使い魔序 無という名
それには、名前がなかった。
今では一つの生き物として人の目にうつるそれは、最初、目に見えないもやのような存在だった。
人の感情や、思い、願い。
そんなものが互いにひきよせられ、絡まりあい、 密度を増した空気のような存在だった。
人の心から生まれ、またそれを養分とするその存在は、長い長い時間をかけ、だんだんはっきりとした生き物になった。
それは、人をコントロールして、効率よく多くのエネルギーを出させるすべを身につけた。
そうするうち、それらは食性によって二つの種に分かれた。
憎しみや、恐怖や不安、およそ負の感情とよばれる全て、果ては人の命そのものまでも食い尽くすもの。
愛や思いやり、喜びや感謝をエネルギーとして人と共生するもの。
”彼”は前者だった。
とはいうものの、彼らに本当の性別などなく、好きな方、または目的に合った性別を選んで、姿かたちも自由に変わる。
ただ、自分の個性からあまりかけ離れた姿でいることはとてもエネルギーを消費し、疲れる。
だから彼は必要がない限り、男の姿でいることが多かった。
決まった性別も、名も持たず、人を餌食とし、もう何百年、何千年生きたかわからない。
美しかろうが清らかだろうが、彼にとって人は食い物でしかない。彼らは、人が「悪魔」と呼ぶ概念にとても近く、彼はそう名乗ることもたびたびあった。人の心から生まれた彼らは、その影響も濃く受けた。
だから、彼の容姿は少し不気味だった。
妙に背が高く、そのくせ痩せていて、長い黒い髪をしていつも黒っぽい服を着ている。
ただ、服装と長く伸ばした髪は、本人の意向であり、わかりやすい不気味さを演出するためのものだった。
出会った瞬間から相手に恐怖を植え付けられれば、その後のコントロールもずっとラクだ。
ただし、見るものによってはその印象も変わる。
体つきは、見ようによってはモデル体型とも言え、黒い服は病的なほど白い肌を引き立てる。長い髪は見るからに柔らかそうで、恐怖にとりつかれさえしなければ、つい触れたくなるような質感をしていた。くっきりとした二重瞼に長い睫毛。その奥を覗き込むことができたなら、彼が、淡い灰色の中に微かに紫色が混じった不思議な色の瞳をしているのがわかる。
不気味と思うか、美しいと感じるか。
どちらにしろ目があった時点で餌食は決定なのだが。
その、不気味なのか美しいのか、男なのか女なのかもよくわからないものには、とにかく名前がなかった。
必要があるときだけ、自分で決めた適当な名を名乗ることがあったが、決まった名は持たず、よって、「彼」であったり、「それ」であったり「悪魔のようなもの」でしかなかった。
けれど、同種間でのつながりも薄い彼らはそれでも何の不都合もなかった。
その彼は今、酒を出す店にいた。
薄暗いバーで、餌食となる人間を待っている。
彼に気付くもの、視線を注ぐものを。
もちろん彼は、人の目に見えないわけではない。
だが、怒りや憎しみ、彼のエネルギーになるものはいつでも世の中に満ち溢れていて、彼は自分からエサを探す必要がなかった。だから、極上の味わいをもった獲物がかかるまで、何日でも待つことができた。
半分ほどになったグラスの中身をながめていた。
不意に、左側が鬱陶しいことに気がついた。
至近距離から彼の顔を覗き込む女がいた。
首を真横に傾け、必要以上に目を見開き、無心にこちらをながめる女は、どうやらすでに酔っているようだったが、その奇異な行動は、まるで幽霊がとりつく相手を品定めしているようだった。
人ならぬ彼が、生者と死者をまちがえることなどなかったが、表情には出さないものの、驚くことは驚いた。
彼女から感じるこの鬱陶しさは、彼にとって彼女が美味な食事ではないことを告げていた。
すぐに店を出てしまえばよかったものを、彼はあまりの鬱陶しさに、つい声をかけてしまった。
「…何?」
獲物にするつもりもないのに、条件反射で微笑んでいた。
「あ、しゃべった。ゆーれいかと思ったら、違うんだ?」
人(ではないが、彼の見た目はとりあえず生きている人間に近い)を幽霊ときめつける思い込みの激しさも、しゃべったら幽霊でない理由も、彼には全く理解できなかった。
が、あまりにもバカバカしい状況に、彼はすっかりやる気をそがれてしまい、このわけのわからない酔っ払いをもう少し観察してみるのも面白いかもしれない、などと思ってしまったのだった。
「隣、いい?」
座ってから訊くなよ、と彼は思った。
彼女からは、ほとんど負のエネルギーを感じない。
無垢といってよいくらいだった。
「かんぱーい!」
いつのまにかカクテルを注文し、勝手に勢いよくグラスをぶつけてきた。
「…こぼれてるけど。」
「きにしなーい!」
女はゴクゴクとカクテルを飲み、彼の目の前のびちゃびちゃのカウンターはそのままだ。仕方なく彼が従業員を呼び、片付けさせる。もちろん彼女に悪意などない。
ただ、何も考えていないのだ。
やろうと思えば人の心を読んだりもできる彼だが、別にそんなことなどせずとも、彼女の場合見ているだけでそれがわかる。
良く言えば、純粋無垢。そして無防備。
なにやら勝手にしゃべり倒しているが、彼はあまり聞いていない。
苦手とはいえ、そんな人間は珍しく、今の彼の心境は、動物園で醜い姿の珍獣でも見ている感じだった。
じっと見て(観察して)いると、そのうち彼女も見つめ返してきた。
よく見ると可愛らしいといえないことも無かった。
それは彼にとっては何の意味もないことだが。
「そういえばさ、名前!聞いてないよね?」
彼女とは二度と会うつもりがなかったので、名乗る必要もなかった。観察するのもすぐ飽きてしまったし、つきあうのも面倒なので、もうここらで退散しようかと彼は思った。
「ない」
低くつぶやいた彼の声は、聞き取りにくかった。
「えー!いっしょだあ!」
「……はぁ?」
驚いた彼は、その細い目をふだんよりほんの少しだけ大きく開き、間抜けな声を出した。
「あたしもレイっていうんだよー!鈴って書いて、レイ!」
ない、を、れい、と聞き違えたようだった。
正すのも面倒なので、話をあわせることにした。
「ゼロって書いて、零。」
口に出してみると、なかなか響きのいい名前じゃないか、と彼は思った。
話が合ったと思ったようで、目の前の酔っ払いはさらに一人ではしゃぎだした。鬱陶しさが倍増した。
こうして彼は、”零”になった。
零は、あきれていたとはいえ、全てが相手のペースになってしまっていることに気付いていなかった。
「また、ここで会えない?」
カウンターに伏して寝てしまう少し前に、レイはそう言った。
零は、さぁね、と答えた。
眠ってしまったレイをおいて、零は店を出た。
金を払っていかないあたりはやはり悪魔なのだった。