サラとミラの異世界冒険譚~お味噌を探して三千里~
「あー疲れた。よっこいしょ」
沙良は目覚めて布団から起き上がるとき、いつもこう言う。長年の習慣だ。起きた瞬間から、もうしんどいってどういうことだろうとは思うけれども。
「それが老いるってもんだから、仕方がない」
だましだまし、無理せず低空飛行で生きてきたら、いつの間にか七十歳だ。立派なおばあさんだ。朝ごはんはトーストとコーヒー。お気に入りのカップにたっぷりと注ぐ。徳島に行ったとき買った大谷焼のコーヒーカップ。手にしっくり馴染む感じと、木の葉型のソーサーが気に入った。
木の葉ソーサーの空いている場所に小さなクッキーを置き、そろそろと仏壇に供える。
「お父さん、おはよう。今日も無事に目が覚めましたよ。今日はお習字の教室があるから、少し騒がしくなりますよ」
ひとしきり今日の予定を報告し、焼きあがったトーストにチーズをのせて食べる。夫が亡くなってもう三年。なんやかや気を紛らわせることがあるので、なんとかなっている。
でも、たまにものすごく寂しいような、むなしいような気持におそわれることがある。ひとりだと、凝った料理を作る気もしない。簡単に、適当な、野菜炒めとお味噌汁。そんな日々。
見かねて娘や孫娘が世話を焼いてくれる。
「ゲートボールとかやってみたら?」
「ひざが痛いのよねえ」
「マッチングアプリやってみなよ、おばあちゃん。私がやりとりしたげる」
マッチングアプリとやらの詳細を孫娘から教わり、沙良は丁重にお断りした。
「今さら、愛だの恋だのする気はないわね。それに、もう誰かのお世話をするのはまっぴら」
「お父さん、家事はあんまりしない人だったもんね」
娘がしみじみ言う。沙良は慌てて夫の名誉を回復しようと補足する。
「昔はそういんものだったのよ。お父さんが外でお金稼いでくれて、家は私が守る、そういう時代だったの。それに、お父さんは電球の交換とかはしてくれたのよ」
高いところにある電球を替えなくなってどれぐらいだろうか。皆で、もう明かりの灯らない電気かさを見上げる。
「言ってくれれば、電球ぐらい変えるのに。美香が」
「あ、やっぱりアタシか」
孫娘が小さく手を上げる。
「いいのよ。もう明々と電気をつけたい気分でもないから。卓上電気で十分」
「でもお母さん、暗いと掃除がしにくいんじゃない。すみっこにホコリが残ってるよ。それに、うっすら色んなところにホコリがたまってるような」
「生徒さんたちが来るときは、座敷は掃除してるから、大丈夫よ」
沙良は近所の子どもたちに、書道を教えているのだ。やることがあるというのは、いいことだ。少なくともひとりでポツネンと考え込む時間は減る。
「おばあちゃん、元気出してね。またくるからね。元気になったら、またおはぎ作ってね」
ちゃっかりしている美香は、堂々とおねだりをする。孫は娘とは違うかわいさがある。しつけやなんかを余り気にせず、猫かわいがりできる存在だ。沙良は顔がほころぶ。
「おはぎでもなんでも、作ったげるよ。いつでもおいで」
「はーい」
あずき系の甘味が好きな美香のために、おはぎやぜんざい、かしわ餅なんかを作って、携帯でメッセージを送る。やり方は美香が手取り足取り教えてくれた。
「おはぎができましたよ」
「授業が終わったらいくねー」
美香からすぐに返事がくる。約束通り、美香は大学から沙良の家に来てくれた。でも、ひとりではなかった。
「おばあちゃん、どうしよう。この子が道に倒れてたの。どうしたらいいかな」
ぐったりしている子犬を抱え、美香は真っ青だ。
「すぐ病院に連れていこうね。お隣に車出してもらえるか聞いてくる」
沙良は隣家を訪れ、訳を話すとすぐに車を出してくれた。近所の獣医まで運んでくれる。
「車にはねとばされたみたいですね。乗り上げられたわけではないみたいだから、打撲で済んでますね。不幸中の幸いでしたね。えーっと、この子のお名前、どうしましょうね」
カルテに書こうと獣医さんが問いかける。沙良は美香と顔を合わせた。
「そうですね。私と孫の名前を合わせて、ミラちゃんです」
「ミラちゃん。ホント、いい名前だね、おばあちゃん」
美香は何度もうなずく。
「保健所に連絡しておきます。捨て犬ではなく、飼い犬がはぐれたのであれば、飼い主が探しているかもしれませんから」
「もし、飼い主が現れなければ、私のところで飼います」
沙良は決心した。美香がずっと犬を飼いたがっていたのを知っていたから。美香の家はマンションなので、犬は飼えない。
「飼ってくれるの、おばあちゃん?」
「これも何かの縁だと思うからね。それにせっかく助けたのに、保健所行きだとかわいそうじゃない。気になって夜寝られなくなっちゃう」
「アタシも散歩するからね」
「来週また連れてきてください。様子を見て、予防接種もしましょう。それまでに容体が急変したら、すぐ来てくださいね」
ぐったりしていたミラは、徐々に元気になった。元気すぎるくらいだ。朝と夕方にたっぷり散歩しても、ミラは満足してくれない。ひもを引っ張って家の方に向かおうとすると、前足をピーンとして必死で抵抗する。おかげで沙良の足腰は鍛えられた。
「ミラちゃんは、シェパードみたいね。激しい運動をしてあげないと、イライラしちゃうみたい」
「これ以上の運動は、私には無理ね。もう、今でヘトヘト」
「バイト入ってないときは、アタシが川辺に連れていって、ボール投げでもするよ」
「助かるわ、美香ちゃん。ありがとう」
「どういたしまして。アタシが拾ってきた犬だもん。犬ってホントにかわいいね」
美香は沙良の家によく泊まるようになった。授業に行く前にミラの散歩をしてくれるのだ。かわいい孫娘とミラに囲まれ、沙良はボーッと虚空を眺めることが減ってきた。
「私が亡くなったら、この家に美香ちゃんが住んでくれるといいんだけど。そしたらミラちゃんも安心だし。相続税がややこしいかもしれないね。弁護士先生に聞いてみようか」
娘夫婦と一緒に、弁護士に相談し、美香への生前贈与ができることになった。なんだか、その方が相続税なんかが安くなるらしい。沙良は途中から話についていけなくなったが、娘夫婦が色々確認していたので大丈夫だろう。
「やれやれ。これでいつでも逝けるね。お父さんが待ってるからね」
散歩の途中で言い聞かせる。ミラは何度も首を傾げて、沙良を見上げる。
「ミラちゃんのことは、美香ちゃんが面倒見てくれるからね、安心しなさい」
ミラは沙良の話を聞いているのかいないのか、歩道橋の匂いを熱心にかいでいる。
「そろそろ帰ろうか。美香ちゃんがうちで泊まるって」
美香の名前を言うと、ミラは途端に機嫌がよくなる。明日の朝はたっぷり激しい散歩をしてもらえると分かるのだろう。いつもならグズグズするのに、素直に家に向かってくれる。歩道橋をゆっくりゆっくり手すりにつかまりながら降りる。
「あっ」
膝がガクッとなって、うまく足をおろせず態勢が崩れた。ミラを潰しそう。とっさにヒモを手から放そうとする。もたもたしているうちに、沙良はヒモを持ったまま歩道橋の階段から落ちてしまった。
***
「サラさん、あぶなーい」
ミラはワウワウワウーと思いっきり吠えた。
「あたくしめが受け止めまーす」
ミラは足に力を込め、沙良の方に飛び上がる。
「ナイスキャッチー」
いつもボールを口で華麗にくわえると、言われる言葉。自分で言いながら、ミラはがっしと沙良を受け止めた。はずだった。
「あれー、見たことのない天井です」
ミラは目を開けてビックリした。サラさんの家の天井は色んな模様がある。たまににらんでいるように見えて、ミラはワウワウ吠えてしまう。
「ミラちゃん、あれは木の模様だから。怖くないよ」
サラさんはいつもそういうけど、ミラは念のため吠えているのだ。サラさんを襲いに降りてきたら大変だ。ミラは番犬としてサラさんを守らなければならない。命を助けてもらい、温かいごはんとフカフカの布団ももらったのだ。
「おばあちゃんと散歩に行くときは、あまり速く歩かないのよ。おばあちゃんをちゃんと守ってよ」
そうミカさんにも言われている。ミラは言いつけを守る、とてもえらい忠犬。
「あれ、そういえば、サラさんはどこ? サラさーん」
ワウワウワウー。少し耳が悪いサラさんのために、思いっきり吠えた。
バタンッとドアが開き、知らない女の人が入ってくる。目が真ん丸だ。
「ミラ様、いかがなさいましたか? 犬の鳴き声がしましたが」
「サラさん、どこ? サラさんの匂いがしない」
「サラさんとは、どちらのサラさんでしょうか? 学園のご友人ですか?」
「ちがう。サラさんは、おいしいお味噌汁かけごはんを作ってくれるサラさん。玉ねぎとネギはあたくしめのお腹が痛くなっちゃうから、もう入れないんだって」
「はあ」
女の人は小声で「お嬢様ったら寝ぼけていらっしゃるわ」って言いながら、ミラの手をひっぱりフカフカのお布団から起こす。銀色のピカピカの前に座らされた。
「かわいい女の人ですね。ミカさんのお友達ですか? ワウッ」
話しかけると、銀色の中の女の人がワウッと言う口をした。あら、この人、犬語が話せるのかしら。あれ、ピンク髪の人のうしろに、あの女の人が。毛づくろいをするのですね。毛づくろいはいいですよね。
まあ、あたくしめまで毛づくろいされています。お揃いですね。後ろを振り向くと、白いフワフワを頭にのっけた女の人がいます。おや、この人、ふたりいます。
「あ、これって鏡というヤツではー。サラさんの家にもありました。よく吠えて怒られたアレー」
ワウワウーンと遠吠えをすると、女の人がパタリとブラシを落とし、後ずさりします。怖がらせてしまったようです。
「旦那様―、奥様―、ミラ様がおかしくなってしまわれましたー」
女の人は走って出て行ってしまった。
しばらくして走って戻ってきた女の人に、どこかに連れて行かれる。大きなドアの前に立つと、ミラの体がこわばった。なんか、ここで、たたかれたことがあるような。
ミラではないけど、ミラの中の人が怖がっている。かわいそう。あたくしめが噛んであげましょうかね。
「人は絶対噛んじゃダメよ。でも、おうちに勝手に入ってきた泥棒とかは噛んでいいのよ。おばあちゃんが危ない目に合ってたら、守ってあげてね」
ミカさんにそう言われたんでした。ミラはいい子です。いいつけは必ず守ります。ミラの中の人はサラさんではないけど、守ってあげなければ。そんな気がします。
「グルルルルル」
ミラは威嚇しながら部屋に入る。長いヒモを持った男と女がいる。あのヒモは痛いやつ。あれでぶたれると、体が腫れあがって熱が出るんだって。
「やはり平民の孤児はダメだな。どれだけしつけしても、おかしくなる。見目がよいから、養女にしてやったというのに。なんだその反抗的な態度は」
「あなた、鞭はやめてくださいな。もうすぐ夜会がありますのよ。いいとこの令息に見初めてもらわなければならないのよ。ごはんを抜けばいいわ。ほっそりして儚い方が、令息たちの庇護欲をそそるでしょう」
男と女がいやな顔で言う。ミラは、こんな人に出会ったことがない。サラさんとミカさんの周りは、みんな優しい。
「ごはんをくれない人なんて、ご主人と認めません。あたくしめのご主人は、サラさんとミカさんだけ」
ミラは走り出し、はずみをつけ飛び上がり、男と女ののどぼとけに蹴りを入れた。
「噛みついてないから、ミカさんにばれても怒られません」
ぐんにゃりと床に横たわった男と女の上で飛び跳ねながら、ミラは得意満面だ。
「さあ、ごはんにしましょう。味噌汁かけごはんがいいです。カリカリも好きだけど、やっぱり味噌汁かけごはんがいいです。玉ねぎとネギは抜いてください。じゃがいもがいいです」
後ろのドアのあたりに群がっている人たちに、ミラはにこやかに言った。あの人たちは、怖がってるだけでミラを痛めつける気はなさそう。そんな匂いがする。
「あの、旦那様と奥様はどうなって」
「いい人になるまで、あたくしめが毎日踏んであげます」
ミラは、サラさんとミカさんにクンレンシという人のところに連れて行かれたことがあった。叩かれたりはしなかったけど、厳しい雰囲気のその人は、ミラに根気よく社会のルールというやつを教えてくれた。
「急に走り出したらダメだよ。沙良さんがこけて痛いことになってしまう。沙良さんが痛いと、ミラちゃんは悲しいはずだよ」
それはそう。サラさんはごはんをくれる大事な人。
「ミラちゃんはとっても強い大きな犬になるはずだ。強い犬は、人を守らなければならないよ」
「分かりました。お任せください。ワウワウーン」
ミラは人を守る、強くて大きな犬。とっても頭のいいシェパード。悪い人がいたら、いい人になるまで飛び蹴りと踏みつけです。噛まなければ、大丈夫。
ミラが長々と説明すると、ドアの周りにいる人たちは、顔を見合わせうなずきあっている。
「お嬢様がそうおっしゃるなら、ねえ」
「ご家族のことに、私たち使用人がどうこう口をはさむのも、ねえ」
「お嬢様のご指示に従いましょう」
「これが下剋上というヤツでしょうか。初めて目の当たりにしました」
「屋敷内で起こったことは、外には漏らさないということで」
「ええ、醜聞は隠さないと、ねえ」
「新しいご主人様、ミラ様にお食事を。残念ながらオミソシルかけごはんというものは、聞いたことがありませんが。おいしいスープとパンならございます」
ミラは大好きなお味噌汁かけごはんがないと知って、少ししょんぼりした。でも、すぐに気を取り直す。
「スープには玉ねぎとネギは入れないでくださいね」
「はい。料理長に伝えておきます」
ミラはおおむね幸せだ。おいしいごはんが出てくるし、大きな屋敷は走り回るのが楽しい。
「サラさんをみつけないといけません。サラさんがどこかにいる、そんな気がします」
ミカさんはいないような気がする。寂しいけれど、まずはサラさんだ。守るべきご主人さまだもの。
***
「ここは、病院かしら」
沙良は目が覚めるとフカフカのベッドに寝ていた。天井が高く、洋風の部屋。どこか痛いところはないから、腕を伸ばしたり足を曲げたりしてみる。
「どこも痛くない」
いつもなら、体のあちこちが痛くて、「あーよっこいしょ」と掛け声を出さないと起き上がれないのに。まるで羽のように体が軽い。
「しわがない」
ベッドから出て手を見て、沙良は驚いた。ツルツルの、まるで美香のような手。鏡を見て、さらに仰天した。
「あらー、金髪碧眼のお嬢さんじゃないの。ということは」
ここは天国ね。沙良は合点が言ってうなずく。鏡の中の美少女も生真面目な顔でうなずく。
「私、こんな西洋人形みたいになりたかったのね。知らなかった」
天国は、生前の願望が叶うというではないか。自覚はしていなかったけれど、これが望みだったのだろう。
「お父さんもいるのかしら。お父さんも金髪なのかしら。金髪のみのるさん、分かるかしら」
もう、ツルッとした頭の夫しか、覚えていない。
「出会ったころはフサフサだったけどね。年々ね、減っていったものね。ミラちゃんは大丈夫だったのかしら」
最後の落ちる瞬間、ミラにギュムッと抱きしめられた気がするが。その後のことは覚えていない。
「ミラちゃん、無事だといいけど。私は十分、やりつくしたおばあちゃんだからいいけど。ミラちゃんは若くて元気いっぱいだったのに」
どうかミラちゃんは元気にしていますように。沙良は手を合わせて神に祈った。
「美香ちゃんが泣いてないといいけど」
娘と孫が落ち込んでいませんように。沙良はもう一度手を合わせて祈った。
「さて、みのるさんを探しに行かないと。あの世で会いましょうって約束したから」
随分とハイカラなあの世だわねえ。沙良は金髪と青い目を眺めながらつぶやく。
トントンッとドアを叩く音がする。入ってきたのは、メイドだった。
「サラお嬢様、おはようございます」
「おはようございます。ええと、あなた、お名前なんだったかしら。うっかり忘れてしまって」
「アンナでございます、お嬢様」
「アンナね。ありがとう」
沙良はアンナに髪をとかれたり、着替えを手伝われたりして、くすぐったい思いをした。
「こんなによくしてもらって、いいのかしらね。それほど善行を積んだ記憶はないんだけれど」
悪いことはしなかったけど、とりたてて善いこともしなかったと思う。誰かの命を助けたり、悪を成敗したり。そういう華々しい活躍はしなかった。
「毎日、ミラちゃんとの散歩のついでにお寺でお祈りしてたのが効いたのかしらね。お賽銭はちょっとしか入れてないのに」
毎日のことだから、五円とか十円でお茶をにごしていた沙良であった。
「なんだか気がひけるわ」
「サラお嬢様。本日はイエルク王子殿下とのお茶会がございます。早めにお仕度いたしませんと」
アンナはつぶやいている沙良を浴室に追い立て、全身をピカピカに磨き上げてくれる。
コルセットをギュウギュウに絞られ、沙良は目を回しそうになった。
「ここはもしや、天国ではなくて地獄なのでは。こんな締め付けのきつい下着、何十年も着ていないのに」
前世では、ゆるりダラリとした服装ばかりであった。ギッチギチで息もできないようなドレス、前世でも着たことがない。
「これでは、ごはんもろくに食べられないわね。やっぱり地獄かも」
食堂に並べられた美しい朝食の数々。沙良はほんのちょっぴりしか口にできなかった。
「ああ、お味噌汁をずずーっと飲みたいわね」
沙良は少し涙目になる。
「いいえ、でもあと少しの我慢よ。きっとイエルク王子殿下とやらが、みのるさんなんだわ。お父さんがイエルクか」
三年間の積もる話がある。
「美香ちゃんが大学に受かったことと。ミラちゃんが来たことは真っ先に言わなきゃね」
ウキウキしながら馬車に揺られ、王宮に行き、金ピカの応接室に通された。ワクワクしながら待っていると、キラキラした王子が入ってくる。
「みのるさん?」
「みのるさんとは何のことだ、サラ。寝ぼけているのか」
「ああ、これは、イエルク殿下」
みのるさんでは、ないわね。こんな冷たい目をする人ではないもの。みのるさん、どこにいるのかしら。気もそぞろで、イエルク殿下の話を、身を入れて聞けない沙良。
キレイな男の子ね。美香ちゃんの彼氏さんみたいね。みのるさんが、こんな若者になっていると、ドギマギしてしまうわねえ。ま、そんな私も金髪碧眼のお嬢様なんだけど。
「そなたは、まったく。表情も変わらず、おもしろみのないことだ。笑顔のひとつでも浮かべてみればどうだ」
「まあ」
若者がキャンキャンと鳴いているわ。ほほえましいわね。美香ちゃんも、思春期はちょっとブスくれていたものね。懐かしく思い出していると、王子は機嫌を悪くしたのか、黙ってしまった。
沙良はコルセットが苦しくて、王子の機嫌を取る気も起らない。部屋はしーんとしている。
「次の夜会で、そなたとの婚約が正式に発表されるが。準備はよいか?」
「まあ、婚約ですか。それは困ったこと」
沙良は、夫のみのると約束した。亡くなる間際に「先に逝って待ってる。来世も一緒に」と言われたのだ。最後の最後にあんなロマンチックな言葉を残した夫。裏切るなんてできない。
「お父さんと約束してますからね。殿下とは婚約できません」
悪いなと思ったけど、こんな若い少年とおばあちゃんが結婚するのはもっと悪いだろう。とっととなかったことにしてしまおう。沙良はズバッと言うことにした。
「私は、イエルク殿下のようなキラキラした王子様とは似合いません。殿下には、もっと若くてかわいらしいお嬢様がいいと思いますよ」
そう、美香ちゃんみたいな。と思いながら、慈愛をこめて説き伏せてみる。イエルクはポカーンとしているが、沙良はここぞとばかりに他の女性をすすめてみる。
「イエルク殿下。私ね、よく分かりました。私にはコルセットは無理です。こんな拷問器具のような下着、つけて暮らせません。コルセットを苦も無くつけていられる、本物のお嬢さんを娶ってくださいませ」
王子の奥さんだもの、コルセットはしないわけにいかないだろう。ならば、コルセットが苦にならない、深窓のお嬢様が向いていると思う。こんなに美しい少年だから、いくらでも代わりはみつかるはず。少女が夢見る王子様そのもののイエルクを見て、沙良はしみじみ思った。
「私には心に決めた人が既にいますから。お互い、別の人と幸せになりましょうね」
言い切って、ボケラーッとしているイエルクを置いて、沙良はさっさと屋敷に帰ってきた。あとで、父親らしい凹凸の激しい男性からこってり怒られたけれど、沙良は聞き流した。
「昭和の雷オヤジって感じだわねえ。懐かしい」
昔は日本にもガミガミ怒鳴るおじさんが多かったものだ。最近はそういうのは減ってきているらしい。いいことよね、大きな声を出されるとビクッとするじゃない。まあ、でも、怒鳴られたところでね。息子ぐらいの年齢の男だ。なんということはない。
「お父様、イエルク殿下には他にいい人がいらっしゃいます」
知らないが、きっとそのうち、できるだろうから、いるってことにしておこう。時間の問題だしね。中身がおばあちゃんじゃない、正真正銘のお嬢さんがいるだろう。確信を持って言える。
親父殿は、目を見開いている。娘に反抗されると思っていなかったのかもしれない。
「では、そういうことですので。私は失礼します」
親父殿があっけにとられている間に、そそくさと部屋を出た。
「みのるさん、どこにいるのかしらねえ。夜会とやらで出会えるかしら。夜会といえばドレス。ドレスとなると、またコルセットか」
夜会で夫と出会えますように。コルセットはあと一回で済みますように。沙良はまた手を合わせて祈った。よくよく考えると、きっとここは天国だから。沙良の願いはそのうち叶うだろう。沙良は気楽に考えることにしたのだった。
***
「お嬢様に一体何が起こったのかしら」
「今まで口答えひとつしなかったお嬢様が」
「聞いたことのない不思議な歌を口ずさまれたり」
「オミソシルが飲みたいっておっしゃること以外は、文句ひとつおっしゃらない」
「ご当主がお嬢様を恐ろしそうに見ていらっしゃるでしょう」
「すっかり屋敷の空気がよくなりました。今まではずっとピリピリしていたのに」
「今ではのほほん。いえ、ドキドキハラハラかしら。お嬢様が次は何をやらかしなさるのかと、少し楽しみなような」
奇しくも、ミラと沙良の屋敷の使用人たちは、同じような会話を交わしている。
***
ついに夜会の日。沙良とミラは着飾ってやってきた。沙良はコルセットあり、ミラはなしである。
「こんな全身首輪みたいなの、絶対イヤです」
ミラは断固拒否したのだ。そもそも、首輪だって嫌いだった。あっちに行きたいなって思っても、サラさんとミカさんが「もう帰るよ」って言いながら引っ張ると、どうしようもないんだもん。そりゃあ、ミラは力が強いから、本気で歯向かったら違う方向に行けるだろうけど。それは絶対やっちゃダメ、ご主人様に逆らっちゃダメ。ミラは、そこは知っている。
「クンクン。いい匂いがします」
ミラは鼻をひくつかせて、会場の端の方に向かう。
「お肉がいっぱい。大きな骨付き肉がいいですね。いつまでもかじって遊べます」
ミラは端から端まで料理を見ていく。肉はたくさんある。でも。
「お味噌汁かけごはんはありません」
「お味噌汁は、やっぱりないわよねえ」
料理コーナーで、ふたりの少女がため息を吐き、驚いて顔を見合わせる。ミラはすかさず少女の匂いを嗅ぐ。
「サラさん、ご主人様ですね。あたくしめは、ミラです。サラさんの忠犬、ミラです。今は毛が抜けて、ツルリヌルリとした見た目ですが」
ミラは恥ずかしくてモジモジした。フサフサがすっかりなくなり、人のように服を着ているのだもの。
「ミラちゃんなの? まあ、なんてかわいらしいのかしら。あ、ということは、あのとき私に押しつぶされて死んじゃったのね。ごめんね、ミラちゃん」
「大丈夫です。お味噌汁かけごはんさえもらえれば。サラさんのお味噌汁かけごはんを楽しみにしていました」
ミラはペロリと舌なめずりをする。沙良はしばらく考え込む。
「そうね、お味噌を探しに行きましょう。みのるさんはいないみたいだし。ここは天国だから、しばらく歩けばそのうちお味噌とみのるさんに出会えるでしょう」
ここは天国だと信じている沙良と、沙良のいうことはなんでも正しいと思っているミラ。ふたりの少女は、旅に出ることにした。使用人たちは心配したが、沙良とミラは自信たっぷりだ。
「コルセットしなくていい旅の服なら、いくらでも歩けるのよ。膝も腰も背中も痛くないし」
「靴は好きじゃないけど、もう肉球がないから仕方ありません。お味噌汁かけごはんを食べるためなら、靴も履きます」
ふたりはテクテクと旅をする。馬に乗り、船に乗り、出会う人々に味噌のことを聞きながら。
「ミソねー。なんか最近どっかで聞いたような」
「新しいミノタウロス王が、母さんのミソシルが飲みたいなーって言って、世界中から取り寄せてるらしいよ」
「そこだ」
ミノタウロスとはなんのことかさっぱり分からない沙良とミラだったが。お味噌汁を好きな人はきっと日本人。牛がたくさんいる国に向かったのであった。
「お父さん、みのるさん? 牛みたいになっちゃって」
「母さん、沙良かい? 美香ちゃんがハロウィンで仮装したときみたいじゃないか。牛でも、人にもなれるんだ。人になってみようか」
恐ろしい牛が、いかつい男になった。頭髪はフサフサだ。
「まあ、フサフサじゃありませんか。みのるさんらしくはないけど、でもみのるさんなのね。慣れるまで、少し待ってね」
「サラさんのお味噌汁かけごはんー」
ミラはふたりの感動の対面より、お味噌汁かけごはんをなんとかしてほしかった。みのるさんのミノタウロスも目を輝かせたので、沙良は早速お味噌汁とごはんを作ることになった。
「ああ、お味噌汁とごはん。なんて落ち着くのかしらね」
「これ、この味。やっぱり母さんの味噌汁だな」
「サラさんのお味噌汁かけごはんー」
三人は思う存分、沙良特製のお味噌汁を味わった。
***
「おじいちゃん、おばあちゃん、ミラちゃん。ごはんとお味噌汁ですよ」
チンチンチーンと鐘を鳴らし、小さなごはんとお味噌汁を並べ、美香はクスンと鼻をすすった。
「歩道橋から落ちるなんて、おばあちゃんたら、もう」
美香は鼻をかむと、家じゅうにパタパタとハタキをかける。本棚のところで美香は立ち止まり、一冊取り出す。
「わあ、懐かしいこのマンガ。婚約破棄ざまぁのテンプレマンガなんだけど。サラとミラって名前の子が出てくるから買ったんだった。おばあちゃん、絶対読んでないよね」
老眼で小さい字は読みにくいのよー、そう言って、マンガを顔に近づけたり離したりしていたっけ。
「久しぶりに読んでみよっと」
本棚の前に座り込み、美香はパラパラとマンガをめくる。
「あれ、こんな話だったっけ? 婚約破棄がなくなってるし。ミノタウロスなんていたっけ。それにお味噌汁。いや、こんな話じゃなかった、絶対」
美香は震える手で、ページをめくる。最後のあとがきのところに、見慣れた達筆でメッセージが書いてあった。
『美香ちゃん。もしかしたら届くかもしれないと思って、手紙を書きますね。私とミラちゃんは元気です。ふたりとも、西洋人形みたいな令嬢になってるの。おじいちゃんとも会えました。毎日三人でお味噌汁を飲んでいます。私たち、幸せだから。美香ちゃん、あんまり悲しまないでね。お母さんによろしく伝えてね。おばあちゃんより』
「ええー、うっそー。おばあちゃんとミラちゃんが、マンガの世界に転生しちゃってるかもー」
よ、よかった……。美香はマンガを抱きかかえ、うわーんと泣いた。
「アタシも長生きしたあと、ポックリ逝って、おばあちゃんたちに会いにいこう」
楽しみだな。美香は涙を拭いて、ハタキを手に持った。
お読みいただき、ありがとうございます。ポイントとブクマを入れていただけると嬉しいです。
よろしくお願いいたします。