弐の2 校長室は重責
幾夫たちが校長室の清掃班に異動になった当初、放送室からの清掃終了の掛け声の前の間隙を縫って遥は、その日の清掃で気づいたこと、直すべきこと、良いと感じたことを一言二言、弁じていた。その上で、スピーカーの声と一緒に「お疲れさまでした」と号令を掛けて、十一人がそれに応じる。
清掃開始の掛け声の前に注意事項を伝達することもあった。それも、スピーカーからの声の前にきれいに収まる。幾夫はそれまでの清掃班経験で、遥のように絶妙なタイミングで一言を述べる班長に、会ったことがない。
ところが、幾夫と有馬が清掃開始に遅刻し、終了のあいさつも拒否しだしてから遥は、あいさつ前の一言を省くようになった。
「有馬くん、谷本くん、やり直し」
遥は厳しく叱責する。
「お疲れさまでしたあ」
幾夫も有馬も、不真面目な口調で応じる。幾夫は、顔と態度で不機嫌を演じていた。決して本心からではない。有馬の様子から、有馬もそうであるのは明白だ。
幾夫の学年と遥の学年は五クラス、それ以外の学年は六クラスあり、児童千三百人を擁するマンモス校だ。三階建て本校舎の端から端まで百メートルの廊下がまっすぐ続く。清掃開始と終了のあいさつ時には、各清掃班の班員が、廊下にずらりと横一列の壮観な直線を描く。一階廊下に並ぶ別の清掃班と、校長室の四年生以下が放送に合わせ終了のあいさつをし解散していく中で、幾夫と有馬は遥から何度もやり直しをさせられた。
ある日を境に遥は、あいさつ前の一言だけでなく、あいさつの号令自体をやめた。副班長が代理を務めた。遥は、一年生から四年生への指導も熱心でなくなった。それらのことに、幾夫は気づくのが遅れた。有馬に言われるまで分からなかった。
「もう班長を困らせるのはよそう」
「なんで。困らせてないじゃん」
幾夫には有馬の心変わりが理解できない。
「校長室の清掃っていうのは、選ばれた人間にしか務まらないんだ。おれたちの班長は六年の班長で一番偉いんだよ。班長が校長室の清掃班をまとめられなくなったら、この学校はおしまいだ。あの班長は、学校を守らなきゃならない。おれはきょうからまじめにやる。班長に協力する」
有馬の口調は神妙だ。
校長が学校で一番偉いのだから、校長室の清掃班で班長を任されている遥が全校の清掃班班長の中で一番重要な立場にあるという理屈は、幾夫にも分かる。しかし幾夫は、有馬の改心をいぶかった。遥が教師に告げ口したのではないかと危惧した。有馬はクラス担任に呼び出されて絞られたのではないか、次は自分の番ではないかと恐れた。
教師からはなにも言われない。有馬はその日の昼から、清掃終了の「お疲れさまでした」のあいさつを、極めて普通の口調でして、極めて普通の角度で腰を曲げ頭を下げた。幾夫は渋々それに倣った。幾夫は清掃開始に遅刻したのだが、幾夫の到着時に有馬はすでに校長室にいたから、開始のあいさつにも参加したのだろうと幾夫は思う。
いつの間にかあいさつの掛け声は副班長から遥に戻り、あいさつ前の遥の一言も復活した。
「きょうは雨だから、窓係の人はさんに上がらないでください。足を滑らせて落っこちると大変です」
「どこの係とは言いませんが、化学ぞうきんのふき残しがありました。わたしがふいておきました。ほこりがないか、斜めから光の加減を見てよく確かめてください」
遥の一言は、いつも的確でスマートだ。毎回、話し終えた瞬間、計ったようなタイミングでスピーカーから、〈それではみなさん、頑張りましょう〉の掛け声が響く。〈それではみなさん、お疲れさまでした〉も同様だ。
幾夫は、有馬が改心したのは遥と裏でなにか申し合わせのようなものがあった結果なのではないかと邪推した。邪推に過ぎないことはだんだんと分かってきた。有馬は、まじめにやると宣言した後も時々ふざけて、遥に怒られた。幾夫も、どうでもいいようなことでへまをやらかし、遥から時々注意を受けた。
(「弐の3 猿芝居もうやめろ」に続く)