使い魔18 大切、だから
最初、仔犬は笑っていた。
犬は笑わない、と多くの人間は言うだろう。
だが、飼ってみればわかる。
動物には、かなりわかりやすい表情を持つものが数多く、犬もそのうちのひとつだ。
もちろん彼は犬を飼ったことなどないが、目の前の仔犬のこの嬉しそうな表情は、笑っているとしか言いようがない。
それが足元にじゃれついてくるから、軽く蹴飛ばした。
それでもまとわりついてくるから、もう少し強く蹴飛ばす。
おびえながらも、まだ仔犬はそばを離れない。
クゥン・・・
甘えているのか、謝っているつもりなのか、遠慮がちに聞こえるその声にいらだった。
腹立ちまぎれに、子犬の体が宙に浮くくらい、今までよりずっと力を込めて蹴る。
仔犬は一声、
ギャン
と、高く鳴いて地面に叩きつけられた後、それきり動かなくなった。
彼は後味の悪さをうっすらと感じながら、それを見下ろしている。
いくら眺めても、それは置物のようにピクリとも動かない。
死んでしまったのだろう。
自分でそうしておいて、動かなくなったことにいらだつ。
胸が、むかむかする。
・・・頬に、なにかが、触れた。
そこで 目が覚めた
頬に触れた何かの感触は、とてもリアルで、まだ余韻が残っている気すらした。
自分の頬を触ってみる。
そこに変化はなかった。
夢は、夢だ。
それにしても気分が悪い。
意味がわからない上に、やたらと後味の悪さだけが尾を引く。
だいたい、夢自体そうめったに見たりはしないのに。
ゆっくりとカラダを起こしながら、零は隣で眠る主人に目をやった。
時々、この主人の気持ちが自分に流れ込んでくる。
この女の心が悲鳴を上げるとき、無理矢理それに俺を巻き込むのだ。
ついに、夢にまで巻き込まれるようになったのだろうか。
それとも、このところ目に見えて元気がなくなったコイツの気持ちが、俺にまでいやな夢を見させたのか。
どちらにせよ、あんな夢を見たのは自分らしくなかった。
気分の悪くなる、暗い夢。
最近、前よりいくぶん静かになった、この女主人の髪の色は、そういえばあの犬に似ている。
夢の中で殺した犬、この女。
あの犬がこの女なら、この女は俺に殺されたいのだろうか。
愛する人になら、殺されてもいい、人間の中にはそんな狂ったコトを言い出すものがいる。
そもそも存在しない愛などというまやかしのために、一度だけの、あっというまに燃え尽きてしまう自分の命をささげるなどと、零にはばかばかしくて理解する気さえおきない。
それでも、確かにそういう人間は少数だろうが存在していて、自分にうっとうしく想いを寄せてくるこの主人の一途さを考えれば、彼女がその一人だとしても不思議はないように思えた。
また、あの夢。
零が目を開けると、まだ室内は暗く、夜明けまでは間があるようだった。
あの夢のあとは、相変わらず気分が悪い。
元凶ともいうべき女主人を、横目でにらもうとすると…目が合った。
起きていた。
零が音をたてたわけではないし、トイレに立つ様子もない。
彼女がこんな時間に起きている、他の理由があるとすれば。
いやな夢のせいで悪くなった気分の責任を、零は彼女にとらせることにした。
「眠れないのか?オハナシ、してやろうか?」
怖い夢でも見たのだろう、と見当をつけた彼は、さらに怖い話をきかせてやろうとする。
不本意な使い魔生活の中で、レイの大げさなくらいのおびえ方を見るのも、彼女の感じた恐怖を喰うのも、零のささやかな楽しみの一つだった。
うるさいのは嫌いだが、こういう時の悲鳴は嫌いではない。
彼にとって悲鳴は、気分とシチュエーションしだいで、騒音になったり、この世で一番美しい音楽にもなった。
適当なところでやめてやれば、ペナルティが発生することもないだろう。
あまりに怖がるようなら、少し機嫌をとってやればいい。
優しい彼の声音に、レイは不穏な空気を察知する。
「ぃ、いいです。寝ます、すぐ。」
「この話はぁ・・・」
彼女の返事など聞かずに、零は話しだす。
当然、怪談話のたぐいだ。
「 日間のうちに 人に・・・聞いたヤツが呪われてしまう・・・」
くっつくほどそばにいるレイが、カラダを硬くするのがわかった。
けれど、いつもならすでに聞こえているハズの、きゃあきゃあ言う声が今日はまだない。
ただ、カラダを硬くして、零の服のそでに控えめにつかまりながら耐えている。
「・・・お前、怖い話好きになったのか?」
おびえているのはわかるし、恐怖もじゅうぶんにただよってくる。
そして、それは吸い込むと心地よく彼を酔わせる。
けれど、拒否されないのは少し面白くない。
もちろん嫌悪感も彼の糧となるが、それだけでなく、純粋に嫌がるところを見るのが面白いのだ。
外道だが、”悪魔”とは外道以下の生き物で、これでもまだ零などは上品な部類である。
「ううん、・・・でも、やっぱりオハナシ、してください。」
寂しそうに、彼女がつぶやく。
まるで別れ際、残りわずかな時間を惜しむように。
「声、聞いてたい・・・」
聞き取れないくらい小さな声で、そう続けた。
その寂しさの理由がわからないまま、それでもレイが、主が望んだことなので、零はいくつか怪談を話して聞かせ、いつの間にか彼女は眠りこんでいた。
明かりを消したとはいえ、室内は完全な闇ではなく、寝顔の目じりのあたりが光っているのが、わずかな光で見てとれる。
涙ぐむほど怖かったらしい。
終始カラダを硬くしていたことといい、発していた恐怖の質といい、量といい、怪談を楽しんだとは、ちょっと思えない。
そうまでして、俺に好かれようとしたのだろうか、この主人は。
好かれるだとか、愛されるだとか、そんなものは錯覚だ。
好きになるのも、愛してるなんて感覚も思い込みの産物で、人間は、生き物はすべて自分だけが大事。
そんなことはわかりきっている。
けれど、自分自身を追い詰めてまで、零を想うレイの愚かさが、少し面白い気がした。
そしてそれは、どこか心地よく、彼は彼女の湿った目元にそっと触れてみる。
その手を頬にすべらせる。
それから、柔らかなそこに唇を当てて、彼女がゆっくりと目をあけたら。
そうしたら、自分はどうするつもりなのだろう。
俺は、そうしたいのか?
その光景を思い浮かべると、おぞましかった。
そんなこと、したいわけがない。
そんなわけがないと思いながら、零は柔らかなレイの頬から手をはなすことが、なかなかできなかった。
(続)