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はや、く……帰らないと。
こんなところを見られたら、怪しい人だって思われる。なんとか呼吸だけでも整えようと、大きく深呼吸を繰り返し、体力の回復を待っていれば。
――――ドサッ!
どこからか、重たい音が聞こえた。まるで上からなにかが落ちたような、そんな音。上体を起こし周りを見渡すも、それらしいのは見当たらなくて。
……気のせい、だよね。神経が過敏になっているんだろうと思い、再び横になれば……ぞくっと、嫌な感覚が走った。寒くもないのに、体が、勝手に震える。怯えているような、理解できないなにかが、体の中を駆け巡っていく。
「この匂い――そっちか」
また、何か聞こえた。
誰かがいる……と、姿なんて見えないのに、確信にも似たものが私の中にあった。ドクッ、ドクッと、大きく脈打つ心臓。ここから早く逃げろと、まるで全身が警告しているように、その音は激しさを増す。
これは薬のせい。 違う。
これは考え過ぎ。 違う。
幾ら納得させようとしても、それが不自然だと、否定的な考えが浮かんでしまう。
この場から離れよう。そう考え付いた時には――もう、遅過ぎた。
「み~つけた!」
突然、目の前に現れた男性。私と同じ目線にしゃがみこむと、なんとも楽しそうな笑みを見せた。
い、いつの、間に……?近付いて来る気配なんてなかった。それこそ、靴の音すらしなかったのに……。あまりに驚いた私は、声も出せないまま、ただじっと男性を見つめた。
?――――これ、って。
どこかで嗅いだことのある、慣れた臭い。男性に向けている視線をゆっくりそらして見れば――口元に、液体のようなものが見えた。
もし、かして……。
それがなんであるのかを理解するのに、時間は要らなかった。だってそれは、いつも病院で見慣れているもので――血だと、すぐ認識した。
「アンタ……いい匂いだね」
なんとも艶のある声で、男性は語りかける。
怪しく光る瞳は、淡い緑色を宿し。その中にはしっかりと、私の姿が映し出されていた。淡く、さらさらとした茶色の髪に、中性的な顔立ち。あまりにも綺麗なその容姿から、視線をそらすことができなかった。
「あれ、意識あるんだ? へぇ~珍しい」
まじまじと私を見つめ、更に近付いてくる男性。咄嗟に体を動かし、逃げようと足に力を込めた途端、
「ふふっ、ムダだよ」
男性の両手が、私を囲っていた。
「そんな怖がらないでよ。ついでだから、ちょっと調べさせてね?」
口調は明るいものの、男性の視線はとても冷たくて。射るような眼差しに、体は一層、震えを増していった。
「大人しくしてれば……すぐ済むよ?」
怪しい笑みを浮かべると、男性はあっと言う間に、私の体を引き寄せた。何が起きたのかと困惑していれば、今度は顎に手を添えられ。
?……な、なに、を。どうするのかと思えば、くいっと強制的に上を向かされる顔。そこには、間近に迫る男性の顔があった。
「……、……っ」
「ははっ、怖がる顔もいいね」
距離を縮める男性。近付くたびに恐怖は増していき、それが最高潮になった瞬間――私はぎゅっと、硬く目を閉じた。
「――その顔、そそるね」
逃げ、たい。逃げたい、のに……!
体は思うように動かず、ただこのままじっとするしかできないのかと思っていれば、
「?――――泣いてる?」
声がすると同時。思わず目を開けると、迫っていたはずの顔は離れ、どこか、戸惑うような雰囲気の男性と視線が交わった。
自分の顔に触れてみると、頬に涙が伝っていたことを、今更ながら気付いた。