王妹殿下の恋愛結婚
その王国を治めるのは、まだ年若い国王だった。
数年前に亡くなった前国王の跡を継いだ、齢30歳の青年。頼りなさそうなひょろひょろした長身と、ふんわりした笑顔とは裏腹に、確実な手腕を以て小さくとも平和で豊かな暮らしを維持し、国民や部下、自らの家族を何より愛する男。
そんなハインツ国王陛下はその日、いつも通りのふんわり―もはやぼんやりというべきかもしれない、とエーファは思うのだが―とした笑顔のまま、可愛らしく小首を傾げて―三十路の男がやる仕草ではない、とエーファはいらつくのだが―目の前に座った妹へこうのたまった。
「ねえ、エーファはいつになったら結婚するの?」
それはいくら妹と言えど御年28歳の独身女性に向かって放つ台詞ではなくて、それまでこの男は国王だ実兄だと我慢してきたエーファの堪忍袋の緒をブチ切れさせる最後のトリガーとなった。
ばちん!とエーファが机を叩いた音に、隣で書類を書いていた文官たちの肩がびくっと震える。美人で優しいと有名な王妹殿下だが、怒るとものすごく怖い、という噂の真偽を図らずも彼らは確かめることになってしまった。ちょっと涙目だ。
「兄上ってほんとデリカシーがないわね……!」
「だって、気になるじゃん?」
昔から仲のいい兄妹ではあったが、ハインツの天然ぶりっ子っぽい発言とぽやぽやした笑顔にエーファが怒ることはしばしばあった。それゆえエーファの低い声や怒りからぷるぷると震える身体にも慣れっこで、国王陛下はいつも通りの笑みを崩さない。
「もう28でしょ?」
ぱきん、と小さな音がした。文官たちが見ると、エーファの手のひらでさきほどまで彼女が使っていた定規が折れていた。
文官たちは王の執務室を覆った凍るような空気に内心悲鳴をあげた。なんでそんなに空気が読めないんだろううちの陛下!とか、むしろこの鉄の心臓はまさしく王の器!などと考えながらそろりそろりとペンを置き、逃げる準備を始める。
この国では確かに女性の平均結婚年齢は20歳前後である。以前のような男性中心社会から脱却し、職業婦人も増えてきたとはいえ、なお貴族の女性は早くに結婚し、家庭を守るのがまだまだ主流だ。王妹であるエーファは28歳。確かに国王の仕事を補佐し、文官めいた仕事をしてはいたが、確実に「行き遅れ」であった。
社交界などでは自分より一回り下の娘たちがどんどんデビューし、そうかと思えばいつのまにか結婚していた、なんてことは最近では珍しくなくて、エーファもそんな自分の状況は重々理解している。
エーファは自分の持つ最大限の理性を駆使して、ふう、と息をつくと、低いながらも落ち着いた声で兄に言う。
「……兄上がいつまでたっても結婚の話を持ってきてくれないからじゃないの」
「え?なんでぼく?」
「は?」
きょとんとした表情でハインツに短く聞き返されて、エーファもさらに短く問い返した。むしろ衝動的にもれた声だった。
「なんでって……私、王の妹よ?普通どっかの国に嫁いだり、どっかの貴族に嫁いだり、とにかく国のために政略結婚するものじゃない。父上がお亡くなりになった今、その面倒を見るのは兄上に決まって……」
エーファの少し動揺気味の説明は、最後まで言い切られることはなかった。国王陛下は不思議そうな表情のままでこう言ったのだ。
「え?エーファは好きな男と結婚していいんだよ?」
それはエーファのこれまでの20数年考えてきた人生計画を狂わせるのに十分すぎる一言であった。
***
国の友好関係を結ぶため、とか。
国民との関係強化、だとか。
理由はいくらでもあるはずだ。少なくとも王族はそうあるものと政治学の授業でも学んだし、そこらじゅうに転がっている王族の恋愛小説だってそう言っている。
しかしハインツ国王陛下は言った。
「えー。いいよ、そんなのなくてもなんとかなるし、政略結婚ならぼくがするし、エーファは好きな人と幸せになりなよ」
なんと麗しき兄妹愛。なんと素敵なお言葉。文官たちは凍りつき何も言えない王妹殿下をちらちらうかがいながら、心の中でだけそう思った。もちろんそれら台詞のあとには(棒)がついた。小説の中でならいざ知らず、たぶん今はそういう素敵なお言葉(棒)を言うようなタイミングではなかったですよ陛下!と冷や汗をかく。
「なんで、もっと早く言ってくれなかったの……?」
地獄の公爵かと思った。一番下っ端の文官Aはのちに涙目で先輩にもらしたという。底冷えするような冷たく低い声でエーファがたずねると、お花畑にいるかのような笑顔で国王は言った。
「え?言ってなかったっけ?あは、ごめん、伝え忘れてたみたい!」
国王のうっかり大事なことを伝え忘れる性格は、30年生きても治っていなかったのだった。
***
「前提が!崩れたわ!」
どん、どん、と文節ごとに机を拳で叩くものだから、言葉とともに机に積み重なった書類の山も崩れていく。はらはらと落下するそれを拾う気力もなく、ただ感情に任せてエーファは叫んだ。
「政略結婚するものだと!思ってたのに!結婚相手なんて!探してこなかったわよ!」
エーファが社交界にデビューしたのはいまからもう13年も前になる。いたいけな美少女、しかも王の妹である彼女が社交界の華にならない日などなかったが、エーファの方は好きな男など作っても関係ない男に嫁ぐのだから、と冷めた目で自分を取り巻く男たちを観察していた。そんな男たちももいつのころからかいなくなっていった。
昔から有能ながらぼんやりした兄を見ていたからなのか、エーファは割と現実的な性格をしていた。年頃の娘らしく恋愛小説なんぞも読んでいたが、それでもこれは夢物語だと思っていた。
自分は父や兄、表には出ないが彼らを支える母、日々城で働く大勢の人、明るく優しい国民が好きだったから、彼らのため、国のために結婚することなど苦でもないと思っていたし、20を超してからは自分も少しながら仕事に携わってきた。
自分を見初める王子様などではなく、いつか兄が持ってくるはずの釣り書きを待って。
「なのに!こんなのおかしいわ!今更!どうしろっていうの!」
どん、とひときわ力を込めて机を叩いたあと、はああ、と長い溜息をついてエーファは机につっぷした。兄の言葉を反芻するでもなく、自分の状況は身に染みてわかっていた。もう28の行き遅れ。今まで好いた男もいなければ、恋愛の真似事の経験もない。最近は仕事一辺倒な自分が、いまから社交界に出て婚活?冗談じゃない。笑いものになるだけならまだしも、真剣に憐れまれるに違いない。
「結婚、あきらめようかなあ……」
小さく呟く。現代では職業婦人が一生をその職に捧げ、独身でいるという選択肢が形成されつつあることも知っている。しかし、考えたのちエーファは首を振った。だめだ。いずれ兄が結婚したら自分は完全に邪魔ものじゃないか。何もしない結婚もしない小姑と同居とか、まだ見ぬ兄嫁がかわいそうすぎる。しかも自分の仕事だってとりわけ技術や知識は必要のない、学力だけでなんとかやっている文官の真似事に過ぎない。こんな中途半端な王妹が仕事に一生を捧げるとか、周囲の人間に腹を抱えて笑われる。
「どうしたらいいっていうのよ」
かくなる上は当初の予定通り政略結婚……とまではいかなくても、兄に縁談を紹介してもらうか。母にも聞いてみるか。なんかそれも情けないなあ、(8割ぐらいは)兄上のせいとはいえ、ああ言ってくれてるのに、と再び深くため息をつくエーファの前に、床に落ちた書類がぴっしり角をそろえて現れた。正確に言うと、横から伸びてきた手によって置かれたのだが。
驚いてかたりと椅子を揺らし、いつのまにかすぐそばに立っていた青年を振り向く。なんの感情も浮かばぬ秀麗な顔をしたこの男が気配を悟らせないのはいつものことだが、エーファ自身も考え事をしていたせいで今日は本気で気づかなかった。こいつ、いずれ私のこと暗殺する気じゃないだろうか、とエーファはほんの少し心配になった。
「今、わたしをお疑いになりましたね。エーファ様」
「え?や、やだわ、そんなわけないじゃないギルベルト!」
なんでわかったのだろうか。まさか超能力でも持っているのか。誤魔化すためのオーバーリアクションに不満を抱いたのか、わずかに眉間にしわをよせたギルベルトにエーファは咳払いをして、彼が揃えた書類の束をとんとんと整える。病的なまでに綺麗に整えられてあったそれは、彼女の行為によって少し乱れた。
「……」
「ご、ごめんなさい」
無言で向けられた視線に耐えきれず、エーファは小さく謝った。王の妹である自分がなぜ単なる文官の男に、とも思うが、もう20年近くこの関係でいたので、今更変えるのは難しい。
ギルベルトは、前国王の時から仕える高位文官だ。正確な年齢をエーファは知らないが、おそらくハインツと同じか少し上くらい。見た者を虜にするような凶悪なまでの美貌を持つ青年だが、エーファにとっては幼いころから自分に物事を教えてくれた家庭教師がわりだったので、その容姿にも耐性がついていた。その綺麗な顔が彼の感情を周囲のものに悟らせることは稀で、幼いころはエーファも「笑って!」と無邪気にねだっては「いやです」と淡々と拒否され続けてきた。神経質で冷静沈着で厳しく美しい男。ギルベルトになついた理由は、エーファ自身にもいまだによくわからない。しかしもう20年近く割と仲良くやってきた間柄だった。現在もエーファはギルベルトの仕事を主に手伝っている。
「でも、もう少し音とか立てて入ってきてよ……」
ギルベルトは文官だ。なのになぜ気配を消すのがうまいのか。見た目だけなら強烈な存在感のはずなのに。やっぱり暗殺者とかなのか、それとも幽霊の類なのか。
「エーファ様、なにがどうしたらいい、なのです」
華麗なる無視だった。ギルベルトは無駄を嫌う。冗談も好まない。それをよくよく知っていたエーファは話題を転換し、自分の目下の悩みを目の前の男にぶつけることにした。
「私の結婚の話よ。ずっと政略結婚するものだと思ってきたのに、今日兄上からそんなことは考えてなかったって言われたの。今から相手を探す羽目になったわ」
「ほう」
エーファの愚痴を日々聞き流すことも多いギルベルトに相槌をうたれ、気をよくしたエーファはさらに言い募る。
「結婚しないって手もあるけど、それもちょっとって思うし、かといってこの年の女が今更10代のこと一緒に社交界ではしゃぐのも違うじゃない?やっぱり縁談をどっかに持ってきてもらおうかなって」
「縁談」
問い返され、こくりとうなずく。頬に手をあて、エーファは脳裏にツテを思い浮かべた。
「兄上なら外国の王族貴族の方をご存じでしょうし、母上もたまにご婦人たちとサロンを開催されてるから、独身の息子さんのいるご婦人もいらっしゃると思うの。あ、ギルベルトは誰か文官や騎士の方で私でもいいって言ってくれるひと、知らない?いたら紹介してちょうだいね。なんなら」
「目の前に」
―なんなら市井に出てお相手探そうかしら。そう続けようとしたエーファの言葉は、短いながらもきっぱり発されたギルベルトの言葉に遮られた。
今、この男は真顔のままでなんて言ったのかしら。エーファは苦笑しながら小首をかしげる。度重なるストレスで自分の耳がおかしくなったのかもしれない、という疑念は捨てきれなかった。
「ごめんなさい、ギルベルト。今、なんて?」
「ですから、エーファ様。あなたをずっと見つめてきた者が目の前におりますのに」
「……」
「……」
「た、確かにもう20年近く見てきてもらったわ、ね?」
数秒の無言の後、エーファが苦し紛れにそういうと、ギルベルトの瞳が少しだけ細められた。いつも通りそこにはなんの感情も浮かんでいない、はずなのに、なぜか今日の彼の顔は雄弁だった。いわく『そういうことではない』。
「……ギ、ギルベルトもたまには冗談を言うのね」
「……」
「……」
次にエーファが出た作戦もまた、彼のお気に召さなかったようだった。ますます瞳が剣呑さを増してゆく。暗殺者の瞳だわ、とエーファはそれこそギルベルトに知られたら殺されそうな冗談を心の内で呟いた。
「わたしがあなたの相手では、不足でしょうか」
静かにギルベルトが言う。ごく、とエーファの喉が鳴った。嚥下がうまくできなかった。彼の手は自分に触れさえもしていない。それなのに、視線だけですっかりエーファの身体はとらえられ、椅子に座ったまま動けなくなってしまっていた。
「ふ、不足とか、そういうことじゃなくて、え……あなた、私と結婚したいって、言ってる、の?」
「ずっとお慕いしておりました」
今日の仕事の経過報告でもするような淡々とした声音で告げられる。しかも真顔。あまりにシュールすぎる告白に、性質の悪い冗談にしか見えない、と自分が傍観者だったらそう思っただろう。しかしエーファにそれを目の前の男に告げる勇気はなかった。視線だけで人を射殺せそうなこの男に。
「え、えっと、ひとまず、落ち着きましょう。ギルベルト」
「わたしは落ち着いておりますが」
「そうね、その通りよ。さすがだわギルベルト」
混乱のきわみにあった王妹殿下は、自分でも意味不明なことを言っている自覚はあったが、それでも滑り続ける口を止められなかった。
「とりあえず座りましょう」
「あなたはもう座っておられる」
「そうだったわね、じゃあ座るのはあなただけね」
表情を一切変えないまま、ギルベルトは素直に部屋の中央に置かれたソファに腰掛けた。部屋奥に配置された机の前の椅子座っていたエーファと、さきほどよりも距離が開く。ようやく射抜くような、その場に縫いとめられるような彼の視線に解放され、エーファはゆっくり深呼吸した。
「さ、さっきの話だけれど」
「エーファ様に求婚申し上げております」
「きゅっ」
感情こそ顔に浮かばないが、ギルベルトの言葉はいつだってストレートだ。エーファは告げられた単語に目を白黒させた。
「きゅきゅきゅ」
「求婚」
「言わなくていいわ!」
頬が火照るのを感じて、エーファはギルベルトから目をそらした。それでもギルベルトの視線が自分を向いているのが分かる。想像だにしていなかった事態に、28にもなって情けない、と思いつつエーファは一向に働いてくれない脳をぐるぐると回転させた。
「つまり、そう、整理させてちょうだい。私は誰と結婚してもいいと、兄上から言われたのよね。それで、あなたは、ギルベルト、私のことが、す、好き、でけけけ結婚、したい、と」
「ええ」
「で、でもあなたは私の家庭教師で、この国の文官、で」
「それが何か関係ありましょうか」
関係はなかった。誰とでも結婚していいと言われた王妹だ。もとよりそのつもりもないが、身分など障害にはならない。会って数日の関係というわけでもなく、むしろ気心もしれた仲だ。この国人間にはこの男を苦手とする者も少なくないが、エーファはそんなギルベルトを好きだった。
好き。
それはエーファを突然襲った理解できぬ感情だった。ギルベルトのことは好きだ。人にも己にも厳しく、常に落ち着いていて、気配も感情も読み取れない男。城に入ったばかりの女性を陥落させては、その冷たすぎる言動でそんな女性を奈落の底に落とす美貌の青年。幼いエーファに様々な学習をさせ、できなければ何でもない事のように根気強く教え、できれば静かに淡々と褒めてくれた。父母や兄のような柔らかい愛情を感じることはなかったが、冬の寒さのような冷たさの中に少しだけ陽だまりのぬくもりを感じることができる人。
かと言って、それが男女における好きであるのかエーファにはわからなかった。彼女はいままで諦めていたがために経験したことのなかった恋愛の情というものを、きちんと理解できていないのだ。
「な、なんで?ギルベルトが私のことを好きだなんて、ひとつも知らなかったわ」
自分が読んだ恋愛小説に出てくるヒーローは、わかりやすいほどにヒロインに愛情を示していた。あんなことをギルベルトにされた覚えはない。―とはいえ、ギルベルトに真顔で愛の歌をささやかれたり、薔薇の花束をもらったり、体を抱きしめられたりしても、彼の頭がおかしくなったとしか思えないだろうけれど。
かすれるような声で尋ねたエーファに、ギルベルトは本当にいつもと変わらない口調で返す。
「素直なあなたと会話をすることは好ましいと思っていました。可愛らしい少女だったあなたが美しい娘に成長するのにも、胸を躍らせていたものです。国を愛し、陛下を支える姿に、わたしもあなたをお支えしたいと考えました。あなたがわたしの仕事を手伝ってくれるようになり、共に過ごす時間が再び多く持てることは、単純に喜びでした」
淡々と語られるギルベルトの思いに、エーファは笑いたくなった。シュールだ。なんの感情もこもらない瞳と声で、この人は私に愛をささやいている。
そう、愛をささやいている!あのギルベルトが!国が滅びようと月が落ちようと犬が人間の言葉を操りクジラが陸を歩こうとも「そうですか」と真顔で言うに違いないともっぱらの噂のあのギルベルトが、行き遅れの王妹に、求婚している!
そして、エーファは気づいてしまった。なんの感情もこもらないはずの瞳と声に、わずかながら彼の奥底に眠っていたらしい情熱が宿っているのを。長年付き合ってきたからだろうか。それとも、この男は本当は全然冷静でもなんでもなくって、内に熱いものを隠し持っている男だったのか。
その事実は、エーファの心を揺さぶった。彼がその情熱を見せたのは、ほかでもない自分のためなのだ。
「ギルベルト」
「はい、エーファ様」
ゆっくりと彼の名を呼ぶと、ギルベルトが答える。そのことがなんだか落ち着いた。エーファは自分の本心を告げようと、顔をあげてギルベルトを見つめた。
「あの、あのね?あなたがそんな風に思ってくれたこと、すごくうれしいわ。本当よ。びっくりしたけれど……うれしい」
本当だ。胸の奥があったかい気持ちになる。ぎゅ、とそこを押さえてぬくもりを感じると、エーファは無意識に微笑んだ。無言のまま、ギルベルトも彼女を見つめる。
「でも、私あなたのことを、あなたと同じように好きだとか、そういうのがわからないの。何せ、今まで恋愛をしてもいいだなんて思ってこなかったんだもの」
「……」
「だから、もう少し私に猶予をちょうだい?誰かとお見合いするわけじゃないわ。あなたのこと、真剣に考える。だけど、もう少し私に『好き』を考える時間を与えてほしいの。何もわからないまま結婚だなんて、そんなの思っていた政略結婚よりひどいもの」
計算づくの政略結婚ではないから。ギルベルトが、真剣な思いを寄せてくれているからこそ。エーファはそれを願った。自分に同じ感情がないまま結婚なんてしたって、形ばかりのそれは政略結婚よりよっぽど冷酷なものになってしまうと思った。
エーファの思いに、ギルベルトは「かしこまりました」と一言答えた。いつも通りの声音だった。エーファは微笑む。情熱を少しだけ宿す彼も素敵だと思う。けれど、このばかみたいにストレートで能面みたいに冷静なギルベルトも素敵だと思う。
だから、きっと、答えを見つけるのにそう時間はかからないはずだ。彼が望むであろう、答えを。
「その時ギルベルトが私のことをまだ好きでいてくれたら、私と結婚してくれる?」
「わたしの気持ちが変わることなどありませんよ、エーファ様」
ほんのわずかに、まぶしそうに瞳を細めたギルベルトは、エーファにはまるで柔らかく微笑んだかのように見えた。
***
「なにをあんなに怒ってたのかなあ、エーファは」
可愛い妹が嵐のように部屋を去った後、不思議そうな顔でハインツは首をひねった。ひとりごちると、手元にあった1枚の手紙に視線を落とす。
それは、信頼する文官からのごく個人的なオネガイゴトの手紙だった。同じ内容の手紙がハインツのもとに届けられるのは通算132回目で、もはや読まなくたって何が言いたいのかわかる。
書いてあるのはつまりこういうことだ。『親愛なる陛下。王妹殿下をわたし、ギルベルトの妻にいただきたい』。無駄を嫌うあのギルベルトが、テンプレートみたいなクソ長い美辞麗句を、教科書の手本みたいな一寸のずれもない字体でもって書き上げてはいるが、要はそういうことだった。これを約1か月に1回ペースで手渡ししてくるのだ。あのバカみたいに感情のこもらない顔で。
ハインツは知っていた。ギルベルトには、その能面みたいな顔の裏に、激しすぎるほどの情熱を持っていることを。そしてその情熱は国のためでも誰のためでもなく、ただひとり、自分の妹にだけ捧げられていることを。
冷静沈着。能面。顔だけは麗しいが感情のない人形。城のものがギルベルトをそう噂するのもハインツは耳にしている。それを聞くたびにおかしくて仕方がない。冷静?あの男が?教え子のエーファにそれ以上の感情を抱き、あの子が社交界デビューしてからというものほかの男にとられてなるものかと鉄壁のガードと策略を張り巡らせ、保護者であった父母と自分という外堀を固め、なおこうして手紙で嘆願するような、あのギルベルトが?
そして可愛い妹の方はと言えば、そんなギルベルトにとびっきりの笑顔をふりまき、常にそばをちょこちょこつきまとい、庭を散歩し紅茶を飲み、一緒に街に出かけている。
これ以上ないバカップル―もとい、お似合いのふたりだろうに、はて、エーファは何をあんなに怒っていたのだろうか。「結婚の話を持ってくる」「政略結婚」「早く言って」。なんのことだかさっぱりわからない。年頃の娘とは難しい。
「あれ、でも」
自分はギルベルトのこの手紙のことを、彼女に伝えたことはあっただろうか。彼の思いは。はて、すっかりギルベルトの方がとっくに求婚ぐらいはすませていると思っていたが、本当にそうだったのだろうか。
「ま、いいか」
この国を治めるハインツ国王陛下は、またふんわりと笑った。またきっと大事なことを伝え忘れているのかもしれなかったが、結果オーライであればそれ以上の文句は出まい。
133回目の手紙は、きっと来ないに違いない、とハインツは満足そうにうなずいた。了
ギルベルトはロリコンじゃなくて、それがエーファだったから好きになったんです。ロリコンじゃないです(強調)。
連載の息抜きに書いてしまいました。すみません。