第27話 赤き虎の咆哮
瓦礫の向こうから、重い足音が響いた。
――ドスン、ドスン、と地面を叩くたび、足元の砂利が跳ねる。
その音は、ただのゴブリンのものではない。もっと深く、もっと重く、まるで大地そのものが怒りを刻むような響きだった。
「……さすがにやべぇな」
武虎が低く呟いた声が、妙に遠く聞こえる。直哉の心臓が、胸の奥で暴れ回っていた。
瓦礫の隙間から、まず見えたのは――異様な影。
次に、2つの頭。
どちらもゴブリン特有の緑色の皮膚をしているが、片方は歯を剥き出しにして笑い、もう片方は無表情でこちらを睨みつけていた。
その体躯は、通常のゴブリンより二回りは大きい。筋肉の塊のような腕が、分厚い剣を2本、まるで枝切れのように軽々と握っている。
「……嘘だろ」
直哉は思わず声を漏らした。
ゴブリンの群れがざわめき、囃し立てる声が洞窟に反響する。
「グルルル……」「ギャハハハ!」
その声は、戦え、戦え、と煽る獣の合唱だ。
炎を操っていたゴブリンマジシャンが、魔法を止めた。
その目は、まるで観客のように冷ややかだ。
大地魔法の使い手は、退路を塞ぐように壁を作り始める。
(『直哉、退路は封鎖されました。戦闘以外の選択肢はありません』)
イチカの声が、冷静に頭の中へ響く。
直哉は唇を噛んだ。
「……わかってる」
主ゴブリンが体にオーラを迸らせる。
――魔素だ。ゴブリンが、魔素を身体強化に使っている。
その瞬間、重圧が肩にのしかかり、空気が変わった。
2つの頭が同時に笑った。
「ギャハハハハハ!」
「……ゴブゴブゥ、ゴブゴブ!!」
「くそ、何ゴブゴブ言ってやがる、わからねぇんだよ!」
武虎が一歩前に出る。
「神谷、全力で行くぞ」
その声は低く、だが確かな闘志を帯びていた。
直哉はうなずき、バットを握り直す。
手のひらが汗で滑りそうになる。
心臓の鼓動が、耳の奥で爆音のように響いていた。
――ここから先は、死線だ。
* * *
主ゴブリンが剣を振り下ろした瞬間、空気が裂けた。
轟音とともに瓦礫が粉砕され、衝撃波が直哉の頬を切り裂く。
「速っ……!」
剣が振り下ろされるたび、空気が裂ける音が広場に響き渡った。
――ズバァァンッ!
主ゴブリンの両腕が唸りを上げ、分厚い剣が瓦礫を叩き割る。
衝撃波が地面を走り、破片が弾丸のように飛び散った。
「くっ……!」
直哉は時穿つ瞳で引き延ばされた時間の中、必死に剣の軌跡を追う。だが、避けるだけで精一杯だ。
その横で、武虎が吠えるように踏み込み、断裂掌を叩き込む。
――ドゴォォンッ!
赤い衝撃波が主ゴブリンの胸を狙う。
しかし、敵は防御箇所に魔素を集中し、まるで岩壁のように受け止めた。
「効かねぇ……!」
武虎の歯が軋む。次の瞬間、主ゴブリンの剣が唸りを上げて反撃した。
――ガギィィンッ!
武虎の腕で受け止めた衝撃が骨を震わせ、足元の岩盤が砕ける。
「ぐっ……まだだ!」
武虎は踏み込み、もう一度掌を突き出す。しかし、2つの頭が同時に笑った。
「ギャハハハハ!」
「……ゴブ、ゴーブ」
剣が横薙ぎに振り抜かれた。
――ドゴォォォンッ!
瓦礫が弾け、武虎の体が宙を舞う。
「トラッ!」
直哉の叫びが広場に響く。武虎は壁に叩きつけられ、瓦礫の山に沈み込んだ。土煙が舞い、視界が白く濁る。
その瞬間、直哉の胸に冷たい恐怖が走った。
――1人で、あれを……?
* * *
主ゴブリンの剣が唸りを上げるたび、戦場の空気が震えた。
――ズバァァッ!
直哉は身体強化を駆使し、紙一重で刃をかわす。剣圧が頬をかすめ、皮膚が裂けて血が滲む。
「っ……!」
息が荒い。心臓が胸を突き破りそうなほど暴れている。
『直哉、回避率が低下しています。再度、時穿つ瞳を発動します』
イチカの声が冷静に響いた瞬間、視界が再びスローモーションに変わった。
剣の軌跡が赤い残光を引き、空気の流れまで見える。
――だが、均衡を保つだけで精一杯だ。
直哉は必死にバットを振り、剣撃を受け流す。
「くそ……速すぎる……!」
攻防はギリギリの綱渡り。時穿つ瞳で時間を引き延ばしても、主ゴブリンの速度は常識を超えていた。
1撃ごとに腕が痺れ、骨が軋む。
体力も魔素も、どんどん削られていく。
『警告。脳への負荷が急上昇。鼻血を確認』
イチカの声と同時に、視界の端が赤く染まった。鼻から血が滴り、頬を伝う。
耳鳴りが爆音のように響き、頭がくらくらする。
「……まだだ……!」
直哉は歯を食いしばり、時穿つ瞳を無理やり維持する。
脳が焼けるような痛みを訴えても、戦闘をやめる選択肢はなかった。
剣が迫る。
――ズガァァンッ!
直哉はバットを振り抜き、刃を弾き飛ばす。
だが、次の瞬間には別の剣が迫っている。
「くそっ……!」
時穿つ瞳の発動が一瞬途切れ、視界が通常速度に戻る。
その瞬間、死が目前に迫った感覚が背筋を凍らせた。
『再起動します――』
イチカの声とともに、再び世界がスローに変わる。
だが、負荷は限界を超えていた。
視界が赤く染まり、脳が悲鳴を上げる。
それでも直哉は、戦闘を続ける。
* * *
瓦礫の山が、低い唸りとともに震えた。
――ゴゴゴゴゴ……!
土煙の中から、赤い光が滲み出す。
直哉が息を呑む。視界の奥で、瓦礫を押しのける影がゆっくりと立ち上がった。
「くそったれぇぇぇッ!!」
武虎の咆哮が空気を震わせる。
その瞬間、赤いオーラが爆ぜた。
――バチバチバチッ!
獣の形を象った炎のようなオーラが武虎の全身を包み込み、黒い稲妻がその表面を走る。
稲妻が地面を焦がし、岩盤に亀裂を刻むたび、虎の幻影が揺らめいた。
『直哉、藤堂様の魔素反応……急激に上昇しています』
イチカの声が震えるほどの数値を告げる。
だが、直哉は言葉を失っていた。
赤い獣のオーラが牙を剥き、虎の幻影が浮かび上がる。
黒い稲妻が尾のように走り、空気を裂く音が耳を打った。
「……断裂猛襲」
武虎が地を蹴った瞬間、視界から消えた。
――ズガァァァンッ!
地面が爆ぜ、瓦礫が宙を舞う。
武虎は四足獣のように低く構え、地を這うような速度で主ゴブリンへ迫る。
その動きは、時穿つ瞳で引き延ばした世界でも追えないほど速い。
爪のように変形された赤いオーラが閃き、空間を切り裂く。
――ズバァァァァンッ!
広範囲の岩壁が削り取られ、粉塵が爆発する。
主ゴブリンが2つの頭で同時に吠えた。
「グガァァァァッ!!」
だが、その声は恐怖に震えていた。
武虎の攻撃は止まらない。
爪撃が連続で走り、虎の幻影が咆哮とともに敵を追い詰める。
赤い閃光と黒い稲妻が交錯し、広場全体が戦場のように揺れた。
* * *
主ゴブリンが距離を取ろうとした瞬間、武虎が雄叫びを上げる。
「逃がすかァァァッ!!」
武虎の全身から迸る赤いオーラが、爆ぜるように彼の体を離れ、空気を裂いて解き放たれた。
そのオーラは瞬く間に形を変え、巨大な赤虎の幻影となって地を蹴り、主ゴブリンへと疾駆する。
主ゴブリンが剣を交差させ受け止める。
剣に魔素を集中させ、一瞬拮抗するが赤虎の幻影が押し切る。
「グギャァァァッ!」
赤虎の牙が主ゴブリンの首を食いちぎり、血飛沫と絶叫が集落の広場に響き渡った。
武虎の膝が崩れ、赤いオーラは霧のように散って消えた。
「……っ、はぁ……はぁ……」
肩で息をする武虎の顔は蒼白だ。もう戦えない。
「トラ!」
直哉が駆け寄り、背を支える。だが、そのとき――
「ギギャァァァァッ!!」
怒り狂ったゴブリンたちが一斉に咆哮し、武器を振りかざして突進してくる。
そして、広場の奥で静かに様子を見ていた2体の影が、ゆっくりと動き出した。
ゴブリンマジシャンだ。
1体は杖を掲げ、炎の渦を纏って詠唱を始めた。
もう1体は地面に手を突き、大地を震わせる低い呪文を紡ぐ。
『警告。火炎属性と土属性の複合戦術を検知。ファイアーボールの規模は危険領域です』
イチカの声が冷たく響く。
「……マジかよ」
炎の渦が膨れ上がり、巨大なファイアーボールが形成された。
直径は人間の身長を超え、赤黒い炎が唸りを上げる。
同時に、大地が隆起し、出口への道を塞ぐように分厚い壁が立ち上がった。
その上に高台が形成され、弓を構えたゴブリンたちが次々と登る。
「くそっ、完全に逃げ道を潰す気か!」
『魔素残量は32。時穿つ瞳を維持しながら突破するには、最短ルートを選択してください』
「わかってる……!」
直哉は息を整え、武虎を肩に担ぎ上げた。
「……重っ……くそ、これじゃ戦えねぇ」
迫り来るゴブリンの群れを睨みながら、直哉は低く呟く。
「イチカ……できるか?」
『はい、可能です。無限拘束をカスタマイズし、背負った状態で固定します』
イチカの声が即座に応じる。
次の瞬間、黒い縄のような光が直哉の背に走り、武虎の体を包み込む。
縄は肩と腰に巻き付き、背負った姿勢を完全にロックした。
「……よし、これなら動ける!」
直哉はバットを握り直し、視線を前に向ける。
「身体強化っ!」
『時穿つ瞳も発動します』
直哉は背に固定された武虎の重みを感じながら、迫り来る群れを睨みつけた。
「……行くぞ」
全身に力を込め、地面を蹴る。
轟音と共に石畳が砕け、直哉の体は矢のように前方へ飛ぶ。
『身体への負荷が増加。これ以上は危険です』
「構わねぇ……!」
屋根を蹴り、壁を駆け、空中で身体を捻る。
ゴブリンの槍がスローモーションで迫るが、直哉はバットで弾き飛ばし、反動でさらに加速。
視界の端で炎の渦が膨れ上がり、巨大なファイアーボールが形成される。
『警告。発射まで残り3秒』
「間に合えッ!」
直哉は高台に跳躍し、弓を構えたゴブリンを一撃で薙ぎ払い、さらに屋根を蹴って詠唱中の大地魔法マジシャンへ急降下。
「インパクトッ!!」
その叫びに反応し、イチカの声が脳裏に響く。
『了解。変幻武器モーニングスター展開します』
直哉の手に握られたバットに、モーニングスターを象ったエネルギーフィールドが展開される。
「ッラァァァァッ!!」
直哉は全身の力を込め、急降下の勢いを乗せて振り抜いた。
棘付きの鉄球が大地魔法マジシャンの頭部を粉砕し、ポリゴンが宙を舞う。
だが、その瞬間――
『ファイアボール、来ます!』
視界の端で、もう1体のマジシャンが炎の塊を解き放つ。
「……っ!」
熱気が空気を焼き、巨大な火球がゆっくりと直哉に迫る。
背後で爆炎の唸りが広場を飲み込み、赤黒い光が世界を染めていく――。




