幻の降臨
テトロドトキシンは体内に取り入れてしまってから24時間以内に死亡するケースがほとんどだそうで、始めは痺れや腹痛から始まり、運動、知覚、言語機能が麻痺し、血圧が降下。
骨格筋の弛緩や呼吸困難等の症状を経て、最終的には意識が消失。
呼吸が停止し、死亡してしまう。
「神経毒であるコイツは、まず苦痛より先に感覚を奪う。危険を感知できないまま、クジラは死ぬってわけさ。」
ヒドロは眠るように動きを止めた『回生の鯨』を観察している。
テトロドトキシンで死亡した生物の中には死亡後数分ほど心臓の拍動が続くケースもあるそうで、死亡の断定は難しいらしい。
「ただ、デメリットもあってな。」
ヒドロは毒の能力の『デメリット』を私に告げる。
「平常時でも、手から微量の毒が出るようになっている。誰かに触れる事は、もうできねぇって事だ。」
「そんな......。」
唐突に告げられた、能力の『デメリット』。
もう二度と、人に触れる事ができない。
人との関わりを避けてきた私にとっては、あまりデメリットでないと感じられる。しかし.....
何とも言えない感情が、コップの底に残った水のように溜まっていた。
「それより、『回生の鯨』はもう死んだの?」
「どうだろうな。見てみるか。」
そう言ってヒドロが『回生の鯨』に触れたその瞬間。
ザザッ......
また、時が戻った。
「で、結局得られたのはそいつの写真だけ、って事っすかぁ。」
船の上で、紫殿が残念そうに体を伸ばす。
結局、私達は『回生の鯨』を無力化させる事を諦めた。
あんな状態じゃ、たとえ成功したとしても食べられないだろうし。
「もうすぐ、上がってくる頃だと思うよ。」
私は携帯端末の時間を見ながら、水面を眺めた。
時間的に、そろそろ『回生の鯨』が浮上してくるだろう。
「それにしても、本当にいるなんてな。それだけで、俺の見たものは幻なんかじゃなかったって安心したぜ。......お」
私が撮影した『回生の鯨』の水中写真を眺めながら呟く吉兵衛が、何かに気付いて顔を上げる。
その視線に合わせて私と紫殿が振り返ると、薄暗くなってきた海に光が満ちていた。
「幻の、降臨だな。」
水上に現れた『回生の鯨』は、神々しい頭だけを水面から覗かせ、静かに潜っていった。
それから1時間と少しをかけ、私達の船は港に返ってきた。
自分がずっと追い求めていた『回生の鯨』は真実であった事が判明し、吉兵衛は上機嫌だ。
「本当にありがとよ!この写真でも皆が信じないかもしれねぇが、俺はこれが真実である事を知っている。もう、苦しまなくていいんだ。」
「良かったっすねぇ。」
何度も感謝する吉兵衛を後に、私と紫殿は魚市場を出る事にした。
空は、もうすっかり暗くなっている。
「あの人はずっと、自分の見たものを信じられず不安だったんでしょうね。」
「っすね。けど、今日でそれは真実であるって事が分かった。それは、他の誰もが信じなかったとしてもどうでもいいくらいに嬉しいことでしょうよ。」
市場の入口からコンクリートの道へ出る。
夜から深夜にかけた微妙な時間だからか、人は少ない。
紫殿はそこで、私に対して口を開いた。
「そういや、お嬢さん.....」
「?」
「アンタ、ファンタジスタを倒した『ドロドロの怪物』っすよね?」
サングラスから覗かせる鋭い目つきに、私は.....というより、私の体を乗っ取ったヒドロが本能的に飛び退いた。
その様子に、「図星でしたか。」と紫殿が呟くと同時に、殺気を払うような手を振る仕草を見せる。
「俺、今は休暇中なんすよ。『回生の鯨』の謎を解いてくれた事もありますし、今ここで戦おうってつもりは毛頭ありやせん。休暇中の事なんで、本部に報告する気も無いっす。面倒なんで。」
彼の言うとおり、紫殿から戦闘の意思は感じられない。
程よく脱力した体制で、紫殿は人差し指でサングラスを持ち上げた。
「ただ、次に合った時は『ファンタジスタ』としての俺かもしれません。そん時ゃ、倒させてもらいやすよ。」
紫殿はそう言い残してその場を去った。
いつから気付いていたのだろうか。
『回生の鯨』と戦っていた時?船に乗っていた時?それとも......
最初から知っていて、我々に近付いてきたのか?
「真実は分からねぇが、あいつは見かけによらず、かなりの切れ者だな。」
「うん。それに.....」
ファンタジスタを倒した『ドロドロの怪物』と言っていた。
これはつまり、我々の事がファンタジスタ側に知れ渡っているという事だろう。
ファンタジスタはそこら中にいる。
その上、彼らの持つ超能力は強力だ。
これは、思った以上に大変な事になっているのかもしれないな。
「心配か?安心しろよ。」
空を眺めて考えていた私に、ヒドロが話しかけてきた。
不安を抱える私とは対称的に、ヒドロは自信に満ちている。
「俺様がいるんだ。ちょっとやそっとじゃ、負けねぇよ。」
「.....頼もしいね。」
クラスメイトのように、形式上仲良くしなければならない人との関わりはとても息苦しい。
けど、ヒドロのような『単なる利害の一致』で関わる『仲間』という存在は、時には頼もしく感じるし、気楽だ。
帰路につきながら、私は自然と笑みを浮かべていた。