老人と海と若者
いつのまにか後ろをとられていた。
いつからそこへ居たのか、部長の声で振り返ると奴は居た。
「お疲れ、春に卒業する高校生の会社見学で現場回りしとんだわ」
部長はそう言って、そいつの背中を軽くはたいたけど、奴は無反応だった。身体は大きく、身長も180くらいありそうだけど全くと言っていいほど覇気がない。
「柔道かなんかやっとるの?」
俺の問いかけに「はぁ」と息を漏らし、「なんもやってません」そう囁くように返事した。部長が場を取り繕うように俺に話を振る。
「今やってる作業を説明してやってくれ」
仕方なく俺は説明をし始めた。
「これね、この冷蔵庫みたいの、これ電気温水器です。で、この機械から出る排水を流す為の配管をしているところです」
俺がそう言ってもこいつの反応は無い。
「うちの会社はこういうものも取り扱ってます。よし、次行くか。手止めて悪かったな、それじゃ」
部長はそう言って奴を連れて現場を出て行った。俺も特に気にせずに作業を再開した。一日の仕事を終える頃には現場に来た高校生のことなんかすっかり忘れていた。
桜の花匂う季節、月のいっぴに奴は事務所にしれっと居た。現場見学で奴に接した者はそのことを思い出さずにはいられなかった。会社は何を考えているのだろうか?部長が現れ、奴を紹介した。
「今日から新入社員として働くことになった若松君です。皆さんよろしくお願いいたします。じゃ若松君からもひと言お願いします」
部長はそう言って奴の、若松の肩をそっと叩いた。若松は少しのあいだ下を向いていたけど、やや顔を上げてから身体の大きさからは想像もつかないような小さな声でひと言「よろしくお願いします」と、だけ言ってまた視線を床へと下した。
「ええと、そうしたら今日から暫くは権田君、そう権田君が彼の面倒を見てやってください」
「え、いやあの、えええ」
部長は俺の返事も聞かないうちにもう部屋を出て行った。なんで俺がこんな奴をと思っているところに次々と同僚たちが寄ってきて、無言で頷いたり、尻を叩いたり、何かを拝むように、俺の顔の前で手を合わせたりしながら各々の現場へと散って行った。その口元は皆笑っていた。
現場へ着くと、仕事の内容を一応若松へ説明した。小型のパワーショベルのエンジンを始動させ、若松にはスコップを持たせた。スコップを持たせても何を言うわけでもなく、ボケッと突っ立っているだけだった。
小型のパワーショベルで土を掘削する。少しずつ後退しながら掘り進める。パワーショベルを移動させる時は安全確認の為に周りに目を向ける。当然近くに居る若松も目に入る。若松はスコップを持たせた時と同じ場所で同じ体勢だった。
ちょっとした障害物があってパワーショベルで掘ると、それを傷つける可能性があるから、ぼさっと立っている若松に指示を出した。
「あそこのとこコレでやると危ないから、ちょっと手掘りで掘っておいて」
俺はそう言ってから自分の作業を再開した。啞然となったのは、パワーショベルを後退させる為に周りを確認した時だった。さっき指示した場所で若松はしゃがみ込んでいた。スコップは若松の傍で転がっていた。スコップを持たずにあいつは何をしているのだろうと見ていると、さっきの障害物の周りを猫が用を足した後のような仕草で土をスコスコとやっていた。
「おい、何やっとんの?」
俺がそう言うと若松はぬうっとふりかえった。
「手掘りでって」
蚊の鳴くような声だった。
「手掘りって言うのはな」
そこまで言って俺は諦めた。スコップを持って人力で掘る作業の事を手掘りという事まで言わないと理解できないものかと。
俺は二週間我慢した。こいつは新入社員なんだ。何もわからないんだ。ついこの間まで高校生だったんだ。自分にそう言い聞かせて仕事を教えたけど、奴は、若松は、そんなものを飛び越えていた。そういう何というか、そういう分からないじゃなくて十八歳の人間としての色々が欠落していた。そして若松はそれを自覚していなかった。
「部長、若松ですけど俺もう無理っす」
「なんかあったの?」
部長は軽く応える。なんかあったどころではない。アレにこの仕事は無理だ。この仕事どころかたぶん何をやらせても無理だ。そう言いたかった。
「お客さんからもクレームというか嫌味というか、そういう事を言われ始めたんで、ちょっと俺の現場にはもう連れて行けないっす」
「お客さんなんだって?」
「結局金の事になるんすけど、あの子の分も工事費に入っているんだろとか、違う人居ないのとか」
「そこをカバーするのが先輩の役目だろ」
部長は何も分かっていない。
「新入社員なんだから仕事がわからなくて当たり前、自分もそうだっただろ?」
そうだよな。この部長に人を見る目があるならば、そもそも若松を入社させたりはしないよな。
「とにかく、俺んとこはもう無理っす」
「わかったわかった。じゃ明日からは長井さんとこに付けるわ。権田、お前も段々と人を育てるって事を覚えろよ」
部長はそう言ってくるりと椅子を回転させ、俺に背を向け再びパソコンの画面に見入った。
五日目に長井さんに声をかけてみた。
「どうっすか?若松」
「親の顔が見てみたい」
俺は察した。そして長井さんも若松を放棄した。
いつもの年なら段々と仕事が忙しくなる時期に、なんとなく余裕があった。若松は皆から敬遠されながらも辞めることはなく会社に居た。現場に出ない日は倉庫の片付けや掃除なんかで時間を潰していた。
冬のボーナスが出ないという事を、部長が朝礼の最後に付け足したみたいに言った。社員は落胆したけど、こうも仕事が暇なのだから仕方がない事も理解していた。それにしても同じ業種の他の会社は例年にないくらい忙しそうなのに、うちの会社はどうしてしまったのだろう。
【あの会社ヤバい】若い事務員の娘が休み時間に、呟き系のSNSを何気に閲覧している時に見つけたらしい。拡散されるキーワードまで設定されていて、それが割と拡散されていた。他の投稿者からも似たようなものが上がっていて、どうやらそのヤバい会社というのは、うちの会社みたいだった。見る人が見ればそれは直ぐに分かった。
部長に報告しても全く事の重大さに気付いてはくれなかった。写真投稿系のSNSでも関連の投稿は見られた。モザイクがかかってはいたものの、そこに写っていたのは若松で違いなかった。缶ジュースを手に持ってうわの空な表情で何処かを見ている。現場で一緒になった他業者の職人が一服している若松を隠し撮りしたものだろう。その写真には、【こいつマジでヤバい。朝から何も仕事していないのに一服ナウ】とコメントが添えられていた。この投稿もかなり拡散されていた。
翌月、会社はあっけなく倒産した。インターネットが当たり前にあって、誰もが気軽に何の責任も無い匿名で様々な事を発信している。その名も無き誰かが発信した根も葉もない情報が面白おかしく拡散されて、事件の犯人に仕立て上げられたり、事故の当事者として顔写真を晒されたり、飲食店を閉店へと追い込んだり、そんな事が日常的に起きている。
確かに若松は駄目な社員だった。けどそれは若松自身にもどうすることもできない問題だったし、そもそも悪事を働くような事はしていない。会社が倒産した訳は、手形の不渡などの幾つかの悪い事案が偶々重なった事もあるけど、SNSによって拡散された会社の悪いイメージ、ヤバい社員W、信用問題が少しずつ仕事を無くしていった結果だった。
「釣れますか?」
声をかけられ、その若者はゆっくりと振り返った。堤防で釣り糸を垂れていた若松は、どう返事していいのか分からず、暫くその老人の足元を見ていた。
「何狙い?」
老人は再び聞いてみたけど、若松は振り返った状態でうつむいたままだ。
「返事くらい出来んのか」
老人は明らかに苛つき始めた。それでも若松は黙ったままだ。
「糞が」
言うが早いか老人は、若松の傍にあった撒き餌が入ったバケツを海へと蹴り入れた。そしてそのまま行ってしまった。若松は何か小さく声を発して、そのバケツに目線を移したけど、沈んでいく様をただ眺めている事しか出来なかった。
近くで釣りをしていたカップルはその一部始終を見ていて、彼女の方は自分の携帯電話で動画を撮影していた。
後日その動画は編集され、変な音楽とストップモーションとテロップが追加されてSNSにあげられていた。タイトルは【老人と海】と付けられていた。面白おかしく編集されたそれには、多くの【いいね!】が付いて拡散されていた。その動画の最後は、沈んでいくバケツを見つめる若松からカメラが海へとパーンして、バケツの撒き餌に群がる小魚で締めくくられていた。
〈了〉