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継母に虐げられていた私、ひょんなことから領主に見初められました。今更手のひら返しても遅いんですよ、お義母さん?

作者: ヨルノソラ
掲載日:2025/10/22

 朝日が差し込む前に、リリアンは目を覚ました。二階の小さな部屋で、薄いかけ布団にくるまったまま、天井を見つめる。布は何度も繕われて、所々毛羽立っていた。


 階下から継母──マルガレータの声が聞こえる。リリアンは深く息を吸った。


 一日が始まる。いつもと同じように。


 下階に降りると、マルガレータがキッチンの前に立っていた。リリアンを見た瞬間、彼女の顔つきは豹変した。


「遅い! 朝食の支度はお前の役目だろ。さっさとしろ」


「す、すぐに準備いたします!」


 リリアンはエプロンをつけて、パンを焼き、バターを塗り、チーズを切った。手際よく。迷いなく。何年も繰り返してきた動作だ。父──ジョンがいる前では、マルガレータは別人になる。優しく、気遣わしく、完璧な継母を演じる。だが、彼が出かけた後は違う。


「お前はいつもそうだ。つまらない顔をして」


 マルガレータはテーブルの前に座り、視線を落とした。


「テーブルクロス、新しいのにしたのか」


「あ、はい。こちらの方が清潔かと思いまして……」


 リリアンは声を遮るように、マルガレータは手を振った。


「気に入らん。勝手に変えるな。それに、朝の光の入り方が気に入らん。カーテンの調整をしなかったのか」


「申し訳ございません。今すぐに……」


「まずは朝食の準備だろう。優先度もわからんのか」


「申し訳ございません……」


 マルガレータは椅子に座ったまま、テーブルの上にあった本に目をやった。


『遠い国の歴史』。リリアンの本だ。


「これは何だ」


 リリアンは一瞬、固まった。


「本です」


「そんなことは見たらわかる」


 マルガレータは本を手に取った。


「こんなものに時間を使うな。お前にはやることがあるだろう」


 本がテーブルをすべった。バタン、と音を立てて床に落ちた。


「つまらないことに頭を使っているから、集中力がなくなるんだ。お前がこの家で役に立つのは、その手足だけだ。知恵を得ても意味がない」


「はい……」


「あと思い出した。イザベルの新しいドレスの生地を見繕っておいたのか?」


「はい。用意させていただいております。こちらです」


 リリアンが生地を示したが、マルガレータは一瞥して目を背けた。


「こんなのか。つまらん。別の生地にしろ。町の仕立屋に行った時に、もっと良い生地を見てきたはずだ」


「はい、申し訳ございません……」


 その時、階段を下りてくる足音がした。イザベルだ。リリアンの義姉は、ピンク色のドレスを身につけ、顔にはしっかり化粧が施されている。二〇歳とは思えないほど幼い顔立ちをしているが、それは彼女の知性の浅さを象徴しているように見える。


「あら、おはようリリアン。相変わらず見窄らしい格好ね」


 イザベルはリリアンを服装を上から下まで見下ろし、鼻で笑う。


 それに、マルガレータも続いた。


「こいつにはそれがお似合いだ。綺麗なドレスはイザベルのような愛らしい娘が着てこそ輝く」


「まあ、ありがとう。お母さん」


 マルガレータはイザベルに視線を移し、柔らかく笑った。その笑顔は、リリアンには決して向けられない。


 リリアンは黙り込むことしかできなかった。音が遠のく。指先のぬるいバターの感触だけが現実で、言葉は壁の向こう側で反響していた。


 昼間、リリアンは家事に追われた。洗濯、炊事、掃除。全てが彼女の役目だ。窓から見える町は、どこか美しく見えた。外の世界は自分とは関係のない場所。灰色の壁の中で、彼女は日々を重ねていく。




 夜も深まった頃、父──ジョンが帰ってきた。彼はリリアンに目を留め、下唇を噛んだ。

 擦り切れた服に疲れの色。——それでも瞳は澄んでいる。亡き妻と同じ澄さだった。


「リリアン。少し来ないか」


 ジョンはリリアンを呼び出した。

 彼の部屋は落ち着いた雰囲気で、本棚にはいくつかの書物が並んでいた。


「これ、お前が欲しがっていた本だ」


 ジョンは一冊の本を渡した。『世界の思想家たち』。リリアンの目が輝いた。


「これ、いいの?」


「ああ。自分の部屋で読みなさい。こっそりとな」


 リリアンは本を胸に抱き、父を見つめる。

 ジョンはリリアンがマルガレータに虐げられていることを知っていた。だが、それに口に出すことはできずにいる弱い父親だった。娘が望む本を与えることが彼にできる精一杯。


「ありがとうお父さん」


 無邪気に笑う娘の顔を見て、ジョンは胸が張り裂けそうだった。



 ★



 数週間後、町に大きなニュースが届いた。


 隣国の領主セレンが、この町を訪れるというのだ。セレンは若き領主であり、経済力も政治力も高い貴族。彼の訪問は、この町にとって大きな機会を意味していた。


 ジョンは商人として、このセレンとの取引を望んでいた。彼の国との交易が成立すれば、家の経済状況は大きく改善されるだろう。そのため、セレンの歓迎のための晩餐会に招待されることは、何にも代え難い栄誉だった。


 ジョンの家にも、やがてその招待状が届いた。


 晩餐会が開かれるのは、三日後の夜だ。


「セレン殿をお迎えする晩餐会かっ!」


 マルガレータは招待状を手にした時から、興奮が止まらなかった。領主との繋がりを持つことは、この家の地位向上を意味する。何よりも、それは金銭的な利益に繋がる可能性があったのだ。


 その日の夜、マルガレータはイザベルを呼んだ。


「イザベル。こちらに来なさい。晩餐会のドレスを決めないとな」


 マルガレータの声には、いつにもない高揚感があった。彼女はイザベルに、最高の衣装を用意させることに決めた。この晩餐会で、イザベルがセレンの目に留まれば、家族全体の運命さえ変わるかもしれない。そう考えたのだ。


 一方、リリアンはどうなるのか。


 マルガレータはリリアンに対して、明確に言い放った。


「お前は行かんでいい。家の者としては、お前のでは不適切だ」


 その言葉は、リリアンに対する日ごろの扱いをそのまま反映していた。イザベルは娘として扱われ、リリアンは給仕同然の存在。そのような序列の中で、リリアンが晩餐会に参加することは、マルガレータの中では論外だったのだ。


 だが、その朝——晩餐会の当日の朝——ジョンがリリアンを呼んだ。


「リリアン。お前も来るといい。給仕の手が足りないそうだ。お前も一緒に行かないか」


 リリアンは戸惑った。給仕として働くということは、晩餐会に参加することになる。だが、マルガレータからは明確に行くなと言われていたのだ。


 だが、ジョンの表情は真摯だった。彼は何か別の意図を持っているのかもしれない。


「行ってみなさい。何も心配することはない」


 ジョンのその一言で、リリアンは決心した。


 行くことにしよう。給仕として、この晩餐会に。


 晩餐会の時間が来た。リリアンは領主館の厨房で、他の娘たちと一緒に給仕の支度をした。領主館は豪華だった。キャンドルが無数に灯され、貴族たちの着飾った姿が光に照らされている。リリアンはその光景に息を呑んだ。


 給仕として、テーブルを回った。そこには、イザベルの声が響いていた。


「……といった時に、私は馬に乗って狩りに出かけまして!」


 イザベルはセレンに話しかけていた。だが、セレンの顔は退屈そのもの。彼は、儀礼的な会話を意識の表面でやり過ごしていた。


 その折、セレンの手元から小さな書付がテーブルの下へ滑り落ちた。拾い上げたリリアンの視界に、麦価の数字がちらりと映る。思わず眉がわずかに動いたのを、セレンは見逃さなかった。


「君の名前は?」


 セレンはイザベルの話を中断させて、リリアンに話しかけた。


 リリアンはぽかんと口を開け、まぶたを瞬かせる。


「えっと、リリアンと申します」


 給仕を続けようとしたリリアンだったが、セレンは続けた。


「君は、この町の出身か」


「はい。こちらで生まれ育ちました」


「そうか。では、君は領民の暮らしについて、多くを知っているだろう。最近、領地の経済について、何か聞いたことはあるか」


 リリアンは戸惑った。領主が領民に経済について尋ねるのは、通常ではないことだからだ。


「……商人である父から、取引がやや減少していると聞きました。冬が厳しくなるまでに、なんとか改善したいと言っておりました」


 セレンは身を乗り出した。


「それは興味深い。商人の娘であれば、経済についても理解があるかもしれん。君の考えだが、その取引減少は何が原因だと思うか」


 顔を真っ赤にしたイザベルが横槍を入れてくる。


「セレン殿。給仕の者に話しかけるのは……」


「申し訳ない、続きは後ほど。今は彼女と話がしたい」


 セレンは静かに言った。リリアンへの視線は変わらない。


 リリアンは慎重に言葉を選んだ。


「領民の購買力が落ちているとすれば、それは生産性の低下が一因と考えられます。農作物の作況が悪かったのかもしれません。また、領内の商人たちが連携していないのかもしれません」


 セレンは微かに笑った。


「そうだ。その通りだ」


「申し訳ございません。余計なことを……」


「いや。素晴らしい意見だ。多くの貴族は、領地の経済について、表面的な数字しか見ていない。だが、君はその根本を理解している」


 セレンはリリアンの身分が低いことに気づいていた。給仕のエプロンが、その全てを物語っていた。だが、それは彼の関心を削ぐどころか、むしろ高めてしまった。なぜ、このような女性が、給仕をしているのか。なぜ、これほどの知性が、埋もれているのか。


 晩餐会の最中、セレンはリリアンに何度か話しかけた。その度に、彼女の返答は思慮深かった。庶民の暮らしについて。領地の発展について。教育の大切さについて。


 ジョンはこのやり取りをずっと見つめていた。セレンがリリアンに心を奪われていることは、誰の目にも明らかだった。そして、ジョンはセレンの真摯さが本物であることを知っていた。その瞬間、ジョンは自分の娘の人生が変わるかもしれないことを感じた。




 晩餐会が終わると、セレンはジョンを個室に招いた。


「晩餐会にいたリリアンという給仕は、どこの家の娘だ?」


「リリアンは私の娘ですが……」


「そうか。君の娘だったか、なら話が早い」


 セレンの表情にわずかに光が灯る。


「実は、リリアンと話していて強く惹かれてしまった。率直に言うと、彼女と一緒にいたいと思っている。もし君が良ければ、婚約を約束してもらいたいと思うのだが」


「本当ですか。それは、ありがたいお話です」


 セレンは静かに頷いた。


「だがこの話を進めるにあたって、ひとつ不思議なことがある」


「なんでしょうか?」


「晩餐会に君の娘であるイザベルは招待されていたはずだ。なぜ、リリアンは給仕として働いていた? 姉妹で扱いが違うのか?」


 ジョンの表情が曇った。セレンの視線は優しくはなく、冷徹だった。


「それは、なんといいますか、家の事情がありまして」


「家の事情?」


 セレンはその言葉を反芻した。


「リリアンは前妻の娘で、現在の私の妻に虐げられています。家事をほぼ全てやらせられ、良い服も与えられず、本を読むことさえ禁止されている。晩餐会にも参加するなと言われている始末でして。ただ、こういった場の経験はそう得られるものではないので、給仕という形で私がこの場に連れてきました」


 ジョンは顔を伏せた。


「彼女の境遇を知っていて、何もしていないということか?」


「はい。その通りです。妻に逆らえば、娘はさらに酷い扱いを受けるかもしれない。そう考えると……。申し訳ございません。私は情けない父親です」


 セレンは小さく息を吐き両手を組んだ。やがて、ゆっくりと口を開いた。


「私は、君の娘を幸せにしたいと思う。彼女自身の知性と優しさに惹かれたからだ」


「……ありがとうございます」


 セレンは静かに立ち上がり、ジョンに手を差し出した。


「正式に婚約を交わしたい。君の許可と、リリアンの同意さえあれば、すぐにでも準備を進めたいのだが、ひとつ留意しておきたいことがある」


 ジョンは強く握手を交わした。


「留意しておきたいこと、ですか?」


「このことは、いましばらく秘密にしておきたい。君の妻の耳に届けば、事態は複雑になりかねないだろ」


 ジョンは頷いた。

 セレンはジョンを玄関まで見送った。月明かりが二人を照らしていた。


「もし、リリアンがこの話に前向きなら、私の家に連れてきてくれないか」


「かしこまりました」


 セレンは微かに笑った。


 ジョンが去った後、セレンは一人、月を見上げた。彼の胸には、希望と不安が入り混じっていた。だが、リリアンの澄んだ瞳を思い出すと、その不安は消えていった。彼は、彼女の澄んだ瞳だけを反芻した。




 晩餐会から帰宅したジョンは、すぐにリリアンを呼んだ。彼女は父の部屋に入るなり、何か大切な話があることを感じ取った。


 ジョンはリリアンに、セレンとの婚約について全てを伝えた。最初は信じられなかった。だが、セレンの瞳の深さを思い出せば、それが真実であることは明らかだ。


「お父さん。私は……」


 リリアンは何度も首を振った。自分のような者が、領主の妻になれるわけがない。そう思っていた。だが、ジョンは静かに言った。


「セレン殿はお前に惚れている。これは事実だ。この話を受けるかはリリアン次第だ」


 リリアンは口を噤んで、視線を落とし俯いた。


 言葉にこそしなかったが、その赤くなった頬が全てを物語っていた。


「この話はまだ、私たちだけの秘密にしておこう。いいか?」


「うん、わかった……」


 翌日から、リリアンの人生は秘密に満ちるようになった。


 ジョンは「仕入れの手伝い」という名目で、週に一度だけ娘を町外へ出す許可を取った。往復の馬車はセレン側が手配し、同行の執事が時刻を厳格に管理した。


 表向きは取引先視察と礼状の届けで、出立と帰還の時刻は帳面に記され、出入り口は裏門のみと決められていた。


 セレンとの時間は、彼女にとって異世界だった。


 馬車の中で、セレンはリリアンに問いかけた。


「君は何が好きだ?」


 リリアンは戸惑った。これまで、好きなものについて真摯に考えたことがなかった。朝から晩まで家事に追われ、自分の気持ちを持つ余裕さえなかったのだ。


「私が好きなことですか……」


 リリアンは、ゆっくりと考えた。


「本です。父がくれた本を読んでいるとき、初めて世界が広いことに気づきました」


 セレンはリリアンを見つめた。その瞳には、彼女への理解と優しさが満ちていた。


「そうか。ならば、好きなだけ本を読むといい」


 セレンはその後、何度も馬車でリリアンを町の外へ連れ出し、様々な書籍を彼女に与えた。彼女はそれらを貪るように読んだ。経済学の本、哲学の本、異国の歴史の本。全てが彼女にとって、新しい世界への扉だった。


 ある日、セレンはリリアンに言った。


「君は、もう誰に従う必要もない。君の人生は、君のものだ。何を読みたいか、どこへ行きたいか。全て君が決めるんだ」


 リリアンは、その言葉の重さに息を呑んだ。


 自分の人生は、自分のものだ。


 初めて、そう思えるようになった。


 これまで、彼女はマルガレータの命令に従うことだけが、生きることだと思っていた。だが、セレンはそれを変えた。彼女は、自分の意思を持つことができるのだ。





 一ヶ月が経った。


 その日、マルガレータはリリアンが家に帰ってきていないことに気づいた。


 朝食の支度もない。いつもの通りに動く娘の姿もない。


「リリアン。どこに行った」


 マルガレータは怒声を上げた。だが、リリアンは帰ってこなかった。


 帰宅したのは、夜間だった。そして、セレンが馬車でリリアンを送ってきた。


 マルガレータは窓から、その光景を目にした。


 馬車から降りるリリアンは、もはや灰色の娘ではなかった。


 美しいドレスに身を包み、セレンの手を取る彼女の姿は、まるで別人だった。


 その瞬間、マルガレータの顔が蒼白になった。ジョンを問い詰めた。


「ジョン。リリアンとセレン殿が一緒にいた。どういうことだ」


「それは……」


 ジョンは静かに答えた。


「リリアンとセレン殿の婚約が正式に決まったんだ。一ヶ月前から」


 マルガレータの表情が、一瞬で変わった。


「婚約? セレン殿が、リリアンと……?」


 マルガレータは何度も首を振った。だが、その瞬間、彼女の目には、異なる光が灯った。


 利益だ。


「じゃあ、この家はセレン殿の援助を受けられるということだな。家族として、領主の庇護を得られる」


 ジョンは黙った。妻の野心が剥き出しになっているのが見えた。


「これはまたとないチャンスだ。イザベルにだって良い縁談がくるだろう。家族は助け合うべき」


 マルガレータの口角を緩め、目の色を変えた。


 朝、リリアンが下階に降りると、マルガレータは、これまでにない作り物の笑顔で娘を迎えた。その笑顔には、計算と欲望が満ちていた。


「リリアン。おはよう。聞いたぞ。セレン殿と婚約の約束したと」


 マルガレータは上から下までリリアンを見下ろした。


「信じられん話だ。お前が領主夫人とはな。だが、考えてみろ。お前が今のような状態にありつけたのは、私の躾があったればこそだ」


 マルガレータは椅子に座ると、さらに続けた。


「だから、この家の援助をするようセレン殿にお願いしろ。家族は助け合うべきだ。セレン殿の未来の妻であるお前が申し出れば、すぐに決まる話だろう」


 リリアンの身体は硬直し、口がもごついた。


「返事はどうした。難しいことではあるまい」


 気圧されるように弱々しく声を出すリリアン。


「か、かしこまりました。セレン殿にお伝えします」


 その時だった。


 玄関の扉が開く音がした。


 執事に先導され、セレンが「ご挨拶に上がった」とだけ告げて入ってくる。居間にやってくるまで、短い静寂が家の中に落ちた。


 マルガレータは作り笑いを整え、リリアンは呼吸を整える。数拍後、三人が向き合った。


「先ほどの“ご相談”について、当人の意思を確かめたい。——リリアン、君自身の答えを聞かせてくれるか」


 マルガレータが慌てて口を開く。


「えっと、あの、それは——」


 セレンは穏やかに片手を上げて遮った。


「ご説明は後ほどうかがいます。まずは、彼女の言葉から」


 セレンはリリアンを見つめた。


「君の答えを聞きたい。リリアン、君は私に援助を求めたいのか?」


 セレンは続けた。


「もし、君が望むなら私は喜んでこの家に援助をしよう。だが、それでいいのか。朝から晩まで家事をさせられ、良い食事も与えられず、自由に本を読むことも禁止された。それでもなお、本当に望んでいるのか」


 その瞬間、リリアンの瞳に光が灯った。


 セレンの言葉が、彼女の心に何かを呼び覚ましたのだ。


 これまで、リリアンは自分の気持ちに蓋をしていた。


 だが、セレンの問いかけは、彼女に思い出させた。


 自分の人生は、自分のものだということを。


「いいえ」


 リリアンは静かに答えた。


「望んでいません」


 マルガレータが立ち上がった。


「何を言っておる……」


 リリアンはマルガレータに向き直った。その視線に、もはや畏怖はない。


「私が貴女から受けたのは苦しみだけです。育ててもらった恩を感じたことはありません。むしろ、あなたは私を壊そうとしていました」


「なんだと……」


「あなたに援助をする理由は、どこにもありません」


 マルガレータは言葉を失った。リリアンはセレンの元へ歩み寄った。


「もう、これからの交流はないものと思ってください」


 セレンはリリアンの手を取った。


 その瞬間、マルガレータは、自分が何かを失ったことを悟った。だが、もはや遅かった。



 リリアンが荷物をまとめている間、マルガレータは何もできなかった。ジョンも黙ったままだった。


 イザベルは、セレンの前で取り乱していた。だが、セレンはイザベルに一度も目を向けなかった。リリアンはジョンに一礼し、セレンの手を取った。


 馬車が遠ざかると、マルガレータは呆然とした表情で立ち尽くしていた。


 それから、マルガレータの人生は一変した。


 最初、マルガレータは気に留めなかった。リリアンがいなくなってせいせいしたまである。だが、三日経つと現実は容赦なく訪れた。


 朝食の支度。洗濯。掃除。炊事。全ての家事がマルガレータの肩にのしかかったのだ。


「イザベル。朝食を支度しなさい」


 マルガレータは朝、イザベルに命じた。だが、イザベルは何もできなかった。


「え? でも、お母さん。私、やったことないわ」


「パンを焼いて、バターを塗るだけだ。そんなこともできんのか」


 二日後、マルガレータが焼いたパンは焦げていた。三日後には、洗濯物には生乾きの匂いがこびりつき、幾つかにはうっすらとカビが浮いた。一週間後、マルガレータの手は血が滲み、顔には深い疲労が刻まれていた。


 これまで、リリアンがどれほどの仕事量を一人でこなしていたのか。マルガレータはようやく、身を持って理解したのだ。


 イザベルは何の役にも立たなかった。彼女は優雅に育てられたため、針仕事すら満足にできない。もちろん、料理などできるわけもない。母親の命令に従い、台所に立つと、火は消し忘れ、塩と砂糖を間違え、何度も失敗した。


 それから、町の人々の視線が変わり始めた。


 セレンがリリアンを妻にしたことが、町中に知れ渡ったのだ。リリアンの名前は、人々の間で神話のように語られるようになった。


 一方、マルガレータの悪評も広まっていた。


「ほら、あの人だ。リリアンさんを虐げていた継母よ」


「よくもあんなことができたな。今は家事だけで手一杯だとか」


 町で見かけるたびに、人々の視線は軽蔑に満ちていた。


 三ヶ月が経つ頃、マルガレータは完全に破綻していた。


 マルガレータはリリアンへの手紙を書くことにした。


 手紙を書き終わったマルガレータは、ジョンのもとへ行った。


「ジョン。リリアンに、これを届けてくれないか。謝罪がしたい」


 ジョンは手紙を見て、ゆっくり首を振った。


「それは無駄だ」


「だが、私は……」


「リリアンは、それ以上の痛みを受けてきた。謝罪で全てが取り戻せるわけではない。むしろ、今さら謝罪を受けても、リリアンの心には何も残らんだろう」


 マルガレータは黙り、顔を伏せた。

 彼女は、二度とリリアンの慈悲を求めることはできなかった。


 その機会は、すでに失われていたのだ──。

最後までお読みいただきありがとうございます!

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