02. 王女殿下のお茶会(2)
一人の護衛騎士を従えたデューベン殿下の登場に、その場にいた大半の者が息を呑む。動揺を見せなかったのは、ベルフール殿下とノービル様くらい――いや、私もか。婚約者候補という立場で何度も会っている。いまさら緊張なんてしない。
「まあ、早々に約束を反故になさるなんて」
ベルフール殿下が優雅な所作で立ち上がる。もちろん私も皆も、ほぼ同時に席を立った。この国では、目上の相手に挨拶する際は立ち上がるのが礼儀とされているからだ。
社交界デビュー前の子ども同士や友人同士であれば省略することも多いけれど、彼に対してはそうもいかない。この国の王位継承権第一位、デューベン殿下に座ったまま挨拶をできる人間なんて、国王陛下と王妃殿下しかいないのだから。
ベルフール殿下が前に進み出て、私たちの前に立つ。ピッと背筋を伸ばしてから深くお辞儀をした彼女に、皆が続いた。一糸乱れぬ――とまでは言えずとも、波が引くような統率の取れた礼。デューベン殿下は、私たちを見てちょっと困ったように笑った。
「みんな座ってくれるかな。ごめんね、邪魔をしたいわけじゃなかったのだけど」
「それならば、わたしとの約束どおり大人しくお待ちいただければよろしいのですよ、デューベン殿下」
ベルフール殿下が顔を上げる。彼女はデューベン殿下を兄とは呼ばない。彼女は王弟殿下の娘であり、血縁関係でいえばデューベン殿下とは従兄妹。王弟殿下が八年前に亡くなられた際、国王陛下が彼女を養女として引き取ったから、書類上は兄妹となっているのだけれど。
何年経ってもデューベン殿下を兄と呼ばないのは、彼女の意志。さっきのお辞儀も、完全に臣下としてのそれだ。彼女が美しいお辞儀を見せるたび、デューベン殿下はさびしそうな顔をする。
「僕が大人しく待っていたら、君は適当な理由をつけてフィアマを帰すんだろう?」
「まあ、そんな」
ベルフール殿下は穏やかな声を発したけれど、否定はしなかった。そりゃあ私も彼の存在を知らされれば、会わずに帰る。デューベン殿下は苦笑してから私を見た。
「フィアマと少し、話をしたいのだけど」
彼が何度か私に文を送ってくれたことも、私が滞在中の別邸に遣いをよこしてくれたことも知っている。すべてスルーしていたから、強行突破に出たらしい。しきたりを大事にされる方だから、デビュタント前の令嬢たちの前に出てくる可能性は低いと思っていたのだけれど。
まあ、まったく予想していなかったわけではない。それならそれで、見せつけるまでだ。
私は近くに立っていたノービル様の腕に、ぎゅっとしがみつく。
「申し訳ございませんが、私、今からノービル様に媚薬を盛るので忙しいんですの」
「…………うん?」
デューベン殿下はキョトンとした顔で固まった。ノービル様もちょっと黙ったけれど、ぎこちない動きで私を見下ろしてくる。
「……なんだって?」
「もしや、ノービル様は媚薬をご存知ない?」
「知っとるわ! ベルフール殿下の茶会になにを持ち込んどるんだ、おまえは!?」
そう言われても。ちらとベルフール殿下に目を向けると、彼女は穏やかな笑みを返してくれた。
「持ち込んだのはわたしよ、ノービル騎士団長。ここから一番近い部屋にベッドを用意してあるから、男らしく飲み干してくださるかしら?」
「なんてもんを用意してるんですか!?」
「招待客の期待に応えるのが主催の役目ですもの」
「応えるべき期待とダメな期待があります!」
ノービル様は口をパクパクさせているし、デューベン殿下はまだ固まっている。見回してみれば、ベルフール殿下の護衛騎士二人は青い顔をしているし、デューベン殿下の連れてきた騎士も唖然としている。平然としているのは女性陣だけだ――なにせ、全員グルなので。かつての旧友たちは、『既成事実を作りたいと』『証人ですね、お任せください』等々、だいたいみんなノリノリだった。
私はノービル様のたくましい腕にしがみついたまま、ふくよかに育ってくれた胸をさらに彼に寄せる。
「ノービル様は歳の差や家格の差を気にされていましたでしょう? つまり、とても理性的で常識的な判断をされるということ。それならば――既成事実さえ作れば私の勝ちですわ」
「惚れたら勝ちって話はどこいった!?」
「体と心のどちらが先かなんて、ノービル様が相手なら気にしませんわ。さ、どうぞ一服」
「飲むかッ!!」
ノービル様が大声で怒鳴り、腕を振りほどく。乱暴にはされなかったけれど、力強い。ノービル様の声にビクッと肩をふるわせたデューベン殿下が、ようやく我に返った様子で、視線をさまよわせる。
「いやその、媚薬、とか、そういうのは……よくないと思うよ……」
しどろもどろになってそう口にする殿下は、頭のてっぺんから首まで真っ赤に染まっていた。普段は大人びて見える端正な顔立ちも、へにゃっと眉尻を下げているとずいぶん幼く感じる。こういう少し気の弱いところも、〝格好いい〟より〝美人〟という言葉が似合う中性的な風貌も、筋肉質ではないほっそりした体型も、私の好みではない。でもベルフール殿下は『そこがかわいいのよ』と言う。好みは人それぞれだ。
「とっ、とにかく、彼も飲まないと言っているのだから、媚薬は回収させてもらうよ」
赤い顔でティーセットを乗せたワゴンを振り返るデューベン殿下に、ベルフール殿下が寄っていった。
「せっかくフィアマのために用意したのに、回収だなんて。ひょっとしてデューベン殿下も、媚薬に興味がおありですか?」
「そうは言ってない! ただ、その、結婚してから双方合意の上で使うものを、未婚の男女の前に出すのはよくないと」
「もしお試しになられる際は、ぜひわたしを呼んでくださいね。殿下がよそのご令嬢に手をつけたら大事ですもの」
「たまにベルは僕の話を聞かないよね。妹に手を出しても問題だよ……」
「……わたしは妹ではありません」
子どもみたいに拗ねた声でそう言って、ベルフール殿下は自席に戻っていった。デューベン殿下はしゅんとしているけれど、あれはきっと〝また妹に拒絶された〟と凹んでいるのだろう。そうではない。ベルフール殿下が彼を兄とは呼ばない理由をもう少しじっくり考えてみてほしい。聡明な方のはずなのだけれど、どうしてああも鈍感なのだろう。
ベルフール殿下以外の女性陣が揃って責めるような目線をデューベン殿下に向けたせいか、彼は困惑顔で首を傾げた。
「ええと、それで、フィアマと話をしたいのだけど」
「私へのお話でしたら、今ここでうかがいますわ」
一歩も動かずにそう返せば、殿下はしばし黙ってから、私の前まで歩いてくる。そして懐から取りだした一枚の羊皮紙を私に差し出した。
「じゃあ、今これを読んでもらえるかな?」
「……わかりました」
嫌な予感がしたけれど、この状況で断る言い訳は思いつかない。羊皮紙に目を落とせば、それはミラー公爵家から王家に宛てて送った手紙の返事だった。
私は皇太子妃候補を辞退させていただくと、おうかがいの打診ではなく〝通達〟として送ったのに、書かれていた返事は――〝却下〟。つい眉がきゅっと寄った。
「そんな顔をしないで。僕は君の力強い笑顔が好きなんだ」
その声にゆっくりと顔を上げれば、デューベン殿下は穏やかに笑って、私の手から羊皮紙を抜き取る。羊皮紙はそのままノービル様の手に渡った。
「ノービル騎士団長、証人として確認を頼めるかな」
「かしこまりました」
やられた。デューベン殿下の〝話をしたい〟なんて嘘だ。手紙なんて受け取っていないと言い逃れできないよう、人前で返事を読ませることが目的だったのだろう。
私に向けられたノービル様の目が、「それみたことか」と言っている。デューベン殿下から届いた手紙は、まだ読んでいないことを示すためにあえて未開封で放置していたけれど、あっちはダミーだったのかもしれない。……いや、あっちも同じものだった可能性はある。
「そんなわけで、君はまだ僕の婚約者候補だから。来週のパーティには迎えをやるよ」
「まあ、お気遣いなく。パーティには父や兄と一緒にまいります」
迎えなんかよこされてたまるか。申し出を受ければ、私がデューベン殿下と仲睦まじく見えてしまう。ひくつきそうになる口元をそっと手で隠して微笑むと、殿下は穏やかに笑ってノービル様に目を向けた。
「彼を君の迎えに送ると言っても?」
「えっ」
「俺ですか? 一つ苦言を申し上げるならば、ベルフール殿下もデューベン殿下も、私用に騎士団長を使いすぎでは? 俺はそのパーティの警備の主任なんで、離れるわけにはいかんのですが」
「国王陛下とは相談の上さ。それに――」
デューベン殿下がノービル様に近づいていき、なにかを耳打ちする。ぴく、とノービル様の眉が動いた。にこりと笑んだデューベン殿下は、ノービル様の肩を一度叩いてから、もときた方向に向かって歩き始める。
「正式な命令書はパーティまでに送らせるよ。よろしくね」
「……承知いたしました」
国王陛下と相談済で、正式な命令書まで出すということは、国王命令だということ。さすがにそれを拒否することはできない――いや、待てよ?
私だって、皇太子妃候補の辞退の通告を突然王家に送りつけたわけではない。お父様を通じて、国王陛下に事前の打診はした。その時点で却下されなかったからこそ送ったのに。
「……どういうことかしら」
私の呟きを拾ってくれたのはベルフール殿下だ。
「わたしがあとで陛下に確認してみるわ。議会前でお忙しい時期だから、必ずとは言えないけれど……それより皆さん、お座りになって。今度こそお茶会を始めましょう」
ベルフール殿下にうながされ、ずっとたち続けていた皆が席に向かって歩き始める。その中で一人、棘のある声を上げた令嬢がいた。
「ちょっとリリ、なんですのあのお辞儀は!」