続き 5
「いや、僕のとこには来てない。・・・家出ねえ?」
バイト先”Rencontre”にやって来たスズキに、零のことを話すと、少し笑ってそう言った。
「でも、君が飼ってるそれは、どう考えても普通じゃない。いまは何ともなくても先はわからない。零くんの言い分だって正しいんだよ。・・・それにしても、家出って・・・あはは、本物の子供じゃないんだから、あはははは・・・」
本当に楽しそうな、やわらかい笑い声。
「スズキさんには笑い事でも、あたしは悩んでるんですよ?帰ってきてくれなくちゃ話もできないんですから。」
元気なく話すレイを見て、スズキは笑うのをやめる。
「ふふ、ごめんごめん、そうだよね。わかった、探してみるよ。」
青のような緑のような、不思議な色の瞳が、誠実にまっすぐレイの目を見ていた。
「はい、迷惑かけちゃいますけど、スズキさんしか頼れないし・・・。」
すまなそうにするレイに、迷惑じゃないよ、とスズキは微笑んだ。
が、迷惑をかける前に零は帰ってきた。
レイが帰宅して間もなく、一息つきながらぼんやり夕方のニュースを見ていたときだった。
”・・・このように、人間のエゴで繁殖させられ、捨てられる動物たちはたった今も死に続けているのです。”
いつの間にかニュースの話題は悪徳ペット業者のことを伝えていた。
捨てられて劣悪な環境にさらされている動物や、画像処理された、多分死体と思われる映像が流れる。
「うわぁ、やだなあこーゆーの。チャンネルかえようね、チャーリー・・・あれぇ?チャーリー、テレビ見てるの?意味、わかるのかな?」
チャーリーは、いつもだいたいレイのすることを見守っていて、スキあらばすり寄ってくるのだが、いまはじっとテレビ画面を見て、微動だにしない。
意味がわかってるなら、きっとイヤな気分だよね。
レイがリモコンに手を伸ばそうとしたその時、チャーリーの緑の瞳が、光をともした気がした。
「チャーリー?」
呼ぶと、レイのほうを向き、そして。
目の前が真っ暗になった。
「え・・・!」
いつかのように、チャーリーが目の前で零にキバをつきたてていた。
襲い掛かってきた魔物に、受け止めるように前に差し出した腕を噛ませながらも、彼の翼はレイの前に壁を作り出し、完璧に彼女を守っていた。
いなくなっていたはずの、彼。
「零さん!」
いつ帰ってきたのか、だとか、いままでどこにいたのか、だとか。
目の前の事態はそんな質問をさせてはくれなかった。
「お前は、本当にどうしようもないバカ女だ。」
つぶやいて、零は押し返す動作で、噛み付いてくる魔物を振り払った。
彼はずっと、この部屋にいたのだ。
人のかたちをほどき、空気のような形態をとって。
「もうこれは、チャーリーじゃない。」
零に払われた勢いで一瞬のけぞるように首をそらせた魔物は、再びその大きさに似合わない素早さで噛み付いてこようとする。
「何言ってんの?!零さん!やめて!チャーリー!!」
零の腕にすがって懇願するレイ。
零は振り向こうともせず、もはや魔物も彼女の声に耳を貸さなかった。
「シャァアーッ!」
零は、動かなかった。
壁を作っていた翼の一方が、しなるように動いて魔物の頭部を張り倒す。
「ギャオンッ!」
少し後ろへ首をのけぞらせるが、壁にぶつかるまでには至らない。
「チャーリー、チャーリー!」
レイの叫びは悲痛だった。
どんなに叫んでも、事態は変わらない。
先ほどの攻撃の反動を利用し、繰り出される爪。
「シャァッ!」
返す翼の一撃で、それを払う零。
「可愛がっていたならわかるだろう、あの表情を見ろ。」
わかっていた。
襲われたのだから。
瞳が光ったあの瞬間から、理由はわからない、けれどチャーリーはチャーリーでなくなった。
ただ、認めたくないだけだった。
認めてしまえば、零はチャーリーを殺してしまう。
あの可愛かったチャーリーを。
「でも・・・!」
零の背にしがみつき、レイはきつく目をつぶる。
その間にも、魔物は零を襲い続け、零はそれを事もなげにはねつける。
「レイ、こいつは、こいつらはとっくに死んでいる。」
意味のわからない言葉に驚き、零の顔を見ると、肩越しに少しだけこちらを向いた彼の目が見えた。
それは、ほとんど見せなくなっていたはずの、あの悲しげな目つきだった。
可愛がっていたチャーリーを殺す決断を迫られている、レイ自身よりも、よほど深い悲しみにさいなまれているような、その瞳は、けれどきっと、彼を知らない者には、気づかないくらいの微妙な、あるかなしかの影をにじませているようにしか見えないのだろう。
ほとんど無表情なままに見える、なのになぜか深い悲しみを思い起こさせる瞳。
「人間に殺された動物、捨てられて死んだもの、死んだことさえ気づいていない魂、力を得て一塊になったそいつらが、元の形をとりもどそうとしたものがこれだ。もう一度生きたくて、な。」
悲しい瞳のその理由は、その言葉の中にあるように思えた。
少なくとも、いまは。
チャーリーの存在の哀れさ、零のあの瞳。
どちらも救えない、自分。
こんなに愛しいのに、なんとかしたいと思うのに。
けれど、今は・・・選択肢などない。
レイの目から、ばらばらと大きな涙の珠がいくつも、いくつも落ちた。
「天国に、いける?」
「そんなものはない、が、見ればわかるだろう?幸せそうか?」
こちらを攻撃するスキをうかがっている魔物の目には、もはや憎しみしか見つけられない。
その瞳に、レイはさっきのニュースを思い出す。
ああ、そうか、もう一度生きて・・・復讐したかったんだ。
こんなふうに。
あたしのことも、殺したいんだよね?
なら・・・。
殺されてもいいような気がした。
静かに、目を閉じる。
利益のために動物たちを増やし、金にならなければ捨てる。
愉しむために虐待する、命を奪う。
駆除という名のもとの大量虐殺。
動物たちが人を憎む理由などはいて捨てるほどあった。
つぐなえるのなら、それで彼らの気が済むのなら、命を命であがなうのは正しいのではないか?
零にしがみつく手から、ゆっくりと力が抜けた。
「じゃ、・・・それなら、あたしは・・・」
「レイ、お前が死んでも、どっちみち俺はこれを殺すぞ。」
彼女自身が望む死なら、止めなくともペナルティの心配はなく、チャーリーを殺すのに十分な力が、零にはある。
零の瞳には、いつのまにかもう何の感情も灯っていない。
「でも零さん、悪いのはあたしたちなんだよ?人間なんだよ?」
「そんな事情なぞ俺の知ったことか。お前がいなくなれば俺を縛るものはない、好きにするさ。」
フフン、とバカにしたように鼻で笑う。
「・・・レイ、誰かを憎み続けるのは、どんな気分だ?」
急に、うつろな響きに変わる彼の声。
なんとなく彼らしくないその言葉は、レイにむけられているハズなのに、そうは聞こえない。
まるで、他のだれか、本当に問いたい相手が別にいるかのように。
彼女は少し考えて、答える。
「ヤです、決まってます!」
「俺ならそれを終わらせられる。」
言った零の顔は、魔物のほうだけを見ていて、表情はうかがうことが出来なかった。
終わったあとに残ったものは、ぼろぼろの小さな子犬の死体と、ベッドに顔を押し付けて泣き伏しているレイ、そしてなんの表情もうかべていない零。
おそらく”チャーリー”の核となっていたであろう、その子犬の体についている傷は、零がつけたものではなく、魔物になる以前、人間に虐待されたもの。
子犬の死因も、それだった。
が、レイにとってはあのチャーリーがいなくなったことだけが、今の現実。
けれど、殺した零は、自分を守ってくれただけ。
誰も責められず、彼女は”人間”である自分を責めていた。
「人に、飼われていたことがある動物も混じってた。」
ベッドに腰掛けながら、どこか遠くを見る目つきの零がポツリと言った。
遠く、たとえば、壁の向こうの、高い高い空のその果て。
「愛された記憶ってやつだ。」
それは静かな、普通の話し声よりも少し小さいくらいの声。
それでも零の声は、泣き止むことができずにいるレイの耳に届いていた。
「お前が、あんまり可愛がるから、飼われて、幸せな時間を思い出して。・・・たぶん・・・あのニュースを見るまで忘れていたんだ、・・・人間が、憎いってコトを。」
幸せな時間、
それをもらったのは、あたしだ。
チャーリーは、少しだけでも幸せだったんだろうか。
もっと、もっともっと可愛がってあげたかったのに、あのコに、もっと幸せな時間をあげたかった、もっと一緒に居たかった。
そう思うと余計に涙があふれた。
顔をあげようともしないレイは、いつのまにか零が自分にそそいでいる、いつもと違う視線に気づかない。
死後も幸せに暮らせる場所が天国なら、ここがチャーリーの天国だったんじゃないか?
零はそんなふうに考え、けれど、口にしたのは。
「うるさい、・・・泣くな。」
そっけない言葉とは裏腹に、顔をふせて泣くレイの頭に乗せられた零の手と、その声の響きは、いつもより少しだけ優しかった。