裏返しスカート
約三年ぶりの投稿となります。
よくある思春期事情+ちょっと変わったポリシー=裏返しの意味?
けっこうピリピリした場面もありますが、最後まで読んで頂けると幸いです。
俺の中学には制服がある。
男子と女子は違う制服で、どちらも夏服と冬服の2種類。合計4種類の制服だ。
冬服で、女子はYシャツと上着とスカート、それにリボンを課される。
上着とスカートは紺色。Yシャツは白だ。リボンは上着とスカートより少し明るい紺で、小さいながらもつけると映える。
男子の俺からしてみればその制服は、冬なのに薄着だな、くらいの認識しか持たなかった。
周りの中学、特に私立なんかには、もっと可愛い制服もある。
だから卒業すれば、いつかは記憶から消えてしまうだろう。そのくらい俺にとって、女子の制服はどうでもいい存在だった。
それを忘れられないほどに膨らませたのは、他でもない俺の幼馴染み。
そいつは――内津うららはある日、制服を裏返しに着てきた。
ドジな奴だと思ったのは最初の一日だけ。
それから毎日、内津は制服を裏返しに来て学校にやってきている。
*
「あ、まただぜ宇井。裏返しだ」
「これで10日連続だよな……すげぇぜ」
朝。すでに大抵の生徒が教室にいる、ざわざわとした教室の中に、今日も内津は現れた。
がら、と前の扉を開けて入ってきた内津は、今日も変わらず裏返しだった。
バッグを肩に掛けて、ほとんど水平に真っ直ぐ前を見ながら、黒板の近くでチョーク遊びをする早乙女と原田さんをスルーして、すたすたと窓際へ。
裏返しに着ているのは、全てだ。Yシャツもスカートも、上着もリボンも裏返し。
遠目にみたらよく注意しないと分からないが、近くで見ればすぐ分かる。
あの日俺は、リボンに裏表があることを初めて知った。しかしそれは、本当に些細な発見すぎて、全体からしてみればどうでもいいことだった。
「おはよう」
「……あ、おはよう」
出席番号順に窓側から並んだ席で、内津は3番の席に座っている。
今、内津が挨拶をしたのは、1番の相川さん。
彼女はなるべく内津の姿を見ないようにして、返事を返す。最初の1日、2日は驚いていたが、10日も経てば慣れるものだ。
「蔵人、おはよう」
そして今度は、2番である俺に挨拶をしてくる。そばでしゃべっていた山本と菅原には目もくれず、それが決まりであるかのように、俺にだけ目を向けて。
「おはようさん」
俺が返すと、それには何のリアクションもせずに、3番の席に内津は座った。
昨日と同じ。一昨日とも同じだ。
裏返しに制服を着てくるようになってから、内津うららは何一つとして変わりない。
何一つとして。 制服を裏返しに着てくるようになったこと以外は、俺の幼馴染みだった『11日前の内津うらら』に完全に似ている。
そして、それだけだった。裏返しの内津うららは、10日前からずっと、壊れたテープみたいに11日前と同じ行動を繰り返しているのだ。
「なあ、宇井」
「なんだ」
バッグから朝読書の本を取り出して、読み終わらない本を内津がまた読み始めたのを確認すると、小さな声で山本が俺に話しかけた。
菅原は居心地が悪くなったのか、自分の席に帰ったらしい。脱兎のような奴だと思った。
しきりにチラ見で内津を見ながら、山本は俺に疑問を投げてくる。
「内津さ、俺たちのこと見えてたかな」「見えてるだろ。同じ行動ったって、授業には毎日違う教科書持ってくるし、誰かが話しかけたら雑談もしてたろーが。もう話しかける奴いねーけど」
「でもなんか恐くね? お前、なんか理由知ってる?」
「知らん。つーかお前、それ俺に聞くの2度目」
「でもお前、内津の家近いんだろ。幼馴染みなんだろ」
「家が近いからって親睦が深いと思うなよ。中学に入ってからは、たまに話す程度だったし」
「そりゃそうだけどよ」
「ねぇ、内津さん」
俺と山本は後ろを向いた。女子の中でも顔とスタイルが良い、人望のある弓野さんが内津に話しかけていた。
嫌な雰囲気。
「弓野さん、おはよう」
「おはようじゃなくてさ」
「今は朝だから、おはようだよ」
「そうだよ? だから、それはそれとしてさ。昨日委員長が言ったと思うんだけど」
「……?」
どうやら人望に厚い弓野さんは、学級委員長である三沢っちが昨日ついに内津の制服に触れたのを見て、自分も触れなければいけないと思ったようだった。
俺は山本と目を見合わせて苦笑いをする。同じことを山本も考えたようだった。
考えを裏付けるように、少し語気を強めた弓野さんが、腰に手を当てて内津に言う。
「制服。裏返しに着るの、やめなよ。見てて気持ち悪いんだけど」
何人目だろうか、また放たれた俺たちの問い。例え無駄だと分かっていても、知りたくなってしまう問題。
しかし、その問いを誰かがすると、内津うららは必ずこう答えるのだった。
「え? あたし、ちゃんと表着てるけど。弓野さんこそ、それ裏だよね」
――机を叩く、荒々しい音がした。嫌な雰囲気が重くなって弾け、また、誰かの怒りをつのらせる。
今日は弓野さんだった。
「あんた、さ……どうなってんの? 自分の姿、鏡で見たことないの? そっちが裏に決まってんじゃん」
「表だよ」
「裏だよ! 何人も、先生も今まで注意したでしょ? っつーか、ちょっと前まではあんただって、表を着てたじゃん」
「間違えてたんだよ」
「正しかったんだよ! どうしたら表と裏を間違え続けられるの? しかも制服だけ。意味分かんない」
「弓野さんの方が意味分かんないよ」
「はぁ!? ……ねぇ、今なんて」
「待ーった」
と、内津に掴みかかろうとした弓野さんを、近くの席で傍観していた佐々木さんが止めた。
バレー部なだけあって腕の力は強く、弓野さんの華奢な腕はがっちりと抑えられてしまう。
「やめなよ、それ触れちゃいけないんだって。ごめんね、うららちゃん、そっちが表で合ってるよね」
「何よ三穂、止めんの? アタシが正しいのに食い下がれっての?」
「だからさ、ゆみのん、多分だけど、なんかあったんだって内津さん。ね?」
「あたしはなにもなかったけど」
「……本人はああ言ってるけどさ。そっとしてあげようって」
「…………分かったよ」
菩薩のような声で、佐々木さんは弓野さんをなだめる。なんだかバカらしくなったのか、弓野さんはとぼとぼと自分の席に帰っていった。
これで確か3回目。毎度毎度えらいなと、俺は佐々木さんを改めて尊敬する。
内津は弓野さんが最後に放った恐ろしい舌打ちを平然とスルーし、また席に付くと朝読書の本を読む。
俺と山本は、一部始終を見届けるとまた顔を見合わせた。
「えっと……じゃあ宇井、モンハンの話しようぜ」
「すまん、俺やったことないんだ」
「つれねぇ奴だな!」
「魚か!」
そして、俺と山本は、数秒で内津をスルーすることに決めた。
きっとこれが正解だ。 佐々木さんのようにまで徹底しなくとも、例え家がちょっと近くて小学校の時は交流があろうと、こういう時はこうするのが正解だ。
先生ですら、そうなのだ。最初の日から3日目くらいまでは注意していたが、
数学のメガネ教師が「それが表だってなら裏返しに着てなさい!」とヒステリーぎみに言った時、内津がその場で服を脱ぎ始めた例が広まったらしい。
担任から廊下ですれ違う先生まで全員が、内津の制服についてはもう触れなくなってしまった。
だからきっと、これが正しい選択。
そのはずだ。
そのはず、なんだ。
俺は自分にそう言いきかせ、担任が教室に入ってくるまで山本とバカ話に興じた。 内津の制服は、気になるが、触れない。10日目にして改めて、俺はそう決意することにした。
その決意が崩されたのは、昼休み。
「ね、宇井くん。宇井蔵人くん」
崩したのはなんと、菩薩のような尊敬するべき心を持った、バレー部の佐々木三穂だった。
*
「……つまり、俺からあいつに聞いてみろって事?」
「そゆこと。放課後はうららちゃん、真っ直ぐ家に帰るんだよね。私が屋上にさりげなく誘導するから、そこで聞いてみてくんない?」
佐々木三穂と話すのは始めてだった。だが実際話してみると、毎回怒った人をなだめるだけあって、人当たりのいい話し方で相手を安心させてくる。 運動に邪魔になる髪はショートだが、伸ばしたら弓野さんと同じくらい可愛いんじゃないかと思わせる顔も、その親しみを助けていた。
ちなみに内津は毎日髪を切っているみたいで、肩までのセミロング……だったか、の髪型を10日間全く同一にキープしている。
変わらないどころか、変えさせないような気迫さえ感じる。すごくおかしな話だと思うが、それ以上に裏返しが変なので、小さな狂いが大きな狂いに隠されてしまっている感じだ。
「でも、俺が聞いたって変わらないっぽくないか? 保健室の先生でも首を振ったって噂なのに」
「そうかもだけど……ゆみのんに目、つけられちゃったから。このままだとうららちゃん、いじめの対象になるかもしれないし」
「あいつ、そんな悪いやつだっけ?」
「違うの。ゆみのんは愚痴るだけなんだけど、ゆみのんの周りの矢口とか羽橋ちゃんとかが黙ってないから……」
聞くと、女子の世界はなんだか恐いらしい。
一度いじめが始まってしまうと、誰も彼も歯止めが聞かないくらい暴走して、しかもそれを正当化しようとするのだとか。
「去年、プールの授業で胸じろじろ見られたってゆみのんが言ったら、その子に非難が集中して」
「女子なのにか?」
「女子でもだよ。まあゆみのんは軽い愚痴で言っただけかもしれないけど、それでその子、水着盗まれたりして……今、不登校」
と、佐々木さんは左手の人指し指で、教室のある一点を指差した。27番の、たしか平坂って女子の席……のはず。自信はない。
何せ一学期からずっと一回も登校してきてないんだから、当たり前の話だが。てか、このクラスなのかよ。
「だから宇井くん、ちょっと頼むよ。私のモンハン貸してあげるから」
「おい、さりげなく山本との会話聞いてただろ……」
「え、私がモンハン300時間プレイしてるとこには突っ込まないんだ」
「女子でゲーマーなくらいじゃ、今更動揺しねえよ。あと山本は1000時間廃人だ」
「おー……うん、その意気だよ宇井くん。じゃ、放課後頼むね?」
「待て、まだ引き受けるとは言ってねぇだろ!」
俺が軽くジェスチャーしながら叫ぶと、席に戻ろうとしていた佐々木さんは驚いた顔で振り返った。
「え? なんで?」
「なんで、って」
「今、完全に聞いてくれる流れだったじゃん」
「いや、だって……俺が聞いても変わらないと思うぞ。モンハンも貸してもらわなくていいし、てか大体、なんでそこまでするんだ?」
少し打ち解けてしまったからか、俺は正直に自分の気持ちをぶつけた。
佐々木三穂は確か、内津と仲がいい訳ではなかったはずだ。リーダーシップを発揮したこともなければ、バレー部のエースだって噂も聞いたことがない。
内津は手芸部だから、接点は完全にないはず。
なのに俺に頼んでまで内津を説得しようとするのには、彼女なりの理由があるのだろう。
と、思って言ったのだが。
佐々木さんから返ってきたのはあまりにも、簡潔ですげぇ答えだった。
「あー、いじめがあるとさ。毎日毎日、体育館の裏がうるさいんだよね。私、健やかな環境で練習したい女の子なんだ。悪いかな?」
笑いながらそう言って、それはまるで菩薩のようだった。
やっぱこの人は、尊敬できる。俺は率直に、そう思った。
「それとね、もうひとつ」
「?」
さらに一押し。最後に、佐々木さんは。嘘かホントか分からない言葉を、にこやか表情を変えずに俺に吐く。
「宇井君は、気づいてないかもしれないけどさ。内津さんこの10日間、君ばっかり見てるんだよ? 脈はある、と思うけどな?」
「……マジ?」
*
俺と内津うららは幼馴染みだ。
家が同じ地区にあって、その地区に同学年の子供が二人しかいなければ、必然的にそうなるのだ。
家に遊びにいったのも一度や二度ではない。
幼稚園、小学校。
近くの原っぱやら神社で、俺と内津はお菓子を巡って追いかけっこしたり、ゲームで遊んだりを繰り返していた。
「蔵人ってさ、ゲームのキャラの名前みたい」
「それ言わないでって言っただろ!」
……今思うと、その頃から俺は突っ込み役だった気がするんだけど、多分気のせいだろう。
とにかく、お互いに兄弟がいなかったのもあって、俺と内津うららの仲はかなり深かった。と思う。
だが、それも中学まで。よくある話は、よくあるからよくある話なのだ。
女子と男子の壁は厚く、俺は山本や菅原たちとつるむようになり、内津は内津で他の女子と遊ぶようになった。
1年のときは違うクラスだったから、尚更だ。陸上部は忙しかったし、帰る時間も合わなかった。
だから、2年になって同じクラスになっても、内津のことなんてすっかり頭の隅に追いやられていた。
でも、そんな俺でも。
制服を裏返しに着る内津の心は、やっぱり気になるのだ。
中学生の内津うららは、小学校のころとあんまり変わっていなかった。
こうなる前は俺にも話しかけてきたし、人を小馬鹿にするような言葉も健在だった。
だけど。少なくとも、俺の知る内津うららは、制服を裏返しには着ない。
それに……違和感は、それだけじゃない。何かが足りないような、そんな違和感が。
裏返しの内津うららには、あるような気がするのだ。
「あ、蔵人」
「よう」
「佐々木さんは? あたし、あの人に呼ばれたんだけど」
「佐々木は来ないよ。俺とお前だけ」
屋上で、制服を裏返しに着た内津は、待っていた。
立ち入り禁止のはずなのに鍵のかかってない、雨上がりの屋上。
フェンスが張ってあるからまさか飛び下りはしないだろうが、内津はフェンスに背を預けて扉を見つめていたらしい。
風でセミロングの黒髪が揺れて、フェンスに引っ掛かっている。
もしフェンスが外れたら、なんて、考えていないように見えた。
「そう、佐々木さんは来ないんだ」
何の感情も含まない声が、俺の耳に入ってくる。
昨日の雨で屋上の一部には、大きな水溜まりが浅い池を作っていた。
俺はそれを避けながら、内津の隣まで歩いていく。
広いようで狭い屋上。内津の隣のフェンスに体を預けるのに、多分20秒もかからなかった。
「じゃあ……佐々木さんの用事を、蔵人が伝えにきたの? じゃなかったら、蔵人の用事を、佐々木さんが」
「いや、前者で合ってるよ。……で、さっそく本題。なんでお前、裏返しなの?」
俺は空を見上げて、漫画とかならこんな時晴れてるはずの空が曇っているのに腹を立てて、さっそく本題に入った。
どうせ答えは決まっている。そう思ったから、早く終わらせようとしたのだ。
部活は放課後、30分で始まる。
だから、説得できるとすれば30分。前口上なんて無しに短期決戦をかけるのは、理に叶った作戦だと思っていた。
「うん、分かってるよ。裏返しなんだよね、これ」
だけど――内津の答えは、俺の考えの、180度予想外だった。
「は?」
「弓野さんには、ああ言ったんだけどね。ホントはあたしも分かってる。こっちが裏で、今の裏が、ホントは表」
あっけらかんとした様子で、内津は言った。今まで誰にも言ったことのない言葉を、俺に。
いきなりだ。見ると、内津は俺の方を向いていた。淡々とした表情なのに、
目に、吸い込まれる。死んでいたはずの目が、力を持っている。どうして。
「なんで」
目に気圧されるようにたどたどしい声で、俺は呟く。
「じゃあ、なんで――」
数秒の間、屋上から音が消えた。水溜まりを風がなでて、波紋が広がるときに、小さな音を立てただけ。
「お父さんが、死んだんだ」
そして、その次に。
内津うららが紡いだ言葉は、俺の油断しきった心を貫いた。
「……な、」
「お父さん、この一年くらい、病気で入院してたんだ。で、この前の金曜日の夜に死んじゃって、葬式はもうやったの」
あっけらかんとした様子をまだ続けて、内津は衝撃の事実をこともなげに俺に告げる。
正確には覚えていないけど、内津の父さんと俺は、会ったことも話したこともある。
内津は、確か。内津の父さんのことを、かなり好きだったはずだ。
「そりゃ驚いた、っつーか……俺んちに連絡くらいしろよ。葬式とか、出たのに」
「お父さん、隣の市にいたから。隣の市で葬式したから、蔵人の家族には連絡しなかったんだ」
「隣の市?」
「うん。お父さんとお母さん、離婚してたから。姓は変えてないけど、ホントはあたし、大塚うらら」
――え?
「いつから」
「あたしが1年のとき。ちょっと、いろいろあって。けっこう家には来てたから、蔵人も気付かなかったと思う。
笑い声とか、聞こえたんじゃないかな。あはは。顔は笑ってないのに、人間って笑い声は出せるんだよね」
また、初耳だった。内津は俺の驚く顔に何のリアクションも取らずに、話を続ける。
「それで――病院に呼ばれて、お父さんを看とった後。病室にはお母さんと、看護婦さんと、お医者さんがいた。お母さんは、泣かなかった。もう、お父さんのこと、何も思ってないみたいで」
「……」
「あたしは。悲しかった。お父さんが死んでしまったのも悲しかったし、お母さんがもうお父さんを愛してないって分かって、悲しかった」
「内津……」
「でもあたし。あたしは、泣けなかった」
内津は。空と風に悲しみを飛ばされてしまったみたいに、怒るでもない、悲しむでもない、不思議な声で続けた。
「どうして泣けないんだろうって、思った。今すぐ、何も気にせずにベッドに突っ伏して泣きたいのに、どっかでそれを止めるヤツがいた。
ううん、止めてたのは、あたしだった。あたしは、あたしにこう言ってた。『こんな時だからこそしっかりしよう。みっともない真似はやめろ』――」
突然。フェンスから離れると、内津は屋上の、水溜まりのある方に歩き始めた。
「あたしはその時、あたしが嫌になった。家に帰って鏡を見たら、気丈な顔で誇らしげに笑うあたしが居た。『やった、泣かないですんだ。あたしは強い子だよね』」
俺が、ぴちゃぴちゃと音を立てて水溜まりに足を入った内津に追いつくと。
内津は、下を向いて。水溜まりに写った、自らを指差す。
「ふざけるな、って思って。あたしは、こいつを、殺すことにしたの」
――それから内津は丁寧に、俺に裏返しのわけを教えてくれた。
内津によれば、自らを良く見せようと頑張る自分は、『表』に張り付くものだったらしい。
だから『裏』……泣きたいときに泣ける自分だけを残して、内津は『表』を殺した。
内津の父さんと一緒に、自分を半分だけ引いていった。
「鏡を見ると。どれだけ殺したつもりでも、表のあたしが映ってた。だから、制服を裏に着た。あたしは変わったんだ、裏を表に出来たんだって、証明するために」
「だから、裏返しなのか……いや、だから、裏が表なのか」
「うん。だけど、だけどあたしはそれで、半分になっちゃった。だから、何をしていいのか、……分かんなくなっちゃったんだ」
内津に感じていた違和感を、ようやく俺は解決する。
何か足りないような、どころじゃない。今、内津うららは完全な体に、半分の心しかないのだ。
足りないのは当たり前。
同じ行動しか取れないのは、『次に何をするのか考える自分』が死んでしまったから。
「おかしいよね。あの日からあたし、何をしたらあたしになれるのか、全然分かんないままなの」
「……何で俺にだけは、話してくれたんだ」
「それは。蔵人は、あたしを知ってる、唯一の人だから」
「……?」
そこで俺は、気がついた。そうだった。俺に対する内津うららは、小学校の時と、全然変わっていなかった……。
女子の世界は、恐ろしい。『表』の内津うららが出来たのは、中学からだったんだ。
俺の知らない間に、内津うららは自分を作って。その自分を殺して、俺の知る内津うららに、戻ろうとして。
「ごめん。ホントは、蔵人ならすぐ、あたしに聞きにきてくれるかなとか思ってたんだ」
「…………」
「でも、そうだよね。半分だけのあたしなんて、触れようとしなくて当然だよ。蔵人は正しい。表も裏もなきゃ、ひとは生きられないもんね」
「……」
「じゃ、帰るね。ばいばい」 そして、それは、やっちゃいけないことだったんだ。
不完全な人間が、思ったことをそのまま言う人間が、前と同じように生活できるわけがない。
死んだ人間が戻らないように。ぽっかり空いた穴を埋めるように、自分を変えないといけなくて。でも、でもそれなのに――内津うららは変われない。
だって、変わりたくなくて、自分に穴を開けてしまったんだから。矛盾しているんだ。
裏表のない輪っかみたいに、
「止ま、れよ!」
俺はなにがなんだか分からない内に、その四文字を叫んでいた。
「止まれないよ」
叫んで、うららが返したのは否定だった。歩いていく、屋上から降りる階段のある方に向かって、自らのルールに従って。
でもそれはひどい歩き方だった。鎖を引きちぎろうともがいているのに引きずられている、囚人に近かった。
足を上げてから下げるまで、何度も震えて、何度も震えて、背を向けるうららの歯を食いしばる音は、10メートル離れた俺に伝わってくるくらいに大きくて。
「止まれ……る、だろうがっ!!」
俺は地面を蹴った。水たまりも、うららの顔が映らないくらい、ぐしゃぐしゃに歪ませて蹴ってやった。
掴む。陸上部を舐めんじゃねぇぞって心の中で独り言しながら、うららの肩を数秒で。
それでうららは止まった。階段室の扉までは2メートルもなかった。
内津うららは、泣いていた。いらつく水たまりが、涙を落として波紋する。
「止めて、どう、するの?」
「…………、っ」
嗚咽混じりのうららの言葉が、俺の心臓を締め付ける。止めたはいいけど、俺は全く何も考えていなかった。
ただ、ここでうららを行かせたらいけないような気がして。本当に、それだけだった。
どうすればいいのか迷っていると、肩から俺の手を払って、うららがゆっくりと息を吸って吐く。そしてまた、冷たく冷たく語り出す。
「蔵人は、優しいね。こんなあたしでも止めてくれた。触れてくれた。それがたとえ表だったとしても、あたし蔵人が大好きだった」
まだ、肩は上下しているのに。うららは呼吸ひとつすら乱れずに俺を評する。
表は建前、裏は本音。俺は『表』で動いたのか? だったら、俺の裏は、何なんだ。
――裏返せ。裏返すんだ。
前提も過程も結果も全部、裏返さないと答えは出ない。
「でもその気持ちだって、はんぶんになっちゃった。あたしバカなんだよ。バカなんだ。生きてるのもおかしいくらいの――ねえ、だから、放っといて!!」
記憶には、ある。昔の自分。内津のことをうららって呼んで、女子とか男子とか考えないで、無邪気に遊んでた自分。
でももう、あの頃には戻れない。ひとりじゃ絶対無理なんだ。
そうだ、1人じゃ答えは出ない。だったら俺を、そこに含めて……!
「だああああああっ! 畜生、ふざけんなっ!!」
「きゃっ!?」
もう一度しっかりと肩を掴んで。
俺は内津を、うららを、裏返した。
ずっと背中を向けていたうららは、俺に向かって向き直る。
驚いた顔のうららは、久しぶりのような気がした。
「分かった」
「わ、分かったって、何がっ」
「答え。75」
「な、ななじゅうご……?」
俺の中学には制服がある。夏服冬服、男女4種類。
冬服で男子は、いわゆる学ランを課せられる。運動会なんかの、暑苦しい学生応援団なんかを想像してもらえると分かりやすいだろう。
黒い厚手の上着は5つの金ボタンで留め、ズボンも地味に夏服より生地が厚くなる。ほぼ全国共通のものだ。
俺はそのボタンをひとつひとつ外して、上着を脱いだ。下は夏服で着ていた白いシャツだから、俺は周りから見れば夏服を着ていることになる。
「でも今は冬で、だからズボンは冬服だ。上はちゃんと着てるけど夏服。100点満点なら75点ってとこだろ」
「……蔵人?」
そして俺は、脱いだ冬服を――うららに押しつけてやった。
「着ろ。俺の25点。それでお前も75点だ。はんぶんからはランクアップだろ? ……100点とはいかないけどさ。お前の欠けた穴、半分埋めてやるから」
「……あ」
「だから、その……元気出せよ。半分だろうと、1ミリだとしても、お前はお前なんだからさ」
難しいことは、考えられなかった。むしろ、考える必要なんてないんだと気づくのが、遅すぎたと言うべきか。
俺の裏は最初っからこう言ってたんだ。それ以外は何一つ考えてなかった。
なのに俺は表側でいろいろ理由を付けて……こんな単純なことも、言えずにいたんだ。
「俺、お前の悲しんでる顔、見たくないんだよ。内津うららはそんなしんみりした奴じゃねえだろ」
「……!」
「俺に対してだったら、昔のお前でぜんぜん構わないから。だから……またいつか笑ってくれよな」
「くら、うど」
「うらら」
その時、俺から見て右側の、うららから見て左側の空から、中途半端な日が射した。
こういう時、モンハンみたいなゲームのヒーローなら、曇り空なんて吹きとばしちゃうのかもしれない。
でも俺はただの人間だ。ましてや75点の人間だ。1人だって救えないし、今までの世界を変えるのなんざできっこない。
でも、そんな俺の、こんな下らない言葉でも、ヒーローの4分の1の力があるのなら。
「……バカ、だよ。あたしも蔵人も」
「バカだろそりゃ。人間なんてみんなバカだ。山本も菅原も、弓野だって、佐々木だって、みんなバカだから生きてんだ」
「…………」
「……」
「バカ蔵人」
「なんだ、バカうらら」
「バカ。ありがと。……あたし、頑張るね」
誰かの助けの助けくらいには、案外なれるものなのだ。
*
屋上の扉が閉まって。屋上からは誰もいなくなる。
その日俺は久しぶりに、内津うららと一緒に帰った。
いろいろとちぐはぐな身なりの俺たちの中。
裏返しに見えるのは、彼女のスカートだけだった。
はい。あとがきです。
お前またシャツを裏返しに着てるぞ、と友人に指摘されることが多い、抜けた人間にしか書けなさそうなものを書いてみました。
よくアニメなんかだと裏の人格がどうの〜な話がありますが、現実にだって裏の人格はありますよね。ただそれを剥き出しにすると友達ができないんで、タマネギみたいにうまーくオブラートに包むもんです。
こう、できれば感想なんか頂けると小躍り出きるんですが、ここまで読んだくださっただけで感無量なのでどっちでもいいです。
もし頂ける場合、『表』でなく『裏』のコメントをぶちまけちゃって下さい。さすがに面と向かっては凹みますがここは生憎ネットですし、そのほうが励みになります。
では、また作品が出来上がるまで。