第41話 覚醒の兆し
冬の空気は冷たく、吐く息が白く溶けていく。
俺はスマホで時間を確認し、ポケットに手を突っ込んで歩き出した。
目的地はStrike Edge――毎週1~2回通うキックボクシングジムだ。
「今日は調整程度でいいよな」
歩きながら、俺は小声でつぶやく。耳元から、落ち着いた女性の声が返ってきた。
『調整というより、確認になると思います』
「確認?」
『はい。直哉の反応速度が、前回Strike Edgeに行った時と比べ、48%向上しています』
「……48%? なんでそんなに?」
思わず足を止めそうになる。
『もともと素養はありました。
しかし、主ゴブリンとの死戦を潜り抜けたことで、神経系と筋出力の同期が嚙み合ったのです』
「嚙み合った……って、そんな簡単に言うけど」
『仕様です。
それに極限状態での学習は、通常の訓練の約10倍の効率を持ちます』
「ふーん、あんまり実感ないけど……死ぬ思いしただけあるってことか」
俺は苦笑しながら歩を進める。
街路樹の葉はすっかり落ち、アスファルトに影を落としている。
『ちなみに、Strike Edgeでの勝率は過去3か月で44%です。
ですが本日はそれを大幅に更新する可能性が高いです』
「おいおい、そんなこと言うとプレッシャーかかるだろ」
『であれば問題ありません。直哉はプレッシャー下でパフォーマンスが向上する傾向があります』
「……お前、俺の性格まで分析してんのか」
『はい。データに基づいています』
そんなやり取りをしながら、Strike Edgeの看板が見えてきた。
ガラス張りの入口から、サンドバッグを叩く音が漏れ聞こえる。
俺は深呼吸し、ドアを押し開けた。
* * *
ジムの中は熱気に満ちていた。革の匂い、汗の匂い、サンドバッグを叩く乾いた音。
俺はリングに上がり、グローブを締める。
相手はジムの中堅クラス。普段なら互角――いや、少し押されるくらいだ。
「始め!」
ゴングが鳴った瞬間、俺は軽くジャブを放った。
――速い。
自分でも驚くほど、腕が滑らかに伸びる。相手のガードに触れた感触が、妙に鮮明だ。
(……え、今の、俺のジャブ?)
試しにもう一発。今度はフェイントを混ぜてみる。
相手の反応が遅れる。俺の視界が広い。動きが読める。
(なんだこれ……)
心臓が高鳴る。怖いくらいに、体が軽い。
――でも、まだ様子見だ。ここで調子に乗るな。
一歩踏み込み、ローを打つ。
「ぐっ……!」
相手の足がわずかに揺れる。効いてる。
(……本当に、効いてる)
2ラウンド目。俺は少しギアを上げた。
ステップを速め、角度を変える。相手の視線が追いつかない。
「ちょ、待て……速っ!」
相手が焦る声を上げる。俺のジャブが頬をかすめ、カウンターの右が寸前で止まる。
(……やばい、俺、強い)
でも、まだ試したい。どこまでいける?
3連打を打ち込み、最後にボディ。相手が息を詰まらせる。
観客のざわめきが耳に入る。
「おい、直哉やばくね?」
「前回より全然違うぞ」
3ラウンド目、俺は完全に試合を支配していた。
――本気を出す。
踏み込み、フェイントからの右ストレート。
「うっ……!」
相手が膝をついた。
「終了!」
トレーナーが声を張り上げる。
俺は息を整えながら、リングを降りた。
(……これが、俺?)
* * *
リングを降り、俺はタオルで汗を拭きながらベンチに腰を下ろした。
冷たい水が喉を潤す。だが、頭の中は熱を帯びていた。
(……何だ、今の俺)
ジャブの速さ、視界の広さ、反応の鋭さ――全部が別人みたいだった。
自分の体なのに、まるで知らない機械を操作している感覚だ。
「おい神谷、どうした? 顔がぼーっとしてるぞ」
声をかけてきたのは、ジムでよく話す先輩だ。肩にタオルをかけ、笑っている。
「いや……ちょっと、まだ頭が追いついてなくて」
自分でも情けない答えだと思う。だが、本当にそうなのだ。
俺はまだ、さっきの自分を理解できていない。
「今日の動き、マジでヤバかったぞ。お前、何食ったんだ?」
別のメンバーも笑いながら近寄ってくる。
「前まで普通にやってたのに、急に世界クラスみたいな動きしやがって」
「トレーナーも驚いてたぞ。『俺の現役時代より強いかも』ってさ」
「……そう、なんすか」
茫然としたまま、言葉が出ない。
俺はただ、ペットボトルを握りしめていた。
(これが……反応速度の上昇の効果か?)
その時、耳元でイチカの声が静かに響く。
(『はい、そうです。神経系の最適化の結果です』)
(……最適化?)
(『死線を越えたことで、体が身体能力を十全に発揮できる土台が整いました。
そこに私の最適化処理が加わり、脳が戦闘パターンを高速学習したのです。
その結果、筋出力と反応速度が完全に同期し、もともとの素養が最大限に引き出すことができました』)
俺は深く息を吐いた。
(できましたって、お前……)
(『私はできるサポートなので』)
イチカの声は淡々としているが、改めて最適化の凄さに驚いた。
* * *
「お前、現役時代の俺より強いかもしれんな」
隣で腕を組むトレーナーが言った。
冗談ではない目だ。
その視線には、長年の経験からくる確信が宿っていた。
「正直、教えられることはもう少ない」
低く、重い声がジムの喧騒に沈む。
俺はタオルで汗を拭きながら、言葉を探した。
「そんなことないっすよ……」
口に出した瞬間、自分でも弱々しいと思った。
だが、トレーナーは首を横に振る。
「いや、本気でそう思う。もう何度も第3層に潜っているんだろ?」
「むしろ今までがおかしいぐらいだ。
ようやく、技術が身体能力に追いついてきたんだな」
トレーナーの目が鋭くなる。
「お前はもう、次のステージに上がったってことだ」
その言葉が、胸に重く響いた。
ここで学べることは、もう限界に近い。
俺は無言で頷き、深く息を吐いた。
(……次のステージ、か)
イチカの声が、静かに耳元で囁く。
(『彼の評価は妥当です。Strike Edgeでの学習効率は、すでに臨界点を迎えています』)
俺はタオルを握りしめながら、次の一手を考えていた。
* * *
ジムを出ると、夜の空気が肌を刺した。
昼間の熱気が嘘のように、街は静かで冷たい。
俺は手袋をはめながら、深く息を吐いた。
(……次のステージ、か)
トレーナーの言葉がまだ耳に残っている。
『Strike Edgeでの学習効率は低下しています。藤堂心眼流迅術への移行を推奨します』
「やっぱりそうか……」
俺はポケットに手を突っ込み、街灯に照らされたアスファルトを見つめる。
「ここで学べることは、もう限界なんだな」
『はい。現状、直哉の身体能力はジムの平均値を大きく超えています。
技術の微調整は可能ですが、成長率は著しく低下します』
「トラのとこで……本格的にやるしかないか」
その名前を口にした瞬間、胸の奥が熱くなる。
藤堂心眼流迅術――魔素能力者が多く通う道場だ。
『そうしましょう。次回の訪問日程を確認しますか?』
「そうだな。魔素の特訓が必要だってみんなに言われてるし。
ちょっと考えよう。
イチカ、手伝ってくれよな」
『お任せください』
俺は夜空を見上げた。
冷たい星の光が、妙に遠く感じる。
(死線を越えた俺が、次に行く場所は――)
足取りは自然と速くなっていた。
* * *
「トラんとこでの訓練だけど、やっぱりまずは魔素量からなのかな?」
『はい、内在魔素量の増加が重要です』
「やっぱりそこか……」
俺はペンを置き、椅子の背にもたれた。
「で、どうやったら増えるんだ?」
『条件は3つあります。
第1に、内在魔素が枯渇した場合。
第2に、短時間で大量の魔素を消費した場合。
そして第3に――心理的負荷です』
「心理的負荷って……死ぬ思い?」
思わず苦笑する。
『はい。もちろんそれだけではありませんが、死線を越えることで、効率は1.5倍以上に跳ね上がります』
イチカの声は淡々としているが、その内容は重い。
死線――つまり、また命を賭けろということだ。
「いやいや、死なない程度に頼むわ」
俺は苦笑しながら頭をかいた。
『わかりました。
負荷を多くかけるには肉体的・精神的ストレスを伴う状況で、魔素の消費を繰り返すことが最も効果的です』
「じゃあ、死なない程度に死ぬ思いってことで」
『意味不明ですが、了承しました』
俺は笑いながら、ノートの端に「死なない程度に死ぬ思い」と書き込んだ。
(こういう冗談でも言わないと、やってられないよな)
イチカはさらに続ける。
『加えて、魔素増加の効率を高めるためには、回復サイクルを短縮することが重要です。
枯渇後のリカバリーを早めるため、栄養摂取と睡眠の質を最適化してください』
「なるほど……結局、生活習慣も関係あるのか」
『はい。現在の睡眠時間は平均5時間42分。
深夜のアニメを減らすことを推奨します』
「えー、あれは減らせないよ」
「しかし回復サイクルを短縮するための推奨値は7時間以上です』
「7時間…かぁ」
俺は苦笑しながら、スマホを片手に布団に潜り込んだ。




