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離れの幽霊レディ  作者: 知香
15/17

15.区切りをつけられたのね

 マクスが一人で離れにやって来た。


「父様が、ここを取り壊す事に決めたって」

「そう」


 公爵と話したあの夜から、公爵も考えを改めたのだろう。新しい妻としっかり向き合って貰えたらと思う。気持ちが無いまま夫婦関係を続けるのはきっと辛い事だ。私は夫であった国王陛下と体だけ重ねて心を通わせた事は一度も無かった。ずっとあのお方の事が分からないまま亡くなってしまった。他の妃との争い事を避けたくて陛下の心を欲しなかった。求められた妃としての仕事だけこなしていれば良いと思っていた。けれど結局は陛下暗殺の濡れ衣を着せられ、虚しく世を去った。

 陛下とちゃんと向き合っていたら何かが変わっていたのだろうか。陛下が精神錯乱になる事も無かったかもしれない。私が陛下暗殺の濡れ衣を着せられる事も無かったかもしれない。

 しかしどれも分からず、推測でしかない。可能性を考えたらもっと酷い結果が待っていたかもしれない。既に過ぎて元には戻せない事を考えても仕方のない事だ。結局はあれが私の運命だったのだ。結婚して妃になった事も、ティナーリアを授かった事も、あの様な死に方をしたのも。


「この離れの母様のビスクドールは、誰かに譲る事を考えているって」

「まあ、そうなの」


 少し寂しくは思うけれど、捨てられるのでは無いと分かって安心した。元王女の私物なら市場に出るだけでそれなりの価値になりそうなものだけれど、きっと公爵は大切にしてくれる人を見極めて譲るのではないかと思った。


「マクスは、この部屋に対する気持ちに区切りをつけられたのね」

「……うん。父様が教えてくれたんだ。この部屋は母様の母上である僕のお祖母様の為に準備した部屋だって。でももう亡くなられて使われる事が無くなってしまったから、これからの公爵家の為に使う事にするって。母様もお祖母様もきっとそれを望んでるだろうからって」


 その通りだ。公爵に伝わって良かったと思う。


「お義母様は凄く嬉しそうだよ。どんな造りにしようかと建築家を呼んで図面を作っているよ。ワイアットも機嫌が良いお義母様が嬉しいのか、ピッタリくっついて図面を一緒に眺めてる」

「あら、まあ。とても仲良くなったのね」

「母親に甘えられるのが嬉しいのかもしれない。ワイアットは母親というものを知らなかったから」


 ティナーリアはワイアットを生んで直ぐに亡くなった。ワイアットは母親に抱いて貰った記憶も、顔も声も、何も知らないのだ。


「マクスだって、似たようなものではないの?記憶も定かでない幼い頃の事なのだから」

「うん……でも、僕は……もう甘える様な年齢じゃないかな」


 確かに貴族の子息は早くから厳しく躾けられる。もしかしたらワイアットを羨む気持ちがあるのかもしれないけれど、マクスには本当の母親の記憶が多少なりともまだある。だから我慢しようと思っているのかもしれない。


 私はマクスをぎゅうっと抱き締めた。何の気休めにもならないかもしれないけれど、私がしたいと思ったのだから良いのだ。


「レディ……ありがとう」


 私はマクスを抱き締められるけれど、マクスは幽霊の私を抱き締められない。マクスは大人しく抱き締められていた。


「レディは、離れが取り壊されたらどこかに行くの?」

「……どうかな」


 私はマクスを抱き締めている腕を見た。マクスの体が水の中に入っている様に見えた。


「ねえ、レディ。僕ね、もうレディの事、殆ど視えないんだ」

「え……。そうなの?」

「ぼやぼやっとしてて、白いモヤみたいな感じ。顔は全然分からない。声も、少し遠くに聞こえる」


 つまり、近くマクスは私が視えなくなると言う事だ。


「レディが、僕の世界から居なくなってしまうのが、最近、怖いんだ」


 何も言えなかった。マクスを抱き締めている腕の力が緩んでいた。


「黙らないでよ、レディ」

「……ごめんなさい」

「謝らないでよ、レディ」

「……うん」

「離れが取り壊されたら、僕の部屋にずっと居てよ」


 どうしてか、涙が流れそうだった。幽霊は泣いても涙は流れないのに。


 離れから出られない幽霊。取り壊されたらその縛りから解放されるのだろうか。どこへでも行けるようになるのだろうか。部屋に宿った未練なら解放されるのかもしれない。でも、未練が無くなるという事は幽霊で無くなるという事なのではないだろうか。


 マクスに結局何も言えなかった。




 それからマクスは驚くほど頻繁に離れにやって来た。少しの時間でも私に会いに来た。まだ今日も私が視えるのか確認でもするかの様に。


 そして遂に離れの取り壊しの日程が決まったと、マクスが知らせに来てくれた。

 そこで私はマクスに、取り壊しの日までに公爵とワイアットも連れて三人で離れに来て欲しいと伝えた。




 夜、離れの部屋で一人月明かりを眺めた。視線を部屋の中に移してぐるりと見渡した。ビスクドールはまだ飾られていた。ギリギリまでここに置いておいてくれているのだろう。


 公爵は知っているのだろうか。

 一体のビスクドールは、ティナーリアが生まれた時に記念に作ったベビードレスとボンネを着ているという事を。

 また別の一体は、ティナーリアが初めてのお茶会に参加する時用に誂えたドレスとお揃いのドレスを着ているという事を。

 十歳のお祝いの時に誂えたドレスとお揃いのドレスを着ているビスクドールもいる。

 十六歳の初めての舞踏会で着たドレスとお揃いのドレスを着たビスクドールもいる。

 それから、公爵との結婚式で着たドレスとお揃いのドレスを着たビスクドールも。


 ビスクドールに触れようとして、手を止めた。大事なビスクドールをまた落としてしまいそうで怖かった。


 ソファに座ってまた月明かりを眺めた。

 ここは天国の様な所で、幸せだった。穏やかに暮らしながら、ゆっくり、ゆっくりと生きていた頃の傷を癒やしていた様に思う。


 今になって振り返れば、私の運命は酷いものだっただろうが、夫であった国王陛下の運命もまた辛いものだったかもしれない。その人生を生きた本人にしか判断は出来ない事だろうけれど、生まれた時から国を背負う将来を定められ責務を負ってきた。命を狙われる事も日常で、護衛に監視される日々に自由は限られ、信頼も簡単に裏切られる。一見、性に自由奔放だったかもしれないが、そこでしか勝手が許されなかったのかもしれない。第三王妃にご執心だったのも、愛を求めただけなのだろう。


 誰だって誰かからの愛を求めるものだ。ワイアットも母親の愛を求め、新しい母親からやっとそれを得た。マクスは新しい母親に求められずに私からその代わりを得ようとした。私も幼い頃は親からの愛を得られず、代わりにビスクドールに愛を捧げ埋めようとした。結婚しても夫には一番の愛を求めてはいけないと愛する事を諦め、ティナーリアが生まれた事で娘を愛し娘からも愛される事で満たされた。


 陛下は第三王妃からの愛が心地良かったのかもしれない。正妃は厳しくも妃として見本の様な人だった。陛下には威厳を求めていたのだと思う。陛下が求めているものでは無かったのだ。私は争い事を避けたくて愛する事を避けた。陛下が第三王妃に執心したのも分かった様な気がする。

 でも、第三王妃は本気で陛下を愛していただろうか。彼女が求めていたのは陛下からの愛の先の権力だったかもしれない。だから陛下は途中で私を求めるようになったのではないだろうか。陛下の晩年、正妃と第三王妃のそれぞれの王子を王太子にと陛下に推す攻防戦は激しかった。第三王妃の愛が偽りだったのではと疑うようになっていたからこそ、王太子を決められず避け続け、私に逃げたのではないだろうか。偽りの愛より、拒まれる事の無い方に逃げたのだ。傷付く事を恐れ、そうして心を守る防衛本能が働いたのかもしれない。


 私が陛下から暴力を受けていたのがティナーリアに露見した時、陛下は私の首を絞めながら確かこう言っていた。


「お前も裏切るのか。お前も余を馬鹿にするのか」


 意識は曖昧だったけれど、ずっと耳に残った。陛下の本心に触れられたのは滅多に無かった事だから。

 そんな事を言ったのも、身近な人に裏切られ馬鹿にされたからではないだろうか。


 第三王妃の偽りの愛に気が付いたのなら、何故第一王子を王太子に定めなかったのだろうか。第三王妃のお願いを聞かなくても良い筈だ。それでも第三王妃を信じたかったのだろうか。

 もしかしたら第一王子を認められなかったのかもしれない。第一王子はとても優秀だった。代理で政務を行っていた頃、多くの貴族が第一王子を称賛した。

 陛下の政治手腕は決して悪いものでは無かったけれど、第一王子が優秀過ぎたのだ。そして第一王子は正妃によく似ていた。ティナーリアは陛下によく似た薄青色の瞳だったけれど、第一王子はヘーゼルの瞳だった。陛下はコンプレックスがあったのかもしれない。似ても似つかない優秀な息子に対して。

 そして第一王子も父親である陛下に認められたかったのに、最期まで王太子として認めて貰えなかった。父親の愛を求め、そして得られなかったのかもしれない。


 もし私が幼い頃にビスクドールに愛を捧げなければ、いつまでも親の愛を求めていた事だろう。父親の関心を引きたくて、父親の思惑通りに男児が生まれるまで国王陛下に媚びて誘惑に躍起になっていたのではないだろうか。そうして余計に陛下を追い詰め、妃同士の争いも苛烈になり、もっと悲惨な結果になっていた可能性もある。


 本人に聞く事はもう叶わないので全て推測だ。陛下も未練が残っていればどこかで幽霊になっているかもしれない。死の真相が暴かれずに悔んでいるだろうか。いや、きっと重責から解放されて天国で可愛がっていたティナーリアと笑っているかもしれない。あの眩しい月の浮かぶ空よりもずっとずっと高い所で、残してきた人々を眺めているのかもしれない。もしくは、もう五年も経っているのだ。新しく生を受けているかもしれない。

 

 月明かりを遮ろうと翳した手は、今日も透けていた。



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