0.絶望の雪
『あなたが今、必要としている“石“がわかりますか』
失意の底にあったディザードがその奇妙な看板を見つけたのは、都が雪に白く覆われた日のことだった。
無邪気に雪で遊ぶ子どもとすれ違っても、ディザードにそれらの声は聴こえなかった。
灰色にひび割れた分厚い空。色褪せた町並み。
雪の積もった道に足音は響かず、生理機能として呼吸はしていてもまるで実感がない。
雪よけの外套を羽織ることもなく、着の身着のまま屋敷を出てきたきりだった。
公爵家の次男坊がこんな寒空の下、剣も供もなく歩いているなど誰も想像すまい。
愛する父と母、兄を亡くした。
馬車の事故だった。夜会の帰り道、車輪が凍った道を滑り横転した。
間の悪いことに、橋を渡っている最中だった。
馬車ごと冷たい川へ転落し、そのまま、御者もろとも帰らぬ人となった。
次男のディザードは体が弱かった。
夜会の日も軽く風邪を召し込み、心配性な両親と兄は家でゆっくり過ごすようディザードに言って出かけて行った。
ディザードは16歳の誕生日を迎えたばかりで、心尽くしの贈り物と「おめでとう」をくれた。
その三人が無惨に凍え濡れた姿で屋敷に運び込まれた。
いったいなんの冗談か。
それら前後の記憶は定かではない。
気づいたら葬儀が終わっていた。
家令やメイド長が常にそばにいてくれた気がするが、すべてが曖昧だ。
絶望の言葉すら生ぬるい。
その奇妙な看板は、木の板に紙を貼り付けてあるだけの、安っぽいものだった。
その前で足を止めたディザードを、青い瞳が見上げた。
フードを深く被っている。その陰にあっても、目の輝きは際立っていた。
こんな道端で座り込んでいる酔狂な露店主は、老人ではなく、若い女のようだった。
外套から覗くハリのある白い肌。艶のある爪先。地べたにも関わらず座り方に気品がある。
買うのか、買わないのか、と急かすことなく、ただディザードを見ている。
そこにどうといった感情はない。
そこらに転がる石ころのように、ただそこにいるだけ。
今、屋敷の内外では様々な思惑や感情が渦巻いている。
悲哀、憤怒、憐憫、悔恨、怨嗟、疑念、憂慮、心配、媚びーー
今ここには、それら一切がない。
少し、呼吸を思い出す。
『……なにを、売る』
吐く息とともに落とした疑問は軽く拾われた。
『石を』
蓋に透明なガラスを嵌め込まれた木箱の中には、様々な色や形の石が並べられていた。
『パワーストーンと云います。気になる石がありますか』
ディザードの目はさっきから、紫色の石を見ていた。
愛していた父と母、兄の瞳の色だった。
あの色が好きだった。
スミレのような、優しい紫。
ディザードだけが、生まれつき赤色が濃い。
血のようで嫌いだと落ち込むディザードの瞳を、三人は愛してくれていた。
『アメトリンですね。アメジストとシトリンが巡り合って混ざった、貴重な石ですよ。ほら、少し光を通すと、紫の奥にほんのり黄色が隠れているでしょう。これがシトリンです。アメジストとシトリン、異なる石が融合することって珍しくて、だからアメトリンは兄弟や家族の強い絆を表しているという謂れがあります。両方の石のパワーが秘められている石として有名ですね。立ちはだかる困難に打ち勝つように持ち主をサポートしてくれる石としても人気で、でも地球では人工的にシトリンを加えてる場合が多かったけどこの世界では天然のものが簡単に手に入ってコスパも良いし驚き……失礼』
頭の中が飽和しているディザードに、言葉の全ては届かない。
兄弟、家族、絆、困難、そういった断片的な言葉だけを耳は拾う。
『……これがあれば、私は、乗り越えられるのか』
普段の健全な理性があったら、ディザードはこんな問いをすることはなかった。
どちらかというと、努力もせずに神に縋る者たちを馬鹿にするほうだった。
己の無力を知らなかった。
『石にそんな力はありませんよ』
南国の海にも似た青い瞳は淡々とディザードに告げた。
『誰に決められたのでもなく、今、あなた自身がこの石を選びました。困難に打ち勝つ石を。困難に打ち勝つ未来を、あなたが選び取ったんです。この石はその証です。石に力はありません。力を秘めているのは、あなたではありませんか?』
『あなたが今、必要としている“石“がわかりますか』
失意の底にあったディザードがその奇妙な看板を見つけたのは、都が雪に白く覆われた日のことだった。
灰色にひび割れた分厚い空。色褪せた町並み。
雪よけの外套を羽織ることもなく、着の身着のまま屋敷を出てきたきりだった。
看板の下には小さく「市場調査中につき、お客様の言い値で売ります」と書かれていた。
屋敷に戻ったディザードを出迎えた家令やメイド長は、ひどく心配した様子だった。
独り出歩いた理由を聞くことも咎めることもせず、温かい風呂と食事を用意した。
ディザードの耳飾りが片方なくなっていても、それを指摘することもなかった。
握り拳の中の紫色の石にも、誰も気づかなかった。