悪魔と円舞曲を
誕生日プレゼントとして貰って、これほど喜べないものも珍しい。
むしろ軽い嫌がらせなんじゃなかろうかと思いながら、わたしはひくりと頬を引き攣らせた。なんだ、これ。
「……これは、いったいなんの冗談なのかしら」
「おや」
目の前に立つ男が、わざとらしく首を傾ける。
「心外ですね。貴女は、私が冗談や酔狂でこんなものを渡すと思うのですか?」
「思うわ」
「即答ですか。これは手厳しい」
僅かに口角を上げて、瞳を細める。
苦笑のように見せるための表情は、この男の整った造作とあいまって人の好さそうな印象を与えるのだろうが、生憎とこの男の全身から胡散臭さしか感じ取ることのできないわたしは胡乱な瞳を男に向けた。
「笑えない。全然笑えないわ。今まで何度も思ってきたことだけど、あなた、絶望的に救えないわ、エドワード・ヴァレリー」
「今この場であなたが笑う必要はないので、無理に笑っていただく必要はないのですが……救えないとは、また」
「だって、そうでしょう」
もう一度、見たくはないけれどこれから話そうとしていることの内容上仕方なく、わたしは手元の紙に視線を戻す。
「これ、わたしの見間違いでなければ、結婚誓約書に見えるのだけれど」
しかも、後はわたしがサインして教会に提出すればいいだけの、婉曲に言ってかなり準備がいいものに。
「ええ、そうですね。私にもそう見えます」
「……笑えないわ」
では、この男はそうとわかっていて、人の誕生日プレゼントにこんなものを渡したというわけか。
(眩暈がする……それに頭痛も)
いったいどこの世界に、今日ようやく法的に結婚が可能な十六という年齢になったばかりの小娘にこんなものを贈る輩がいるというのか。しかもこの男、わたしとはひと回りも年齢が離れているのである。冗談にしてはタチが悪すぎる。
けれどそれよりもさらにタチの悪いことは、この男が十割本気でこれをわたしに贈った――つまり、結婚の申し込みを現在進行形でしているということである。
「いやー、思った通り、とてもイイ反応ですねえ」
「生き生きした表情で言わないでちょうだい」
「これはすみません」
「やっぱり胡散臭いわ……」
そしてわざとらし過ぎる。
愉悦に満ちた瞳を見れば一目瞭然。この男、こちらが混乱しているのを見て楽しんでやがる。
「ですが、悪い話ではないでしょう?」
「……忌々しいことにね」
そうなのだ。
このエドワード・ヴァレリーという男。大陸で知らない人間はいないとまで言われるヴァレリー商会の御曹司であり、現在病床にある父親の代わりに指揮を執る、事実上ヴァレリー商会のトップと言っても過言ではない人物なのだ。近代化著しい昨今では、少し大きな商人でさえ下手な貴族よりも財産があると言われている。大陸有数の大商人であるヴァレリー家は、公爵家すら凌ぐ莫大な財力を有しているに違いない。
そんな超セレブ一族とわたしがどういう関係かと言えば、何のことはない。ただ父親同士が商売仲間で、家が比較的近所にあったというだけだ。ついでに言えば、兄のラグラがこのエドワード・ヴァレリーと幼馴染だというだけ。その兄も、今は父親の後を継いでしっかりこの男の商売仲間をやっている。
最も、我が家はヴァレリー家ほど大きな商人ではない。元は気まぐれな旅商人だった父親が、母親に惚れこんで定住してから始めた小さな商店が始まりの、ごくごく一般的な商人だ。今ではその商店も街の大通りに面したそれなりに立派な店舗となり、他の街にも幾つか支店を構えてはいるものの、せいぜい中流上止まり。上流階級にすら匹敵するヴァレリー家とは、格がひとつもみっつも違っている。
そんな家に生まれた者同士、結婚がイコールで愛情だの恋愛だのと結びつかないことは、お互い嫌というほど知っている。我が家は両親の馴れ初めが馴れ初めだったせいか他の商家ほどではないが、それにしたって、政略を度外視した結婚なんてあり得るはずがない。
そこで、この手にある紙である。
政略結婚として考えると、先に述べた通り相手として文句なし、どころかこれ以上は望めないだろう。没落貴族と結婚して爵位を、なんて道もあるにはあるが、下手に子爵だの男爵だのの爵位より、ヴァレリー家の家名の方がよほど有益である。おまけに経済的にも我が家を遥かに上回るから、我が家としては無駄な出費もなく、金も頭もないのに自尊心だけは高くて扱いにくいお貴族様と忍耐を持って付き合っていく必要もない。しかも、幸か不幸か親子二代に渡って交流のある家だ。気心も商売の癖も知れている。
真意を読み取れない微笑を浮かべたこの男は優秀過ぎるほど優秀な商人だから乗っ取られる危険もないとは言えないが、兄さんだってえげつないほど強かな商人だ。丁々発止、狐と狸の化かし合いよろしくなんだかんだでうまくやっていけるだろう。
(文句なしだわ、本当に……性格にさえ目を瞑ればね)
なにせ、天から二物も三物も与えられたこの男が唯一持ち得ないのがそれなのだから。
人でなし、鬼畜、腹黒。それらすべての形容に相応しく、この男の性格はすこぶる悪い。むしろ良い所を見つける方が困難だろう。
言葉遊びを好むのか、はたまた自身の言葉ひとつで右往左往する他人を眺め嘲笑うのが趣味なのか。わざと誤解させるようなことを言い、勘違いして空回る他人を眺めてせせら笑っているならまだいい方で、他人の心的外傷をちくちく指して苦しむ様を嬉々として観察する、なんて悪趣味この上ないこともやってのけるのだから。
「いやあ、若気の至りですねえ」
「…………」
のほほん、と善人ぶった表情で言われても、わたしは知っている。ついこの間胃を痛めて入院した男が、入院する前、この男に啖呵を切っていたことを。
まあその啖呵もほとんど言いがかりのようなものだったのだが、その場では大人の余裕で聞き流したフリをしても、意外に子どもじみたところのあるこの男、絶対根に持っていたに決まっている。精神的負荷が高じて胃に穴が空いたというその男性には、せめて病院という安全地帯での早期回復を祈る他ない。
この男と結婚なんぞした日には、その男性の二の舞。
あながち笑い飛ばせない予感にぞっとして、わたしは丁寧に紙を折り畳むと、そっとエドワード・ヴァレリーに差し出した。
「お断りします」
「では、そのお断りをお断りします」
にっこり。
輝かんばかりの笑顔になった男は、突き出していたわたしの腕をがしりと掴むと、そのままずりずりと引きずって歩きだした。
「いやー! なにすんのよ、この人さらい!」
「人聞きが悪いですねえ。安心してください、保護者の許可は取ってありますから」
「保護者……ってラグラか! ちくしょう、あのバカ兄貴!」
「口が悪いですよー」
ずりずりずりずり。
向かう先にあるのは、この男の馬車だ。
「大丈夫大丈夫。怖くないですからねー」
「……っ、あんた、わたしを馬鹿にしてるでしょう……!?」
ああもう、だから嫌だったのだ!
だいたい、このエドワード・ヴァレリーという男、昔からそうだった。
初対面がいつかは知らない。恐らく、わたしがものごころつく前だろう。
気がつけば兄に招かれて家に訪れていたエドワード・ヴァレリーは、なにかというとわたしに構ってきた。
念のため言おう。この場合の構うとは、年下の子を可愛いがるとかそんな平和的な意味ではない。
反応が好みだったのかなんなのかは知らないが、わたしより遥かに年上のクセして同年代の男子顔負けの悪戯や嫌がらせをしかけては、泣きわめくわたしを満足そうに眺めていたのだ。動きや見た目が気持ち悪い虫を投げてくるのは序の口、嘘の怪談話で騙した後急に声をかけて驚かし、見知らぬ場所に連れだしては置き去りにして途方に暮れるわたしを物影から観察し……。
(お、思い出したら腹立ってきたわ……っ)
幼い頃からのその暴挙の連続に、今ではわたしは立派な男嫌いだ。庇ってくれたのは姉だけで、兄は基本的に傍観していた。
おかげで学校も共学なんて通えず、十六になる今の今までずっと女子校。家族以外の男性とは従兄弟とすら満足に話せず、さらに言えば、親戚以外ではエドワード・ヴァレリーしか友人どころか知り合い、または顔見知りすらいないというこの状況。
そんな状態で恋愛なんぞできるはずもなく、「すべて僕らの計算通りだよ」とかなんとか満足そうにのたまった兄とは先日拳で語り合ってきた。いい加減にしろ馬鹿兄貴。
(やっぱりこの男とも拳で語り合うべきかしら……いやでも、自他共に認めるもやしっ子な兄さんならまだしも、意外と背も高ければ筋肉もしっかりついてるこの男に勝つのはちょっと厳しそうだわ)
勝てるつもりでいるのか、と兄がいれば呆れられただろうが、勝てなければこのまま強制連行されかねないのだ。この若さで、胃に穴を空けたり頭部の砂漠化を心配するような事態には陥りたくない。
「ええい、悪魔よ退け!」
「おっと。おやおや、照れ隠しですか?」
「さっきのをどこからどう見たらそう見えるのかしらね…!」
照れ隠しで男の急所を狙う女がいるか!
意を決して急所を蹴りあげようとした足を軽々と避け、エドワード・ヴァレリーは飄々と笑う。
おまけに引きずられないよう踏ん張っていた足を地面から離してしまったものだから、エドワード・ヴァレリーはいともたやすくわたしの体を引き寄せると、そのまま荷物でも担ぐように肩の上に抱えあげた。
「ちょっと、なにしてるのよ! 下ろしなさいよ!」
「ほらほら。暴れると落としますよ」
「ぎゃ! どどど、どこ触ってるのよ、この変態!」
「おや~? これはすみません。貴女があまり暴れるものですから、つい。いやあ、うっかりうっかり」
(確信犯のクセに抜け抜けと……!)
はっはっは、なんて笑うその笑い方は、幼い頃からわたしをからかって遊んでいる時と同じだ。
「しかし、育ちましたねえ。すっかり立派になって」
「だから、どこ触ってんのって言ってるのよ!」
「ははは。いいじゃありませんか。どうせ半月後には夫婦になるんですし、ねえ?」
「……っ」
ああああ!
ぞわっときた! ぞわっときた、今!
「っていうか半月後って何!? どういうことよ!」
「鈍いですねえ。もちろん、半月後に教会を予約しているということですよ」
「いやあああ!」
「嬉しい悲鳴というやつですか? 情熱的ですねえ」
「そんなわけないでしょう!? この×××男!」
「女学院ではそんな言葉も教えるんですか? わたし達の子どもの時は考えなくてはなりませんねえ」
「あああもう、気持ち悪いこと言わないでちょうだい! 鳥肌立ったじゃないの!」
「失礼ですねえ」
男にしては長い蜂蜜色の髪が、歩くたび背中で揺れている。
ぱっと閃いてそれを掴み、腹いせとばかりに引っ張れば「痛いですよ」とエドワード・ヴァレリーはやっとこちらに視線を向けた。
色素の薄い瞳はどこか冷たくて、感情がない。
昔からずっと苦手だったから、ついついその瞳から視線をそらしてしまったら、小さく笑う気配がした。
ああ、そうそう。
どうでも良さそうに言ってから、鼻歌でも歌いそうな口調で、エドワード・ヴァレリーは続ける
「諦めなさい。私と出逢ってしまったのが、運のつきですよ」
……この悪魔。
小さくついた悪態に、男は満足そうに笑うだけだった。