STEP3:不穏な状況
「連絡がつかないから、逃げたかと思ったわ。」
「どこに逃げるっちゅーねん。俺にはもう行く所なんかあらへん。」
「大丈夫。」
彼女は蠱惑的な笑みを浮かべた。
「待っている人たちは居るわ。」
その言葉に渋面を作るらくらに彼女は小さなビンを差し出した。
「飲んでちょうだい。」
手の中にすっぽり収まる透明な広口ビンだ。口はコルクで塞がれていて、中には5ミリくらいの丸く透明な球が無数に入っている。
受け取ったらくらは黄昏の光に透かし見る。小さな球の中にはさらに小さな黒い球が浮かんでいた。
「なんや?これ。」
「封印解除の道具よ。あなたを隠す為にM.E.Te.O.が施した封印を解かないと、クライアントが納得しないだろうから。偽物と疑われるのは気持ち良く無いでしょ?お互い。」
糸のように目を細くして、笑う。かなりの上機嫌のようだ。
「信用ないねんな。」
「覚えておきなさい……『信じる』なんて、思考を放棄した人間の言い訳に過ぎないのよ。」
ほんのわずかに目からのぞく光は、底冷えする冬を思い出させた。
背筋をはいのぼる寒気を振り払おうと、らくらは無理に笑顔を作り、軽い口調で言った。
「この中身、蛙の卵みたいやな。」
「そうよ。」
意外な肯定にらくらの動きが止まる。
「飲んだら体内で孵化するの。小さなおたまじゃくしがあなたの中を移動しながら、施された封印のまじないを食べて大きくなる。全て食べ尽くすと蛙に姿を変えて、外に出てくる……って、何をいきなり捨てようとしてるのよ。」
窓からビンを投げ捨てようとしているらくらの腕をがしっと掴む。
「いややー!そんな気持ち悪い物飲んでたまるかーっ!」
「解呪の有様は見えないんだから、問題無いわよ。出てくる蛙も霞みたいに空気に溶けて消えちゃうし。」
「見えなくても、体の中をはいずり回るんやろ!気持ち悪いわ!それ以前に痛いやろ!絶対、いやや!」
涙声で訴えながらビンを捨てようとするらくらと、それを力づくで阻止する少女。お互いの力は拮抗しており、互いの手をプルプル震わせながら一進一退の攻防を続ける。
「霊的な物質だから大丈夫よ。害は無いから、安心しなさい。」
「不安だらけや!納得できひん!」
「あたしが信用出来ないの?」
「お前、さっき信用なんか言い訳や、言うたところやないか!」
「あたしの言葉だけは別よ。」
「無茶苦茶言うで、この人!」
「……確かに、最初は霊的な波長が合ってないから、痛みを感じるけど、ちょっとだけだし。」
「ほら、さっきと言ってることちゃうやん。ちょっとって、どのくらいや!?」
「そうねえ、お腹の中でジェイソンとランボーが最終戦争してるような激痛が一分くらい続くってとこかしら。」
「いややー!」
必死で抵抗するらくらだが、じりじりと彼女の力に押され、窓から引き離され、壁に押し付けられる。妖怪であるらくらの力は普通の人間より遥かに強い。そのらくらを表情も変えずに力で押さえ込むのだから、少女の力も尋常ではない。
「飲みなさい。口の中にビンごとねじ込むわよ。」
鋭い眼差しで命令され、観念しかけた時、ふっと彼女の力が抜ける。
窓の外に目をやり、不機嫌な顔で呟いた。
「お客様だわ。」
解放された安心感で脱力し、床に座り込むらくら。
「お出迎えしてくるから、戻って来るまでに飲んでおくのよ。」
冷たく命令を下し、彼女は階下へと向かう。
残されたらくらは、大きなため息をついた。
安堵感と無力感。二つが混じり合った複雑な気分で。
「『グローリー、ここまでのようだ。』『馬鹿を言うな。別れを言うには早過ぎる。』『ふ、別れに早い、遅いなんて似合わない。ただ、運命のままに変わりゆく。人の絆など、そんな物だ。』『お前らしいな。』『ああ、俺はいつだって俺らしい。死ぬときも、戦うときも、歯を磨くときでさえ……それが男って奴さ。』『そうだな。生まれ変わっても、お前がそのままなら、我輩もお前を捜しやすい。』『おいおい、来世でも俺を巻き込むつもりか?勘弁してくれ……生まれ変わったら、戦いに縁の無い人生を歩みたい。そうだな、野辺に咲く花がいいか。』『寂しいことを言うな。しかし、それなら我輩も、その傍らで小さな花を護りながら、朽ちていくのも良いかもしらん。』『はは、付き合いのいいことだ。う、ぐふっ。……死に神がお迎えに来たようだ。』『待て!ダニエル!まだ、早過ぎるっ!ダニエルっ!』」
目をむき、歯をむいてグローリーは叫んだ。
「ダぁニエルぅっ!!」
「うるさいっ!黙れっ!」
背中で喋りつづけるのをずっと無視していた未来だが、耳元で叫ばれてはさすがに我慢出来なかった。
「前の持ち主との今生の別れを聞かせてやっているのに、うるさいとは何事だ。」
グローリーは何故か嬉しそうに(たぶん、相手してもらったからだ。)抗議した。
「頼んでねえよ……ここだ。」
吐き捨てて、灰色のビルを見上げる。
なんの変哲も無いビルだった。4階建ての、狭い敷地に無理矢理建てた細長いビルだ。入居している会社の名前が書いてあるはずの表示板は全て空白。柱に貼り付けられた『テナント募集』の看板が傾いている。
「なんか寂しい感じだな。」
ぼそりとつぶやくグローリーを、未来は無言で掴み取り、小さく呪文を唱える。
精神を集中して、右から左へ真横に振るう。
何が変化したというわけでもない。――普通の人間なら、そう思うだろう。
未来はわずかに身を震わせる。顔に浮かぶのは、笑顔。愉悦に満ちた凶暴な笑み。
結界の綻びから溢れ出る強い魔力が未来の……戦士として生み出された本能を狂喜させる。
グローリーは絶句する。唾があるなら飲み込んだだろう。喉があるなら渇いたことだろう。未来の鬼気に圧され、意識すら失いそうだった。
「行くぞ。」
冷たい声は答えを期待していない。ただ、自らの意思を伝えただけ。
事実、未来はグローリーの返事を待たず、ビルへ足を進めた。
狭い入り口を通ると、右手に奥に続く廊下があり、左手に上に昇る階段があった。右の壁に鉄製の郵便箱が並ぶ。もはや、受け取り手の無い郵便物やチラシが箱から溢れている。
油断無く屋内に目を配る未来の目が一点で止まった。
階段を誰かが降りてくる。黄昏の光差し込む小さな窓。その弱い光に照らされる踊り場。そこまで降りて来て彼女は足を止める。
白いワンピースを着た少女。
小さな身体からは何の力も感じない。
しかし、魔力の波長を探ればすぐに分かる。
彼女がこのビルを包む強大な魔力の源だ。
両手を後ろで組み、微笑みを浮かべる。
「いらっしゃいませ。ご招待した覚えは無いけれど。せめて、名乗っていただけないかしら。」
「ふざけんな。」
他者と己とを分ける『名前』には個人を特定し、魔法をかかりやすくする効果がある。得体の知れない相手に名前を教えないのが魔術師の常識だ。
しかし。
どこにだって非常識な奴は居る。
「ふふ、知りたくば、教えてやろう。我が名はグローリー・けぇんっ!そして、こやつは……」
「止めろっ!」
未来の制止も聞かずにグローリーは続ける。
「我輩のかっこ暫定かっことじる持ち主、ダニエル2号だ!!」
………
沈黙が全てを支配した。