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王冰

平安時代の「承和の変」を舞台にした歴史ファンタジーです。

 空海という倭国から来た坊主は、哀しい目をしておった。


 何故、お節介にも「穢れを祓ってやろう」と言ったのかは分からない。


 ワシにも、人の心が少し残っていたのだろうか?


いや、ワシには心がない。


全ての心を抜いてしまったからだ。


あの頃のワシは普通ではなかった。


 妻を流行病でなくしてから、男手でひとつで育て上げた十三歳になる一人娘を、幼女趣味の役人に殺されて、心が壊れてしまったのだ。


 自暴自棄になったワシは、当時、黄帝内経の第七巻「不老不死の章」を共に研究していた鑑真に縋って、「殺してくれ」と哭いた。


 すると鑑真は、「極楽浄土に送ってやる」と言って、ワシの心を全て抜いてくれたのだ。


 ワシを助けるというよりも、人体での実験が目的であったのだろうが、鑑真もこの実験で命を落としかけ、何とか一命は取り留めたものの、視力を完全に失ってしまう。


鑑真は光を失い、ワシは心を失った。


 そして、そのお陰でワシは不完全ながらも「虚ろ」となりて、娘を失った哀しみから解放されたのだ。


ワシには、美しい花を美しいと思う心がない。


親しい人が死んでも、哀しいとは思わない。


 何かを成し遂げなければという意欲も、喜びも哀しみも、不安さえ湧き上がってこないのだ。


ただ、生きているだけ…


いや、生きてさえいない。


 今も、何の感慨も持たずに、何千回と繰り返してきた作業に没頭している。


 自ら開発した自作の鍼を手にすると、空海のうなじにある穢れの道に突き立てた。


 そして、鑑真に教えられた穢れを呼び寄せる陀羅尼だらにを唱える。


穢れに呪を掛けてやるのだ。


 すると、空洞になっている鍼の尻から、水蒸気のような穢れが吹き出してきた。


 ワシは、その穢れを何の迷いもなく口から深く吸い込んでいく。


 こんな真似が出来るのは、この世界で「虚ろ」であるワシだけであろう。


「俄か(にわか)」という例外はあるものの、そんな人間が誠に存在するのかは定かでない。


 鑑真も、ワシを「虚ろ」に変えようと不老不死の法を試す折に、穢れを口にしたが、穢れに取り込まれて死にかけたのだ。


 黄帝内経にも、不老不死の法が行えるのは「俄か」か「虚ろ」だけだと記されている。


 そして、「虚ろ」のワシには、そもそも穢れに取り込まれる心がない。


 何故、ワシが人の穢れをこの身に取り込もうとするのか…


それは、少しだけ心が震えるからだ。


 人の穢れには、その人の辛い記憶が刻み込まれている。


 その辛い記憶が、ワシの死んだ心に波紋を投げ掛けてくれる。


 痛みを感じないワシにとって、痛みは、不幸ではなく幸福だった。


 まるで、凪いだ水面みなもに、一滴の雨粒が落ちるように…


 そして今、体内に取り込んだ空海の穢れは戸惑っている。


「略奪してやろう」と乗り込んだ屋敷が、もぬけの殻だったからだ。


 しかも、乗り込んだ屋敷に閉じ込められてしまって、焦っているのだろう。


 やがて脱出を諦めた穢れは、様子を窺うようにワシの中で小さく纏まり始める。


 ワシが、その穢れに意識を集中させると、穢れの中から、金属を擦り合わせるような雑音が聞こえてきた。


 更に意識を集中させると、急に、若い男の叫び声が聞こえてくる。

読んで頂き、本当にありがとうございました。

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