3 続き
すると、ぐらり、と足元が揺らいだ気がして、俺はバランスを取り戻そうと、思わず目を開ける。 耳鳴りがする。
店には誰もいなくなっていた。
耳鳴りしかしない。
他の音が、一切無かった。
「・・・え」
さっきまで営業中で、店の中には数人の客がいた
はずだ。
俺の目の前には、不気味な男がいて。
けれど今は、誰もいない。
店も閉まっているのか、照明さえなく、窓の外から街の明かりが少しだけ差し込んでいるせいで、なんとかここが店であることはわかる。
目を閉じた、あの一瞬に何があったのか・・・。
視界が上から暗くなっていく。
いや、違う、上からなにかが垂れ下がってくる。
布のような、黒いものがずるずると垂れてきて、その先には目を閉じた、白い顔がついていた。
人だ。
人が天井からぶらさがっている!
「・・・っ、ぁああーーーーー!!」
それは、叫ぶ俺の前をさらにずるずると降りてきて、ちょうど顔と顔が同じ高さにきたあたりで止まった。
そこで初めて、目の前にぶら下がるそれが、さっきまで目の前にいたあの男だと気付くと、悲鳴は枯れ、今度は指一本動かせないような緊張が体を支配した。
白い顔についたまぶたが、ゆっくり開く。
そこに、人間の瞳は無く、紫色をした光がほとばしり出た。
「ひゅぁ・・・」
息を吸い込んだ音と悲鳴がまじったような俺の声。
「俺が」
光の向こうから、低い声が聞こえる。
「何をしていたか、本当に知りたいか?」
知りたくない、知りたくないもうどうでもいいからどっか
行ってくれ殺さないでくれ!
頭の中ではしきりに叫んでいるのに、全く声は出せな
かった。
体中にうっすらとにじむ汗のせいで、皮膚が冷たくなって
いく。
「教えてやるよ」
やめてくれ!
俺は、目をつぶった。 耳元でささやく声が聞こえた。
「こういうことだ」
言葉が終わった瞬間、耳鳴りが勢いを増した。
ギィイイー・・・ン
頭痛がするくらい激しくなったと思うと、それは急激におさまり、
人の話し声や、食器の触れ合う音が交じり合った雑音に変わっていく。
もしかして、元に戻ったのか?
恐る恐る目を開けると、そこはいつもの店だった。
「おい、兄ちゃん」
男の声がするほうを見た。
さっきの男ではない。
客だった。
「ボーっとしてないで、ビールだよ、ビール!」
「え?は、はい、今おつくりいたします!」
俺は、夢でもみてたのか?
ボーっとしてたって、さっきのオバサンみたいにだろうか。
何気なくそう思って、そうしたらわかった。
彼が、何をして金を貰っていたのか。
俺は悪夢を見せられたけど、オバサンは多分なにかいい夢を見せてもらっているのだろう。
ボーっとしている間、客達は自分の望む夢を見て、もしかしたらそれが夢だと気づかずに金を払っているのかもしれない。
なぜならさっき俺が見たものは、夢や幻だと思うには、リアル
すぎる体験だったからだ。
あの人は一体、なんなんだろう。
彼が幻でないことは、カウンターにぽつんと残された、飲みかけのカクテルが証明していた。
サイアクだ、とレイは思った。
おとといの夜は友達と出かけてしまったので、いつも見ているドラマをDVDにとっておいたのだが、何かを間違えたようなのだ。
そこに録画されていたのは、レイの好きなアイドル主演のドラマではなく、渋い刑事ドラマだった。
見ないよ、こんなん絶対見るわけ無いじゃんわかるでしょ?
プレイヤーに恨み言をぶつけても、DVDの中身が変わるわけではない。
呆然とするレイの前で、ドラマは進んでいく。
『アンタ、このお金どうしたんだい?』
『・・・』
封筒に入った金を女に渡し、やくざ者の男は無言で
背を向けた。
『もう危ない仕事やめておくれよ!貧乏でもいいから二人でまっとうに暮らそうよ!』
男は答えず、女の目には涙が浮かぶ。
その一方通行な会話は、レイと零のそれに似ていた。
くわえて、レイは零がなんの仕事をしているか知らなかった。
彼は数日に一度、ふらりと出かけては数万単位の金を持って帰ってくる。
さらに、この家には、零の衣服がいっさい無かった。
かといってずっと同じ服を着ているわけでもなく、同じように見えて日によって少し違い、使い捨てているようにしか見えない。
それだけの金がどこから出るのか。
”危ない仕事”
具体的な想像はつかないが、とにかく危ない仕事はもうかる。
そして、危ない。
このへんがレイの知能の限界だった。
そういえば、いつも無表情な零の顔つきは、どことなく影を帯びていて、そんなところもまた魅力で、そしてそれは女の元にいてやりたいと思いながらも、危険な世界に再び戻っていくあのドラマの男に似ている、ようにレイには思えた。
本当のところ、確かに零の目つきは時折底知れぬ暗さをうかがわせるが、レイの思っているような理由とは程遠い。
人間の暗黒面ばかりとつきあってきた、悪魔ゆえの暗さなのだ。
表情を変えないのは、笑ってもなんの得にもならないのに、わざわざ笑顔を作るのが面倒だから。
そのへんの事情をレイが知るわけもなく、彼女は、あたしが止めなきゃ、とか思っていた。
彼を助けられるのはきっとあたしだけ、そんな使命感は、彼にとっての特別な存在になったような錯覚を起こさせる。
危険な男という新しい設定もまた、レイの中の零の魅力に加わった。
とりあえず今は、ドラマをあきらめ、レイは何か面白い番組を求めてチャンネルを変え始めた。
中年女からは欲望と金、バーテンダーの青年からは恐怖する感情を搾り取った”悪魔”の零は少々機嫌よく帰宅した。
テレビを見ていた主が、狭い部屋の中を玄関までパタパタと走りよってくる。
「おかえりなさい!零さん」
ニコニコと出迎える主、レイに、さっきオバサンからまきあげた金を無言で渡し、部屋へ。
レイは、深刻な表情でその金をじっと見つめている。
彼女は恋愛ドラマが大好きで、見ているときに何か幸せな妄想をするらしく、時々ちらちらと零のほうを見るので、そんな時、彼はなるべく目をあわせないことにしていた。
今も、内容はいつもと違うようだが、何か妄想している気配だった。
「あ・・・、あの」
「なんだ」
使い魔であっても、全く主をうやまっていない零の口調は、いつでも尊大である。
「零さん、なんのお仕事、してるんですか?」
思いつめた表情のレイ。
どうやら誤解があるようだった。
「・・・人に感謝される仕事。」
レイはあまり疑ったり考えたりしない人間だったが、さすがにこれだけでは納得できなかった。
第一、これでは職種がわからない。
「ウソ、ですよね?」
「本当。」
突然、レイが零に抱きついてきた。
「うっとうしい。放せ。」
軽く苛立った零は、やや不機嫌な声を出す。
「あぶない仕事やめてください!」
始まった。
妄想だ。
「TVの見過ぎだ。危なくないから、放せ。」
仕事をしろというから、人間の習慣にしたがって金を取って
るんじゃないか、これ以上どうしろというんだ、面倒くさい。
零は正直そう思っていた。
人間と同じように働く、という選択肢は、零にはない。
そして、まだレイは離れてくれない。
かといってこのままで居ろ、とも言っていない。
彼は大きな手でレイの頭を無造作につかむと、そのまま彼女を自分の体から引きはがした。
「ああぁあ、倒れちゃう・・・危ない危ないぃっ・・・きゃー!」
反り返る格好になったレイが、手をばたばたさせてもがく。
放してやると、バランスを取り戻した彼女は、すねたような顔で零を少しにらんだ。
一仕事終えた彼は、かといって疲れているわけでもなく、他にしたいこともないので、レイの見ていた番組を彼なりの解釈で見始めた。
これ以上追求できる空気ではなくなり、レイも仕方なく自分の位置に座ってテレビを見る。
結局、レイは零の仕事について知ることも、それを止めることもできなかったが、もう興味はTVのほうに移ってしまって、その日はそれきり、その件を思い出すことは無かった。