弐の7 千五百円でラッキー
幾夫は大変なミスを犯した。借りているレコードをジャケットにしまうため、半透明の内袋に収めようとして、小指の爪を立ててしまった。A面三曲目『キャント・バイ・ミー・ラブ』から四曲目『アンド・アイ・ラヴ・ハー』にかけて、幅数ミリ、長さ一センチほどの傷が付いた。もうだめだと悲観した。
試しにターンテーブルに載せ、針を落としてみた。スピーカーは二秒弱ごとにぶつぶつと異音を放つ。これはきっと、買い取らされる。幾夫はあきらめた。
どうせ買い取らされるのだから、少々乱暴に扱ってもいいだろうと思った。二泊三日が終わる翌日の帰宅後、貸しレコード店に出向いて返す予定だったが、放課後そのまま店に寄ることにして、レコードを学校に持ち込んだ。恵比寿に言われた通り、いつもより三十分早く家を出て、三十分早く到着した。恵比寿はすでに登校していた。
「おれのためにレコード持ってきてくれたのか」
「そうだぞ。返さんで済むように、傷も付けといた」
後から歌詞カードをコピーさせてくれと恵比寿は言って、幾夫を校舎別棟の音楽室にいざなう。
音楽室に近づくと、ピアノの音色が聴こえる。
「先客がいるんだな。何年生だろ。上級生だとやりにくいな」
心細いことを恵比寿は言いだす。
音楽室には、前の教壇横にグランドピアノが、後ろの壁沿いにアップライトピアノがあることは、音楽の授業を受けない幾夫も知っている。恵比寿が音楽室の扉をそっと少しだけ開け、中をのぞいてから振り返り、後ろで待つ幾夫に向かって首を縦に振った。大丈夫の合図だ。
失礼しますと言って恵比寿が音楽室に入るから、幾夫も後に付いた。女子生徒が一人でグランドピアノを弾いている。ピアノの少し開いた屋根部分に隠れ顔はよく見えないが、上級生のようだ。恵比寿は右手の人差し指を自分の唇の前で立て静寂を保つよう幾夫に指示しながら、教室後ろのアップライトピアノに向かう。幾夫は従った。
グランドピアノの演奏が終わった。
「恵比寿くん、おはよう。わたしもう引き上げるから、後はよろしくね」
冬物セーラー服の女子生徒はそう言って、恵比寿と幾夫にほほ笑んだ。黒いタイツを履いている。あれ、と幾夫は思った。思ったけど、なにも言わなかった。なにも言わず、恵比寿と同じように頭を浅く下げた。セーラー服はそのまま音楽室を出ていった。
「谷本。Cは一番、簡単なコードだ。右手でド、ミ、ソ。左手でド。その次のGは、右手の親指と中指だけ左にずらして、シ、レ、ソ。左手はソ」
恵比寿が鍵盤をたたくと、まるでレコードの演奏のように美しい調べになる。だけど、幾夫がまねをしても、美しくない。それ以前に、指がうまく動かない。
「素人だとみんな最初はそんなもんだ」
玄人の恵比寿は、素人の扱いに慣れている。
「コードの一覧表とかないのか」
ギターのコード一覧表のようなものを、芸能雑誌『明星』か『平凡』で見たことがあるから、幾夫は尋ねてみた。
「ある」
『明星』か『平凡』の折り込みページを切り離したようなカラー印刷の紙を、恵比寿は学生服上着のポケットから取り出した。三オクターブ分ほどの白と黒の鍵盤が裏と表の両面、縦横に合わせて百以上並び、たたくべき鍵盤に丸印が振られている。
「だけど、身体で覚えた方が早く身に付く。これはテープの礼にやるから、コードの規則性が分からんときだけ見ろ」
恵比寿は頼りになる男だ。
「きのう言った、打鍵ミスな、その一覧表で見ると理解できる。Amは、右手でド、ミ、ラ、左手でラだろ。あのレコードの『レット・イット・ビー』はマザーメアリの歌詞のところで右手が一つ右にずれて、同じ白鍵盤のレ、ファ、シをたたいてる。左手はラのまま」
なるほど、その通りだ。幾夫は恵比寿の耳と音感に尊敬の念を抱いた。
始業のホームルームの時刻が近づき、幾夫と恵比寿は音楽室を離れることにした。恵比寿は慣れた様子で音楽室の外すぐの壁にある赤い消火栓のスチール扉を開け、その内側のフックにかかっている鍵で音楽室の扉を施錠した。先ほどのちょっと気になる女子生徒もそうやって無人の音楽室に入ったのだろう、後はよろしくと言っていたのはこのことだろうと幾夫は理解した。
放課後は吹奏楽部の連中が音楽室を使うから、恵比寿のピアノ特訓を受けることはできない。
帰宅部の幾夫はレコードを脇に抱え、重い足取りで貸しレコード店に向かった。
カウンターでなにも言わず返却手続きをしようと試みた。若い女性店員が、ジャケットからレコードを取り出し点検しだした。
「ここ、どうしたの」
「なんですか」
幾夫はとぼけて見せた。しらを切り、あわよくば買い取りを免れようと思った。
「傷が入ってるね」
「そうですか」
徹底してとぼけた。店員はカウンター後ろのプレイヤーでレコードを回し、大きなヘッドホンを片方だけ耳に当てる。
「聴いてみて」
カウンター越しに渡されたヘッドホンを、幾夫も同じように片方だけ耳に当てた。
「雑音がするでしょ」
女性店員は迫る。
「聴こえますね」
幾夫は観念した。
「買い取ってもらうから」
「はい」
二秒弱ごとに雑音の入る『キャント・バイ・ミー・ラブ』を聴きながら幾夫は、女性店員が大きな電卓でキーをたたく姿を見ていた。なにを根拠に計算しているのか分からない。レコードが『アンド・アイ・ラヴ・ハー』に到達する前に、女性店員は電卓作業をやめて開いたノートになにかを書きつけた。
「千五百円」
女性店員はカウンター越しに言い放つ。買い取るために千五百円を払えばいいということのようだ。これは案外ラッキーなことかもしれないと、幾夫は思い直した。
「おととい貸すときに三百円預かってるから、それマイナスして千二百円ね」
女性店員は続ける。つまり、千二百円、おととい払った三百円を合わせても千五百円で、このLPレコード『リール・ミュージック』が手に入るということだ。新品なら倍の値がする。幾夫はほくそ笑んだ。千二百円をその場で払って、『リール・ミュージック』のオーナーになった。
でも、なんだか悪いことをしているような後ろめたさは感じるし、レコードを雑に扱う要注意客だとマークされるのも嫌だから、今後この店には来ないでおこうと決めた。
学校で恵比寿が歌詞カードのコピーがどうとか言っていたのを思い出し、文房具店に寄って、これも著作権上問題があるのだろうと認識しながら、歌詞とその翻訳とレコードの解説が書かれたジャケットに挟まれている薄い冊子をコピー機にかけた。
(「弐の8 盛り上がるじゃれ合い」に続く)




