弐の18 ドームのどこかにいるのでは
出張先の秋田から東京に戻り、会社でやっつけ仕事をこなし、帰宅途中に池袋のデパートのレコード売り場でポール・マッカートニーのレーザーディスクを探した。秋田で見た『ゲット・バック』しか見つからなかったから、それを買った。駅構内の売店でイベント情報誌を買った。
業務用カラオケ以外ではあまり普及したとはいえないレーザーディスクプレイヤーが、ハリウッド映画の好きな女房の所望で幾夫夫婦の家には早くからあった。
「ポール・マッカートニーねえ。元ビートルズねえ」
イベント情報誌のページをめくりながら、女房は納得しないような口ぶりだ。
「あれ、マドンナも来るじゃん」
女房は言う。
「そうか」
米国のその歌姫に興味がない幾夫は適当な相づちを打った。
「マドンナ見にいこうよ。そしたら、ポール・マッカートニーも付き合ってあげるからさ」
女房が付いてこなくても一人でポール・マッカートニーを見にいこうと幾夫は意気込んでいたが、ほかの女を同伴するのではないかと勘繰られない分だけ、女房を連れて行った方が気が楽だ。
幾夫と女房は、イベント情報誌が示す操作方法に従い、チケット売り出し日の午前零時に電話のプッシュ回線機能を使って予約した。
東京ドームの公演は金曜、日曜、月曜の三回で、会社が休みの日曜のチケットを取ったというのに、幾夫はその日、取材で休日出勤させられた。いつ決着がつく取材か分からないから、チケットをそれぞれ持ち女房とは別行動で、待ち合わせの約束などせず現地集合することにした。
「ふだあるよ、ふだあるよ」
JR水道橋駅を出たところからずっと、ダフ屋らしい何人かの中年男に声を掛けられた。
「いくらですか」
幾夫よりかなり年上に見える女性がダフ屋に尋ねる。
「こっちに来なさい」
ダフ屋は手招きして女性をどこかに連れて行く。相手が逃げられぬ状況に持ち込んで、高額を吹っ掛けるのであろう。
そんな光景を尻目に、幾夫はドームに向かって歩いた。ドームの入り口では空調の加減なのか、内部から強い風が吹き出している。
スーツ姿の幾夫は、窓口で若いアルバイトらしい女性係員から、かばんの中身を見せるよう言われた。取材してきたばかりの成果が撮影されている小型カメラと録音されている小型テープレコーダーが入っている。
「撮影機材、録音機材は持ち込みできません」
アルバイト女性は事務的に告げる。
「仕事の道具なんですけどね」
幾夫は言い訳をする。
「取材でしたら報道窓口で手続きを」
「いや、違う」
仕方がないから幾夫は、紛失を避けるためカメラからフィルムを、テープレコーダーからテープを抜き出し、機材だけ窓口に預けた。女性係員は機材を雑に透明のビニール袋に突っ込み、乱暴に引き換え券を渡してきた。
チケットに記された番号のプラスチックのシートの隣に、女房はいた。
「一番前に行ったんだよ。そしたら、もっと後ろだって言われて、下がっても下がっても、もっと後ろだって」
幾夫夫婦が電話の予約で買えたのは安いチケットだから、アリーナ席とは縁がない。ポールの顔を生で拝むことはできまい。ステージ横の大映しのモニター頼りだ。
会場の照明が落とされ、ビートルズ時代のアップテンポなナンバー『ドライビング・マイ・カー』がいきなり始まった。白いスポットライトが照らした先には、ギターを抱えボーカルマイクに向かうポール・マッカートニーがいた。
「知らない曲ばっかだよ」
隣の女房は、幾夫の耳元で声を張り上げる。不満そうではない。
周囲の観客は、いわゆる団塊の世代ばかり。幾夫より二世代ほど、秋田で出会ったショットバーのマスターや客のロケット屋より一世代上だ。
名曲『イエスタデイ』が流れると客席は総立ちになる。ローテンポの曲なのに、ポールに合わせ合唱する。『イエスタデイ』しか知らないんだなと、幾夫はおもんぱかった。
そして、幾夫がビートルズ熱を感染させた恵比寿のことを思い出した。恵比寿も同じ日にドームのどこかで、それこそアリーナ席で、ポールのこのライブを見ているのではないか。聴いているのではないか。同じ日でなくても、東京ドームじゃなく福岡ドームででも、イエスタデイしか知らない団塊の世代に嫌気を差しながら、ポールの歌声と演奏に酔いしれているのではあるまいか。
『イエスタデイ』の何曲か後にポールは電子ピアノに移り、『レット・イット・ビー』が始まった。知らないミュージシャンが弾く間奏のエレキギターは、聴いたことのないメロディーだ。コードのミスタッチを、ポールはしなかった。
ポール・マッカートニー日本ツアー一カ月後のマドンナのツアーのチケットを、幾夫たちは取ることができなかった。ポールの時と同じように売り出しの日の午前零時に申し込みの電話操作をしたのに、東京ドームのどの日程のどの席も完売のアナウンスが流れた。
女房は残念がったが、マドンナなんてどうでもいいような事態が二人に訪れた。女房が懐妊したのだ。翌年の夏が出産予定日だと、女房は婦人科クリニックで聴かされてきた。
「あんた、いつもなんか指折り数えてるね」
「そうか。そうかもな」
言われて気づいた。女房の腹の子は、ポールがどこからか運んできたのではないかというありえない妄想が頭を駆け巡った。
幾夫は無事に二十八歳を迎えた。腹の大きな女房が、あまりおいしくないケーキを焼いて幾夫の仕事からの帰りを待っていた。
(「弐の19 名付けで不幸を背負わせられぬ」に続く)




