開かずの踏切
新幹線の窓に、見慣れたビル群が次々と流れ、消えていく。大学卒業後、この街で10余年。新聞記者として生きてきた林五郎は、シートに深く体を沈めたまま、ただそれを眺めていた。
ついさっきまで鳴り響いていたスマホは、今は電源を切ってポケットの奥底だ。デスクの怒号も、他社のスクープ速報も、もう聞こえない。
(本当に書きたかった記事は、書けただろうか)
自問する。答えは、否だ。上からの圧力に屈し、数字のために面白おかしく言葉を飾り立てた日々。もう、うんざりだった。
「……もう、疲れたな」
誰に言うでもなく、小さな声が漏れた。
その言葉は、高速で流れる景色の中に吸い込まれて消えた。灰色一色だった車窓の風景は、いつしか緑の濃淡に変わり、見慣れない山の稜線が近づいてくる。一時間、また一時間と、東京が遠ざかっていく。やがて速度を落とした新幹線が、懐かしい故郷の駅名と、気の抜けたようなチャイムを告げた。
ホームに降り立つと、土と草の匂いが混じった生ぬるい風が、五郎の頬を撫でた。東京の、アスファルトと排気ガスの匂いとは全く違う。けたたましい発車ベルの代わりに、どこか遠くでひぐらしが鳴いていた。五郎は十数年ぶりに、故郷の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。
タクシーで向かった実家は、両親が亡くなってから時が止まったように静まり返っていた。荷物を解く気にもなれず、客間の畳の上で大の字になる。スマホの電源は、入れられないままだ。
それから一週間、何をするでもなく、ただ時間が過ぎていった。
アラームをかけずに目が覚め、縁側でぼんやりと庭を眺め、日が暮れると眠る。誰からも連絡が来ることも、何かを成し遂げる必要もない自由は、あまりに広すぎて、かえって五郎を窒息させそうだった。耳に痛いほどの静寂の中で、自分が空っぽになっていくのを感じていた。
その日も、五郎はあてどなく、子供の頃に駆け回った道を散歩していた。記憶を頼りに裏山へ続く小道へ入ると、不意に見覚えのある光景が目に飛び込んできた。
錆びついた警報機と、色褪せた黄色と黒の遮断機。町が廃線にしたはずの、あの「開かずの踏切」だ。
(まだ、残っていたのか)
ノスタルジーとも違う、奇妙な感覚。五郎が足を止めて眺めていると、その瞬間だった。
カン、カン、カン、カン……。
古びた警報機が、甲高い音を立てて鳴り響いた。左右の赤色灯が点滅し、まるで生きているかのように、ゆっくりと遮断機が下りてくる。五郎は狐につままれたような顔で、線路の左右を何度も見返した。来るはずのない列車を待つ。
だが、何も通り過ぎることはない。
やがて警報音は鳴り止み、遮断機が静かに上がっていく。後に残されたのは、ひぐらしの声と、呆然と立ち尽くす五郎だけだった。
なんだ、今のは。
その胸に灯ったのは、怒りでも、悲しみでもない。十年以上もの間、仕事のストレスの底に沈んで、忘れてしまっていた感情。
ただ純粋な、「なぜだ?」という好奇心だった。
その五郎の中に芽生えた好奇心は、ただ空虚さを噛みしめるだけだった抜け殻に火をつけた。誰にやらされるでもなく、彼は自分の目でこの踏切の謎を確かめたいと感じた。
そこからの五郎の動きは早かった。曲がりなりにも十余年、記者としてその道を通ってきたのだ。彼はすぐにその踏切について調査を始めた。
まず五郎は、その廃線について改めて調べることにした。五郎自身幼少の頃から存在は知っていたが、線路として機能していた当時のことを何も知らなかったからだ。
(なるほど、この路線は昔…)
町の小さな図書館の郷土資料室で、黄ばんだ住宅地図や古い新聞をめくりながら、五郎は一人、静かに頷いた。
正式名称は「里山鉄道」。町と隣の市を結ぶ、たった数駅の単線路線。町の主要産業だった林業の木材を運び出し、人々の足として親しまれていたが、マイカー時代の到来とともに利用者は減少の一途をたどり、五郎が小学生の頃、二十年前に廃線となっていた。新聞の縮刷版には、地元住民に惜しまれながらラストランを迎える最終列車の白黒写真が載っている。その写真には、運転席から帽子を取って深々と頭を下げる、一人の運転士の姿も写っていた。
資料が示す事実は、ありふれた地方路線の歴史だ。だが、五郎にとってそれは、スクープや数字のためではなく、純粋に「知る」ための時間だった。インクと古紙の匂いに満たされた静かな空間で、彼は忘れかけていた探求心の喜びを静かに噛みしめていた。
しかし、資料だけでは「なぜ今も踏切が動くのか」という謎は解けない。
(やはり、人に話を聞くしかないか)
五郎は、ラストランの記事に写っていた運転士の名前が「鈴木」であることを、メモ帳の隅に書き留めた。
翌日、彼は実家の近所にある、昔ながらの商店街に足を運んだ。目的は、聞き込みだ。
「よう、五郎ちゃんじゃないか。東京から帰ってたのかい」
最初に声をかけてくれたのは、八百屋の白髪の店主だった。五郎が子供の頃から、全く変わらない笑顔だ。
「ご無沙汰してます。ちょっと、お聞きしたいことがあるんですけど……」
五郎は少し照れながらも、里山鉄道のこと、そして昨日の踏切での奇妙な出来事を話してみた。すると、店主は「ああ、あの踏切か」と、何かを思い出すように少しだけ遠い目をした。
「不思議なことがあるもんだな。だが、あの路線に一番詳しかったのは、やっぱり運転士の鈴木さんだろうな。誰よりも里山鉄道を愛してた人だから。今も確か、あの踏切のすぐ近くに住んでるはずだよ」
鈴木さん。昨日、新聞で見た名前と一致した。
点と点が、繋がり始めている。確かな手応えに、五郎の心が静かに高鳴るのを感じた。彼は店主に礼を言い、鈴木さんの家があるという踏切の方向へと、迷わず歩き出した。
踏切のすぐそばに、その家はあった。手入れの行き届いた小さな庭を持つ、古いが趣のある平家だ。表札には、確かに「鈴木」と書かれている。
五郎は家の前まで来ると、一度、息を呑んだ。インターホンに伸ばしかけた指が、寸前で止まる。
(いや、待てよ)
いきなり訪ねて、ただの不審者だと思われないだろうか。そもそも、何と切り出せばいい?「あなたの家の前の踏切が動くんですけど」なんて、あまりに唐突すぎる。
それに、と五郎は思う。
記者だった頃の自分なら、相手の都合などお構いなしに突撃し、矢継ぎ早に質問を浴びせていただろう。だが、今は違う。この静かな町の謎には、もっと静かな向き合い方があるはずだ。
彼は腕時計に目をやった。時刻は、午後4時半を少し回ったところだった。
(噂は、夕方5時……)
まずは、この目で見てみよう。全てはそれからだ。
五郎は鈴木さんの家から少しだけ距離を取り、踏切がよく見える大きな木の陰にそっと身を寄せた。まるで、獲物を待つような、それでいて、何かの儀式を見守るような、不思議な緊張感が彼を包む。
じりじりと照りつけていた西日が和らぎ、町のあちこちから夕飯の支度をする匂いが漂ってくる。カラスが鳴き、子供たちの笑い声が遠くに聞こえる。故郷の、ありふれた夕暮れの風景。
その、あまりに穏やかな静寂を破ったのは、唐突だった。
町の時計台が、夕方5時を告げる鐘を鳴らした、その瞬間。
カン、カン、カン、カン……!
昨日と同じように、古びた警報機が鳴り響いた。
五郎が息を殺して見つめる先で、ゆっくりと遮断機が下りてくる。と、同時に、鈴木さんの家の玄関が静かに開き、中から小柄な老人が一人、姿を現した。年の頃は八十歳くらいだろうか。手には、小さな一輪の花を持っている。
老人は、慣れた様子で線路のそばまで歩くと、まるで誰かに合図でもするかのように、遠くに向かって小さく頷いた。
その直後、線路の奥のカーブから、何かが現れた。
列車ではない。
それは、大人が一人乗れるくらいの、手作り感あふれる小さなトロッコだった。モーター音もなく、まるで幽霊のように、ゆっくりと、静かに、それは五郎の前を通り過ぎていく。
老人はそのトロッコに、持っていた一輪の花をそっと供えた。
やがてトロッコは反対側のカーブへと消えていき、警報音が鳴り止むと、遮断機が静かに上がっていく。老人はその様子を最後まで見届けると、家の中へと戻っていった。
後に残されたのは、昨日と同じ、ひぐらしの声と、目の前の出来事が全く理解できずに立ち尽くす五郎だけだった。
(いったい、今の儀式は、何なんだ……?)
五郎の心は、激しく揺さぶられていた。
新聞記者としての本能が、今すぐあの家のインターホンを押し、真相を問いただせと叫んでいる。20年間、そうやって生きてきたのだ。
だが、同時に、別の感情が強くブレーキをかけていた。
先ほどの老人の姿。トロッコに花を供える、あの静かで、どこか切ない横顔。
あれは、記事のためのパフォーマンスなどでは断じてない。誰にも知られず、たった一人で行われる、極めて個人的な儀式だ。その神聖な時間の直後に、ずかずかと踏み込んでいっていいはずがない。
(昔の俺なら、行っただろうな……)
自嘲気味に呟く。それが原因で、一体どれだけの人の心を傷つけ、どれだけの信頼を失ってきたことか。
五郎は、鈴木さんの家の玄関を静かに見つめた後、ゆっくりと踵を返し、その場を離れた。
謎は、明日聞けばいい。
今日は、あの静かな儀式の余韻を、壊すべきではない。それは自身のしたいことではない。
実家への帰り道、五郎の頭の中は、先ほどの光景でいっぱいだった。
あのトロッコは何なのか。なぜ花を? 老人は一体、誰のために……?
次々と湧き上がる疑問は、しかし、東京で感じていた焦燥感を伴うものではなかった。むしろ、一つの物語のページを、一頁ずつ、大切にめくっていくような、静かな興奮があった。
翌朝、五郎は朝食を済ませると、改めて鈴木さんの家へと向かった。
昨日とは違う、穏やかな朝の光が、古い平屋を照らしている。
五郎は一つ深呼吸をすると、今度こそ、迷わずにインターホンのボタンに指を伸ばした。
ピンポーン。
静かな住宅街に、少し間の抜けたチャイムの音が響き渡った。
すると、ゆっくりとドアが開き、中から昨日の老人が出てきた。深いしわが刻まれた顔に、少し訝しげな色が浮かんでいる。
「……どちら様かな」
「突然すみません、この辺りに戻ってきた林と申します。鈴木さんにお聞きしたいことがあってお伺いしました。」
五郎は、東京にいた頃にはしたこともないくらい、丁寧に頭を下げた。
「林さん……。わしに何か用かね」
鈴木さんの目は、値踏みするように五郎を見ている。無理もない。いきなり見知らぬ男が訪ねてきたのだ。警戒するのは当然だった。
「実は、昨日、あそこの踏切が夕方5時に動くのをお見かけしまして。……いえ、決して不審に思ったとか、そういうことではないんです」
五郎は慌てて付け加えた。
「この町を離れて長かったもので、子供の頃に見ていた里山鉄道のことが懐かしくなって、少し調べていたんです。それで……」
「廃線になったもんを今更調べて、何になる」
鈴木さんの声は、少し硬い。五郎は、ここで引いてはならないと感じた。
「いえ、どうなるという訳では……ただ、この町の記憶を、誰かが覚えていないといけない。そう思っただけなんです」
五郎は、まっすぐに鈴木さんの目を見て続けた。
「東京で記者をしていましたが、もう辞めました。数字やスクープを追いかけるのに、疲れてしまって。だから、あなたの邪魔をするつもりは、全くありません」
その言葉に、鈴木さんの険しい表情が、ほんの少しだけ和らいだように見えた。彼はしばらく黙って五郎の顔を見ていたが、やがて、かすかにため息をついた。
「……立ち話もなんだ。まあ、上がりなさい」
通された居間は、古いが綺麗に片付いていた。仏壇に線香の匂いが静かに漂っている。鈴木さんが出してくれた少しぬるい麦茶を一口飲んだところで、彼は奥の部屋に目をやった。
「家内が、あそこで寝とるんです」
ぽつりと、鈴木さんが言った。
「妻のハルエは、昔からあの路線の最終列車が大好きでな。わしが運転するあの列車が家のそばを通るのが、一日で一番の楽しみだった。窓から手を振るのが日課での」
鈴木さんは、遠い目をして語り始めた。
「数年前から、認知症が進んでな。今では、わしのことも、もう分からん。……じゃが、不思議なもんでな。あの踏切の音と、ガタンゴトンという振動だけは、あいつを穏やかにするんだ」
五郎は、息を呑んだ。
「ほんの一瞬じゃが、昔の、ハルエの顔に戻る気がしてな。だから、わしは毎日、あいつのために列車を走らせとる。医者にも見放された、わしにできる、たった一つのことなんじゃ」
昨日のトロッコに乗せられていた一輪の花は、きっと、奥さんの枕元に飾るためのものだったのだろう。
それは、事件でもなければ、スクープでもない。
ただ、一人の男が、愛する妻のためだけに捧げる、二十年前に止まったはずの時間を、たった一人のために動かし続ける、祈りのような行為だった。
五郎の胸に、熱いものがこみ上げてきた。これだ。自分が本当に伝えたかった物語は、こういうことだったのだ。
「鈴木さん」
五郎は、意を決して口を開いた。
「もし、ご迷惑でなければ、そのお話を、記事にさせていただけないでしょうか。人の興味を引くためじゃない。こんなにも深い愛情がこの町にあることを、記録として、物語として、残したいんです」
鈴木さんは、黙って五郎の目を見ていた。そして、ゆっくりと、一度だけ深く頷いた。
「……あんたになら、ええかもしれんな」
その声は、少しだけ震えているように、五郎には聞こえた。
帰り道、五郎は自分が記者になろうと思った、青臭い大学生の頃の気持ちを思い出していた。
(大きな事件や数字を追うことだけがジャーナリズムじゃない、こうして埋もれていく人々の小さな声や物語を、丁寧に拾い上げ、記録していくこと。それこそが、自分が本当にやりたかったことだったんじゃないか)
家に着くと、五郎は逃げるように帰ってきたはずの我が家が、まるで自分の城のように感じられた。彼は憑かれたようにパソコンを開く。東京ではあれほど苦痛だったキーボードの感触が、今は心地よい。指が自然に動き出し、鈴木さん夫婦の物語を、だれかを傷つけるためではなくその尊さを伝えるために、一文字一文字、紡いでいく。
食事も忘れ、時間も忘れ、彼は書き続けた。窓の外が白み始め、鳥の声が聞こえてきた時、五郎は最後の文字を打ち込んだ。
「……できた」
自身の書き上げた記事を、五郎は何度も読み返した。そこには、PV数を稼ぐための扇情的な見出しも、誰かを傷つける言葉もない。ただ、静かで、深い愛情の物語だけが息づいていた。
画面に表示された記事のタイトルを、彼は指でそっと撫でる。
『三十年目の最終列車』
そのタイトルを見つめながら、五郎は晴れやかな気持ちで固く決意した。
(よし、もう一度、記者としてやってみよう。この町から、ここから始めよう)
そのタイトルを見つめながら、五郎は晴れやかな気持ちで固く決意した。
(よし、もう一度、記者としてやってみよう。この町から、ここから始めるんだ)
やがて、町の片隅で、一つの小さなウェブメディアが産声を上げた。
その名は、ウェブ通信「里山だより」。
そのトップページには、こんな言葉が掲げられていた。
「あなたの隣にある、小さな物語を、未来へ。」
閲覧いただき誠にありがとうございます。処女作故に読みづらい等あったかもしれませんが、この作品によって楽しませることができたなら幸いです。




