、そして新たな一歩を踏み出した日の涙。ふと、彼の鳴き声が聞こえた。あたりを見渡してみたが、何もなかった。空耳だったのだろうか。
梓は、社会人になっていた。臨床心理士として、市の教育施設への就職が叶った。最初に配属されたのは、不登校に悩む子供たちを見守るための施設。そこには、さまざまな悩みを抱えた子供たちがいた。梓は、はじめこそ、子供たちとどう関わったらよいかに悩む日々を送っていたが、梓の前向きな姿勢が彼女自身を支えた。梓はそこで、みるみるうちに能力を発揮していった。
仕事が順調な分、梓はプライベートを犠牲にしていた。不登校の子供が増えるにつれて、連日のように残業が続いた。休日も専門書を読み漁って、新しい知識を身に着けようと躍起になる日々。梓はそんな毎日に、物足りなさを感じる暇もなかった。
そんなある日の午後、休日を家で過ごしていた梓は、ぶらりと外に出てみようと思った。息抜きに、近くのコンビニに買い物に出かけたくなったから。あの公園の横を通り過ぎようとして、不意に足が止まった。何かにつられるように、中に入ってみる。そして、甘く切ない青春の日々を過ごしたあのベンチに腰かけた。
途端に、懐かしい思いに包まれた。足元ですり寄る誰かの温もり、耳元でささやく優しい鳴き声……そうだった。チャトランだった。梓はとっさにあたりを見まわして、彼の痕跡を探してみた。ベンチの下、茂みの中、そこにはもちろん彼の姿はなかった。ある日、梓の心の中に何かを言い残したまま、彼は長い旅に出たのだった。
不意に、武志のことが頭を過った。東京に出て行ったまま、彼からの連絡はなかった。一度、高校の同級生が集まる機会があって、梓はそれに参加したが、そこにも彼の姿はなかった。武志は今頃、どうしているのだろうか。東京で夢だったシステムエンジニアになって、日本中を駆けまわっているのだろうか。
もう終わったことなのに、梓の頭の中では武志のことが駆け巡っていた。できることなら、もう一度、武志に会ってみたかった。夢を叶えた武志の姿を見たかったし、ここに残って頑張ってきた自分の姿を、彼に見てもらいたかった。彼なら、何と言うだろう。「梓、一生懸命頑張っているね」と言って、かつてのように私を強く抱きしめてくれるだろうか。
気がつけば、そこに座ってからだいぶ時間が経っていた。いつしか西日が公園のブランコやすべり台を、オレンジ色に染め始めていた。ふと、寂しさを覚えた梓は、後ろ髪を引かれる思いで、そっとベンチから立ち上がった。そしてコンビニに向かって、とぼとぼと歩き出した。
武志は、久しぶりにこの駅で降りた。駅前の風景は、昔と少しも変わっていなかった。変わったといえば、昔よく行ったカラオケボックスが、ファミリーレストランになっていることくらいだろうか。
武志がこの地に戻ってきたのは、大学四回生のときの正月以来だった。大学に通っていたときから、武志はほとんど実家に帰ってこなかった。東京での生活は何一つ不自由がなかったし、向こうで親しい友人たちにも恵まれて、一人暮らしの寂しさを感じることもなかった。
武志は、東京の大学を卒業した後、大手の通信会社に就職した。この一年間は見習いとして、営業部や技術部などの部署を、ほぼ二か月おきに転々とする日々を送っていた。
東京も暑いが、大阪も暑かった。照りつける日ざしの中、武志は実家へと足をすすめる。実家のまわりには、小さな飲食店があちこちに軒を連ねていた。お店から漂ってくる匂いを嗅いでいると、お腹の虫が鳴ると同時に、ふと懐かしい気持ちになった。
ある飲食店の前で、何かが動いた。気になって近づいてみると、薄汚れた一匹の猫が、ゴミ箱を漁っていた。野良猫だろうか。自分の姿を見て、猫は逃げるかと思ったが、逃げなかった。茶色と白の猫、背中には白い斑点がうっすらと見えた。
武志は、記憶をたどった。いつかどこかで見た猫だった。夜の静まり返った公園、端にポツンと置かれたブランコ、隣には誰かの温もりがあった。そう思った瞬間、記憶がつながった。
「チャトラン? お前、チャトランじゃないの?」
武志の声を聞いたその猫は、ゴミ箱の上からぴょんと跳んで、武志の足元にすり寄った。
「やっぱりチャトランやん。こんなに汚れてしまって、お前、元気にしていたか?」
武志は、その場にしゃがみ込んで、チャトランの身体を撫でた。チャトランはグルグルと音を立てて、気持ちよさそうに腹を見せた。
武志は、どうしてチャトランがこんなところにいるのだろうかと、不思議に思った。あの公園からは、遠く離れているはず。
チャトランの温もりを感じながらそっと撫でていたとき、ふと梓のことが頭を過った。
「そうだ、梓はどうしているだろうか」と……。
あの日、武志は、自分の中の未練を断ち切るように、梓に別れを告げた。だけど、武志は東京に出てからも、梓のことを忘れる日はなかった。梓のことを忘れようと、大学の同期の女性と交際をした。でも、結局すぐに別れた。武志の心の奥に空いた隙間は、彼女と過ごすことでは埋められなかった。
武志は、薄汚れたチャトランの姿が不憫に思えた。だからチャトランを抱いて、実家に連れていった。驚きの表情を見せる母親の顔をよそに、冷蔵庫の中からソーセージを取り出して食べさせた。それから、お風呂に入れた。シャンプーで汚れた身体を洗った。汚れはなかなか落ちなかったが、何度かシャンプーをしているうちに、なんとか背中の白い斑点はくっきりと浮き出るまでになった。
チャトランの身体をドライヤーで乾かしながら、武志は悩んだ。きれいになったチャトランを、このあとどうするかということ。それにそれ以上に胸につかえるものがあった。それはもちろん、梓のこと。できることなら、梓に会ってみたい。梓に付き合っている人がいたならばそれまでのことだけれど、一日も梓のことを忘れられなかったことを正直に打ち明けてみたい。梓がどんな反応を示すかは、わからなかったけれど……。
心ここにあらずの武志をよそに、チャトランはきれいになった身体を舐めて、毛づくろいをしていた。
やがて、武志は決心した。「あの公園に行ってみよう」と。
そう思うのと、身体が動き出すのが、ほとんど同時だった。
公園までは、長い道のりだった。チャトランを抱きながらでは、まともに歩けなかった。だから途中で、チャトランをそっと地面に下ろした。チャトランは、武志の後を追うように、ずっとついてきた。
目の前に、見覚えのある景色が広がった。途端にチャトランは武志を追い越して、先を急いだ。その足はどんどん速くなっていく。
チャトランに先導されるかのように辿り着いた先は、誰もいないあの公園だった。チャトランは記憶を思い起こし、あたりの様子を確認するかのように、丁寧に匂いを嗅ぎながら公園の中をつぶさに調べてまわっていた。
「やっぱり、いるはずないよな。あれから五年が経って、梓は自分の人生を歩んでいるんだろうな」
僕の口から漏れ出た言葉。落胆や失望、後悔や寂しさなど、様々な感情が僕の心の中を渦巻いている。
武志は途方に暮れてベンチに腰かけると、空を見上げた。さっきまでのオレンジ色が、濃いブルーへと変わろうとしていた。かつての定位置を思い出したのか、チャトランが武志の足元でゆったりと寝そべっていた。
「武志、武志なの?」
どこからか、声が聞こえた。
武志は、まわりを見渡した。買い物の帰りなのだろうか、公園の入り口に、一人の女性が立っている。
「やっぱり武志だよね」
武志は立ち上がった。女性の声が、武志の記憶の中の声と一致したから。その瞬間、ビビッと武志の身体に電気が走った。
「あっ、梓、あずさなのか?」
武志は、声を上ずらせた。
間髪入れずに、女性が武志の元に駆け寄る。突然の出来事に武志はうろたえてしまい、凍りついたように身体の自由が利かない。
「武志、わっ、私、あなたにずっと会いたかった」
「あっ、梓……俺も、俺もずっと、梓のことを思ってた」
武志の言葉を確かめると、梓は武志に勢いよく抱き着いた。その瞬間、武志の身体にかかった魔法が解けて、身体が自由を取り戻した。武志はこれ以上ないほどに、梓をきつく抱きしめた。もう二度と、離れ離れになることのないように……。まるで、二人を隔てていた長い時間を取り戻すかのように、時間が経つのも忘れて、いつまでも抱き合っていた。
そんな二人の様子に誘われて、チャトランはすっと立ち上がると、二人の足元にすり寄った。
それから、二年後、二人はゴールインした。
武志は、運よく大阪支社への異動が叶った。
二人は、梓が生まれ育った場所の近くにアパートを借りた。新築のアパートにしては珍しく、動物OKの物件広告が決め手になった。
ある日の午後、梓と武志は挽きたてのコーヒーを楽しみながら、ダイニングで佇んでいた。ベランダの窓から穏やかな日ざしが降り注ぐ、のんびりした休日だった。
武志は、ふと呟いた。
「それにしても、俺があのとき、たまたまチャトランを見つけたから、こうやって梓と再会できることになったんよなぁ」
それを聞いていた梓は、コーヒーカップをゆっくりとテーブルに置いた。そのまま視線を、窓辺で寝転ぶチャトランの方に向ける。
「そうだよね。私は、仕事に就いてから毎日が忙しくて、あの公園にはずいぶん長いこと行ってなかったの。あの日、私は何故かあの公園に行ってみたいと思ったの」
武志も梓に倣って、視線をチャトランの方に向ける。
「それじゃ、俺たちはたまたまあの日、あの公園に行くことになったってことかぁ」
横目に見る梓は、目をうっとりとさせていた。その瞳の奥には、そのときの映像が鮮明に蘇っているようだった。
「チャトランって、不思議なのよね。私が高校生のとき、初めて出会ったときから始まったのよ。私が寂しいときは、いつもそばにいてくれたし、武志と一緒にいるときは、やさしく見守ってくれていた。そんなチャトランが突然いなくなったときは、私は寂しかったわ。私は、チャトランから『大丈夫、梓は頑張れるよ』と、言われたような気がした。だから、私は、自分の力で懸命に生きようとした……」
「へぇ、チャトランが……」
「そんな私を、チャトランはどこかで見ていてくれたのかな。こうして武志を連れて帰ってきてくれた。それも、最高のタイミングでね。だから、チャトランは私たちのキューピットなのかも知れないね」
「へぇ、キューピットかぁ。なんか、不思議な話やね」
「そう、ほんとに不思議な話なの」
そう言って、梓は口もとを緩めた。
チャトランは、そんな二人の話を聞いていたのだろうか。そっと立ち上がると、伸びをして「ニャー」と鳴いた。そして、二人の足元にすり寄ると、安心したようにまた寝そべった。
僕の名前はチャトラン。ある日、僕は女の子に拾われた。そして、『チャトラン』と名づけられた。茶色のトラ猫だからチャトラン。ちょっと、単純すぎるかな。
女の子が、ハンサムな男の子を連れてきたときは、少しやきもちを妬いてしまった。だけど、二人の傍にいるとなんだか気持ちがよかったから、二人が一緒になれたらいいなと思った。
あるとき、僕は旅に出た。住み慣れた場所を離れるのは寂しかったけど、僕は決心した。僕は、雨の日も風の日も夢中で歩いた。そして行き着いたところがあそこ。食べ物はたくさんあったけど、怖い思いもいっぱいした。
今、僕は、二人と一緒に暮らしている。ここにいると、温かくて気持ちがいい。そして何よりも、二人のそばにいるだけで、僕は幸せな気分になれる。これからそんな二人と一緒に、僕はどんな日々を送るのかな。
あぁ、なんだか眠たくなってきた。二人の足が僕の格好の枕。
「どうか、これからも二人が仲良しでいられますように……」




