継母に虐げられていた私、ひょんなことから領主に見初められました。今更手のひら返しても遅いんですよ、お義母さん?
朝日が差し込む前に、リリアンは目を覚ました。二階の小さな部屋で、薄いかけ布団にくるまったまま、天井を見つめる。布は何度も繕われて、所々毛羽立っていた。
階下から継母──マルガレータの声が聞こえる。リリアンは深く息を吸った。
一日が始まる。いつもと同じように。
下階に降りると、マルガレータがキッチンの前に立っていた。リリアンを見た瞬間、彼女の顔つきは豹変した。
「遅い! 朝食の支度はお前の役目だろ。さっさとしろ」
「す、すぐに準備いたします!」
リリアンはエプロンをつけて、パンを焼き、バターを塗り、チーズを切った。手際よく。迷いなく。何年も繰り返してきた動作だ。父──ジョンがいる前では、マルガレータは別人になる。優しく、気遣わしく、完璧な継母を演じる。だが、彼が出かけた後は違う。
「お前はいつもそうだ。つまらない顔をして」
マルガレータはテーブルの前に座り、視線を落とした。
「テーブルクロス、新しいのにしたのか」
「あ、はい。こちらの方が清潔かと思いまして……」
リリアンは声を遮るように、マルガレータは手を振った。
「気に入らん。勝手に変えるな。それに、朝の光の入り方が気に入らん。カーテンの調整をしなかったのか」
「申し訳ございません。今すぐに……」
「まずは朝食の準備だろう。優先度もわからんのか」
「申し訳ございません……」
マルガレータは椅子に座ったまま、テーブルの上にあった本に目をやった。
『遠い国の歴史』。リリアンの本だ。
「これは何だ」
リリアンは一瞬、固まった。
「本です」
「そんなことは見たらわかる」
マルガレータは本を手に取った。
「こんなものに時間を使うな。お前にはやることがあるだろう」
本がテーブルをすべった。バタン、と音を立てて床に落ちた。
「つまらないことに頭を使っているから、集中力がなくなるんだ。お前がこの家で役に立つのは、その手足だけだ。知恵を得ても意味がない」
「はい……」
「あと思い出した。イザベルの新しいドレスの生地を見繕っておいたのか?」
「はい。用意させていただいております。こちらです」
リリアンが生地を示したが、マルガレータは一瞥して目を背けた。
「こんなのか。つまらん。別の生地にしろ。町の仕立屋に行った時に、もっと良い生地を見てきたはずだ」
「はい、申し訳ございません……」
その時、階段を下りてくる足音がした。イザベルだ。リリアンの義姉は、ピンク色のドレスを身につけ、顔にはしっかり化粧が施されている。二〇歳とは思えないほど幼い顔立ちをしているが、それは彼女の知性の浅さを象徴しているように見える。
「あら、おはようリリアン。相変わらず見窄らしい格好ね」
イザベルはリリアンを服装を上から下まで見下ろし、鼻で笑う。
それに、マルガレータも続いた。
「こいつにはそれがお似合いだ。綺麗なドレスはイザベルのような愛らしい娘が着てこそ輝く」
「まあ、ありがとう。お母さん」
マルガレータはイザベルに視線を移し、柔らかく笑った。その笑顔は、リリアンには決して向けられない。
リリアンは黙り込むことしかできなかった。音が遠のく。指先のぬるいバターの感触だけが現実で、言葉は壁の向こう側で反響していた。
昼間、リリアンは家事に追われた。洗濯、炊事、掃除。全てが彼女の役目だ。窓から見える町は、どこか美しく見えた。外の世界は自分とは関係のない場所。灰色の壁の中で、彼女は日々を重ねていく。
夜も深まった頃、父──ジョンが帰ってきた。彼はリリアンに目を留め、下唇を噛んだ。
擦り切れた服に疲れの色。——それでも瞳は澄んでいる。亡き妻と同じ澄さだった。
「リリアン。少し来ないか」
ジョンはリリアンを呼び出した。
彼の部屋は落ち着いた雰囲気で、本棚にはいくつかの書物が並んでいた。
「これ、お前が欲しがっていた本だ」
ジョンは一冊の本を渡した。『世界の思想家たち』。リリアンの目が輝いた。
「これ、いいの?」
「ああ。自分の部屋で読みなさい。こっそりとな」
リリアンは本を胸に抱き、父を見つめる。
ジョンはリリアンがマルガレータに虐げられていることを知っていた。だが、それに口に出すことはできずにいる弱い父親だった。娘が望む本を与えることが彼にできる精一杯。
「ありがとうお父さん」
無邪気に笑う娘の顔を見て、ジョンは胸が張り裂けそうだった。
★
数週間後、町に大きなニュースが届いた。
隣国の領主セレンが、この町を訪れるというのだ。セレンは若き領主であり、経済力も政治力も高い貴族。彼の訪問は、この町にとって大きな機会を意味していた。
ジョンは商人として、このセレンとの取引を望んでいた。彼の国との交易が成立すれば、家の経済状況は大きく改善されるだろう。そのため、セレンの歓迎のための晩餐会に招待されることは、何にも代え難い栄誉だった。
ジョンの家にも、やがてその招待状が届いた。
晩餐会が開かれるのは、三日後の夜だ。
「セレン殿をお迎えする晩餐会かっ!」
マルガレータは招待状を手にした時から、興奮が止まらなかった。領主との繋がりを持つことは、この家の地位向上を意味する。何よりも、それは金銭的な利益に繋がる可能性があったのだ。
その日の夜、マルガレータはイザベルを呼んだ。
「イザベル。こちらに来なさい。晩餐会のドレスを決めないとな」
マルガレータの声には、いつにもない高揚感があった。彼女はイザベルに、最高の衣装を用意させることに決めた。この晩餐会で、イザベルがセレンの目に留まれば、家族全体の運命さえ変わるかもしれない。そう考えたのだ。
一方、リリアンはどうなるのか。
マルガレータはリリアンに対して、明確に言い放った。
「お前は行かんでいい。家の者としては、お前のでは不適切だ」
その言葉は、リリアンに対する日ごろの扱いをそのまま反映していた。イザベルは娘として扱われ、リリアンは給仕同然の存在。そのような序列の中で、リリアンが晩餐会に参加することは、マルガレータの中では論外だったのだ。
だが、その朝——晩餐会の当日の朝——ジョンがリリアンを呼んだ。
「リリアン。お前も来るといい。給仕の手が足りないそうだ。お前も一緒に行かないか」
リリアンは戸惑った。給仕として働くということは、晩餐会に参加することになる。だが、マルガレータからは明確に行くなと言われていたのだ。
だが、ジョンの表情は真摯だった。彼は何か別の意図を持っているのかもしれない。
「行ってみなさい。何も心配することはない」
ジョンのその一言で、リリアンは決心した。
行くことにしよう。給仕として、この晩餐会に。
晩餐会の時間が来た。リリアンは領主館の厨房で、他の娘たちと一緒に給仕の支度をした。領主館は豪華だった。キャンドルが無数に灯され、貴族たちの着飾った姿が光に照らされている。リリアンはその光景に息を呑んだ。
給仕として、テーブルを回った。そこには、イザベルの声が響いていた。
「……といった時に、私は馬に乗って狩りに出かけまして!」
イザベルはセレンに話しかけていた。だが、セレンの顔は退屈そのもの。彼は、儀礼的な会話を意識の表面でやり過ごしていた。
その折、セレンの手元から小さな書付がテーブルの下へ滑り落ちた。拾い上げたリリアンの視界に、麦価の数字がちらりと映る。思わず眉がわずかに動いたのを、セレンは見逃さなかった。
「君の名前は?」
セレンはイザベルの話を中断させて、リリアンに話しかけた。
リリアンはぽかんと口を開け、まぶたを瞬かせる。
「えっと、リリアンと申します」
給仕を続けようとしたリリアンだったが、セレンは続けた。
「君は、この町の出身か」
「はい。こちらで生まれ育ちました」
「そうか。では、君は領民の暮らしについて、多くを知っているだろう。最近、領地の経済について、何か聞いたことはあるか」
リリアンは戸惑った。領主が領民に経済について尋ねるのは、通常ではないことだからだ。
「……商人である父から、取引がやや減少していると聞きました。冬が厳しくなるまでに、なんとか改善したいと言っておりました」
セレンは身を乗り出した。
「それは興味深い。商人の娘であれば、経済についても理解があるかもしれん。君の考えだが、その取引減少は何が原因だと思うか」
顔を真っ赤にしたイザベルが横槍を入れてくる。
「セレン殿。給仕の者に話しかけるのは……」
「申し訳ない、続きは後ほど。今は彼女と話がしたい」
セレンは静かに言った。リリアンへの視線は変わらない。
リリアンは慎重に言葉を選んだ。
「領民の購買力が落ちているとすれば、それは生産性の低下が一因と考えられます。農作物の作況が悪かったのかもしれません。また、領内の商人たちが連携していないのかもしれません」
セレンは微かに笑った。
「そうだ。その通りだ」
「申し訳ございません。余計なことを……」
「いや。素晴らしい意見だ。多くの貴族は、領地の経済について、表面的な数字しか見ていない。だが、君はその根本を理解している」
セレンはリリアンの身分が低いことに気づいていた。給仕のエプロンが、その全てを物語っていた。だが、それは彼の関心を削ぐどころか、むしろ高めてしまった。なぜ、このような女性が、給仕をしているのか。なぜ、これほどの知性が、埋もれているのか。
晩餐会の最中、セレンはリリアンに何度か話しかけた。その度に、彼女の返答は思慮深かった。庶民の暮らしについて。領地の発展について。教育の大切さについて。
ジョンはこのやり取りをずっと見つめていた。セレンがリリアンに心を奪われていることは、誰の目にも明らかだった。そして、ジョンはセレンの真摯さが本物であることを知っていた。その瞬間、ジョンは自分の娘の人生が変わるかもしれないことを感じた。
晩餐会が終わると、セレンはジョンを個室に招いた。
「晩餐会にいたリリアンという給仕は、どこの家の娘だ?」
「リリアンは私の娘ですが……」
「そうか。君の娘だったか、なら話が早い」
セレンの表情にわずかに光が灯る。
「実は、リリアンと話していて強く惹かれてしまった。率直に言うと、彼女と一緒にいたいと思っている。もし君が良ければ、婚約を約束してもらいたいと思うのだが」
「本当ですか。それは、ありがたいお話です」
セレンは静かに頷いた。
「だがこの話を進めるにあたって、ひとつ不思議なことがある」
「なんでしょうか?」
「晩餐会に君の娘であるイザベルは招待されていたはずだ。なぜ、リリアンは給仕として働いていた? 姉妹で扱いが違うのか?」
ジョンの表情が曇った。セレンの視線は優しくはなく、冷徹だった。
「それは、なんといいますか、家の事情がありまして」
「家の事情?」
セレンはその言葉を反芻した。
「リリアンは前妻の娘で、現在の私の妻に虐げられています。家事をほぼ全てやらせられ、良い服も与えられず、本を読むことさえ禁止されている。晩餐会にも参加するなと言われている始末でして。ただ、こういった場の経験はそう得られるものではないので、給仕という形で私がこの場に連れてきました」
ジョンは顔を伏せた。
「彼女の境遇を知っていて、何もしていないということか?」
「はい。その通りです。妻に逆らえば、娘はさらに酷い扱いを受けるかもしれない。そう考えると……。申し訳ございません。私は情けない父親です」
セレンは小さく息を吐き両手を組んだ。やがて、ゆっくりと口を開いた。
「私は、君の娘を幸せにしたいと思う。彼女自身の知性と優しさに惹かれたからだ」
「……ありがとうございます」
セレンは静かに立ち上がり、ジョンに手を差し出した。
「正式に婚約を交わしたい。君の許可と、リリアンの同意さえあれば、すぐにでも準備を進めたいのだが、ひとつ留意しておきたいことがある」
ジョンは強く握手を交わした。
「留意しておきたいこと、ですか?」
「このことは、いましばらく秘密にしておきたい。君の妻の耳に届けば、事態は複雑になりかねないだろ」
ジョンは頷いた。
セレンはジョンを玄関まで見送った。月明かりが二人を照らしていた。
「もし、リリアンがこの話に前向きなら、私の家に連れてきてくれないか」
「かしこまりました」
セレンは微かに笑った。
ジョンが去った後、セレンは一人、月を見上げた。彼の胸には、希望と不安が入り混じっていた。だが、リリアンの澄んだ瞳を思い出すと、その不安は消えていった。彼は、彼女の澄んだ瞳だけを反芻した。
晩餐会から帰宅したジョンは、すぐにリリアンを呼んだ。彼女は父の部屋に入るなり、何か大切な話があることを感じ取った。
ジョンはリリアンに、セレンとの婚約について全てを伝えた。最初は信じられなかった。だが、セレンの瞳の深さを思い出せば、それが真実であることは明らかだ。
「お父さん。私は……」
リリアンは何度も首を振った。自分のような者が、領主の妻になれるわけがない。そう思っていた。だが、ジョンは静かに言った。
「セレン殿はお前に惚れている。これは事実だ。この話を受けるかはリリアン次第だ」
リリアンは口を噤んで、視線を落とし俯いた。
言葉にこそしなかったが、その赤くなった頬が全てを物語っていた。
「この話はまだ、私たちだけの秘密にしておこう。いいか?」
「うん、わかった……」
翌日から、リリアンの人生は秘密に満ちるようになった。
ジョンは「仕入れの手伝い」という名目で、週に一度だけ娘を町外へ出す許可を取った。往復の馬車はセレン側が手配し、同行の執事が時刻を厳格に管理した。
表向きは取引先視察と礼状の届けで、出立と帰還の時刻は帳面に記され、出入り口は裏門のみと決められていた。
セレンとの時間は、彼女にとって異世界だった。
馬車の中で、セレンはリリアンに問いかけた。
「君は何が好きだ?」
リリアンは戸惑った。これまで、好きなものについて真摯に考えたことがなかった。朝から晩まで家事に追われ、自分の気持ちを持つ余裕さえなかったのだ。
「私が好きなことですか……」
リリアンは、ゆっくりと考えた。
「本です。父がくれた本を読んでいるとき、初めて世界が広いことに気づきました」
セレンはリリアンを見つめた。その瞳には、彼女への理解と優しさが満ちていた。
「そうか。ならば、好きなだけ本を読むといい」
セレンはその後、何度も馬車でリリアンを町の外へ連れ出し、様々な書籍を彼女に与えた。彼女はそれらを貪るように読んだ。経済学の本、哲学の本、異国の歴史の本。全てが彼女にとって、新しい世界への扉だった。
ある日、セレンはリリアンに言った。
「君は、もう誰に従う必要もない。君の人生は、君のものだ。何を読みたいか、どこへ行きたいか。全て君が決めるんだ」
リリアンは、その言葉の重さに息を呑んだ。
自分の人生は、自分のものだ。
初めて、そう思えるようになった。
これまで、彼女はマルガレータの命令に従うことだけが、生きることだと思っていた。だが、セレンはそれを変えた。彼女は、自分の意思を持つことができるのだ。
一ヶ月が経った。
その日、マルガレータはリリアンが家に帰ってきていないことに気づいた。
朝食の支度もない。いつもの通りに動く娘の姿もない。
「リリアン。どこに行った」
マルガレータは怒声を上げた。だが、リリアンは帰ってこなかった。
帰宅したのは、夜間だった。そして、セレンが馬車でリリアンを送ってきた。
マルガレータは窓から、その光景を目にした。
馬車から降りるリリアンは、もはや灰色の娘ではなかった。
美しいドレスに身を包み、セレンの手を取る彼女の姿は、まるで別人だった。
その瞬間、マルガレータの顔が蒼白になった。ジョンを問い詰めた。
「ジョン。リリアンとセレン殿が一緒にいた。どういうことだ」
「それは……」
ジョンは静かに答えた。
「リリアンとセレン殿の婚約が正式に決まったんだ。一ヶ月前から」
マルガレータの表情が、一瞬で変わった。
「婚約? セレン殿が、リリアンと……?」
マルガレータは何度も首を振った。だが、その瞬間、彼女の目には、異なる光が灯った。
利益だ。
「じゃあ、この家はセレン殿の援助を受けられるということだな。家族として、領主の庇護を得られる」
ジョンは黙った。妻の野心が剥き出しになっているのが見えた。
「これはまたとないチャンスだ。イザベルにだって良い縁談がくるだろう。家族は助け合うべき」
マルガレータの口角を緩め、目の色を変えた。
朝、リリアンが下階に降りると、マルガレータは、これまでにない作り物の笑顔で娘を迎えた。その笑顔には、計算と欲望が満ちていた。
「リリアン。おはよう。聞いたぞ。セレン殿と婚約の約束したと」
マルガレータは上から下までリリアンを見下ろした。
「信じられん話だ。お前が領主夫人とはな。だが、考えてみろ。お前が今のような状態にありつけたのは、私の躾があったればこそだ」
マルガレータは椅子に座ると、さらに続けた。
「だから、この家の援助をするようセレン殿にお願いしろ。家族は助け合うべきだ。セレン殿の未来の妻であるお前が申し出れば、すぐに決まる話だろう」
リリアンの身体は硬直し、口がもごついた。
「返事はどうした。難しいことではあるまい」
気圧されるように弱々しく声を出すリリアン。
「か、かしこまりました。セレン殿にお伝えします」
その時だった。
玄関の扉が開く音がした。
執事に先導され、セレンが「ご挨拶に上がった」とだけ告げて入ってくる。居間にやってくるまで、短い静寂が家の中に落ちた。
マルガレータは作り笑いを整え、リリアンは呼吸を整える。数拍後、三人が向き合った。
「先ほどの“ご相談”について、当人の意思を確かめたい。——リリアン、君自身の答えを聞かせてくれるか」
マルガレータが慌てて口を開く。
「えっと、あの、それは——」
セレンは穏やかに片手を上げて遮った。
「ご説明は後ほどうかがいます。まずは、彼女の言葉から」
セレンはリリアンを見つめた。
「君の答えを聞きたい。リリアン、君は私に援助を求めたいのか?」
セレンは続けた。
「もし、君が望むなら私は喜んでこの家に援助をしよう。だが、それでいいのか。朝から晩まで家事をさせられ、良い食事も与えられず、自由に本を読むことも禁止された。それでもなお、本当に望んでいるのか」
その瞬間、リリアンの瞳に光が灯った。
セレンの言葉が、彼女の心に何かを呼び覚ましたのだ。
これまで、リリアンは自分の気持ちに蓋をしていた。
だが、セレンの問いかけは、彼女に思い出させた。
自分の人生は、自分のものだということを。
「いいえ」
リリアンは静かに答えた。
「望んでいません」
マルガレータが立ち上がった。
「何を言っておる……」
リリアンはマルガレータに向き直った。その視線に、もはや畏怖はない。
「私が貴女から受けたのは苦しみだけです。育ててもらった恩を感じたことはありません。むしろ、あなたは私を壊そうとしていました」
「なんだと……」
「あなたに援助をする理由は、どこにもありません」
マルガレータは言葉を失った。リリアンはセレンの元へ歩み寄った。
「もう、これからの交流はないものと思ってください」
セレンはリリアンの手を取った。
その瞬間、マルガレータは、自分が何かを失ったことを悟った。だが、もはや遅かった。
リリアンが荷物をまとめている間、マルガレータは何もできなかった。ジョンも黙ったままだった。
イザベルは、セレンの前で取り乱していた。だが、セレンはイザベルに一度も目を向けなかった。リリアンはジョンに一礼し、セレンの手を取った。
馬車が遠ざかると、マルガレータは呆然とした表情で立ち尽くしていた。
それから、マルガレータの人生は一変した。
最初、マルガレータは気に留めなかった。リリアンがいなくなってせいせいしたまである。だが、三日経つと現実は容赦なく訪れた。
朝食の支度。洗濯。掃除。炊事。全ての家事がマルガレータの肩にのしかかったのだ。
「イザベル。朝食を支度しなさい」
マルガレータは朝、イザベルに命じた。だが、イザベルは何もできなかった。
「え? でも、お母さん。私、やったことないわ」
「パンを焼いて、バターを塗るだけだ。そんなこともできんのか」
二日後、マルガレータが焼いたパンは焦げていた。三日後には、洗濯物には生乾きの匂いがこびりつき、幾つかにはうっすらとカビが浮いた。一週間後、マルガレータの手は血が滲み、顔には深い疲労が刻まれていた。
これまで、リリアンがどれほどの仕事量を一人でこなしていたのか。マルガレータはようやく、身を持って理解したのだ。
イザベルは何の役にも立たなかった。彼女は優雅に育てられたため、針仕事すら満足にできない。もちろん、料理などできるわけもない。母親の命令に従い、台所に立つと、火は消し忘れ、塩と砂糖を間違え、何度も失敗した。
それから、町の人々の視線が変わり始めた。
セレンがリリアンを妻にしたことが、町中に知れ渡ったのだ。リリアンの名前は、人々の間で神話のように語られるようになった。
一方、マルガレータの悪評も広まっていた。
「ほら、あの人だ。リリアンさんを虐げていた継母よ」
「よくもあんなことができたな。今は家事だけで手一杯だとか」
町で見かけるたびに、人々の視線は軽蔑に満ちていた。
三ヶ月が経つ頃、マルガレータは完全に破綻していた。
マルガレータはリリアンへの手紙を書くことにした。
手紙を書き終わったマルガレータは、ジョンのもとへ行った。
「ジョン。リリアンに、これを届けてくれないか。謝罪がしたい」
ジョンは手紙を見て、ゆっくり首を振った。
「それは無駄だ」
「だが、私は……」
「リリアンは、それ以上の痛みを受けてきた。謝罪で全てが取り戻せるわけではない。むしろ、今さら謝罪を受けても、リリアンの心には何も残らんだろう」
マルガレータは黙り、顔を伏せた。
彼女は、二度とリリアンの慈悲を求めることはできなかった。
その機会は、すでに失われていたのだ──。
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