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朝の光が、薄いカーテン越しにやわらかく差し込んでいた。
フローレスは目を開ける。
サイドテーブルに白い花弁が一輪、そっと置かれていることに気づいた。
(……きれい。)
指先でつまむと、花はふわりと揺れる。
香りはほとんどしないのに、胸の奥が少しあたたかくなる。
(だれが。)
考えようとしたけれど、答えは何も浮かばなかった。
ただ――なぜだか、懐かしいと感じた。
*
階下では、朝のティータイムが始まっていた。
カイが優雅に紅茶を飲み、ガルドは朝食の用意をしている。ライオネルはいつものランニング、ミアはまだ布団の中。この時間は三人で過ごすことが日課になっていた。
フローレスはカイの隣に座って、ぼんやりと花を撫でていた。
「それ、どうしたの?」
「ベッド。おいてあった。」
「ふうん。ここら辺に咲いてる花じゃないわね。」
カイは肩をすくめ、紅茶を口に運んだ。
フローレスがここへ来てから、一か月ほどが経った。
最初は怯えたり戸惑ったりしていたけれど、今では少しずつ表情が増えてきた。
言葉も増え、人の“間”も、ほんの少しずつ分かるようになってきた。
だからこそ、気づいたことがあった。
フローレスはふと思い出したように口を開く。
「カイ、ミアのことすき?」
ブッッ!!!!!!
「ゲホッ……ゲホゲホゲホッ……!?!?
な、な、なに言ってんのよアンタ!!」
カイは盛大に紅茶を噴き、ガルドは笑いを必死にこらえていた。
「だって、いっつも見てる。さっきも写真見てニヤニヤしてた。」
「ちょ……ッ!? あれは!!写真じゃなくて!参考資料で!!」
「コイツ、ミアの前では唇を触る回数が極端に増えるぞ。今度よく見ておけ。」
ガルドが口元を手で押さえながらクククと告げ口する。
「~~~~~ッッッうるさいッ!!!」
カイの顔は真っ赤だった。
そんなやり取りを眺めながら、フローレスは花を胸に抱いた。
穏やかで、暖かくて、くすぐったい空気。
知らない世界。
けれど、嫌いじゃなかった。
*
昼過ぎ――
ライオネルが外套を肩にかけながら言った。
「そろそろ出発する。復興支援の依頼が来ている。」
「魔王の最期の瘴気が残ってる地域ね。」
カイが表情を引き締める。
――この世界には、魔物を生む“瘴気”がある。
濁った悪意のような霧で、人や土地を蝕み、やがて魔物を呼び寄せる。
魔王は最後に大量の瘴気を撒き散らして消えた。
それが各地に残り、今でも魔物を引き寄せ続けている。
だからこそ、勇者たちは戦いが終わった今も旅を続けているのだ。
今回の復興現場は王都から少し離れた場所にある北部領。
本部教会からも離れているため、熱心な信者は多くない。
ミアはフローレスの肩に手を置いた。
「一緒に来る? 無理なら留守番でもいい。」
フローレスは少しだけ考えて――胸の花弁を握った。
「……いく。みんなといっしょ。」
ミアは柔らかく笑い、ガルドは無言で頭をポンと撫でた。
勇者は背を向けたまま、ただ一言。
「無理はするな。」
*
復興現場に着いた時、フローレスは息をのんだ。
大地に黒い靄がじわりと滲んでいる。
重く淀んだ空気が、ひとの心を押しつぶすようだった。
魔物が村を襲った形跡もあり、倒壊した建物や荒れた地面などから住民たちの心情が伝わってくる。
何だかいるだけで怖くなってきて、ガルドのシャツのすそをぎゅっとつかむ。
しばらく歩くと、本日の宿である、ふくふく亭の看板の文字が見えてきた。
入り口の前に何者かがドアにもたれて立っていた。その赤髪の男はこちらに気づくと軽く手を挙げる。
「よお。久しぶりだな。今日はよろしく。」
司祭服をだるっと着崩し、どことなくけだるげな印象を受ける。横の髪を後ろに結い上げ、後ろの髪は肩ほどでサラッと揺れる。
「ああ、変わらずで何よりだ!」
ライオネルはその男は軽く抱擁をかわし背中をバンバンと叩く。
「うげ、何であんたがいんのよ。」
と、カイは陰で顔をしかめる。
「アイツはイムラ。ライオネルのタバコ仲間よ。」
司祭なのに?という顔をしているとイムラが近づいてくる。
目の前まで近づいてきたかと思うと、跪いてフローレスの手を取る。
「フローレスサマ。お久しぶりです。とはいっても覚えていただけていないでしょうが。」
ひぃいっと声をあげながらカイが慌てて間に入ってくれる。
「なーにすんのよ!!!このうさんくさ男!!!」
「悪いか?他の司祭が来るより断然マシだろ。」
笑いながら軽くいなすイムラ。どうやら教会の人間として、形式的にこのような挨拶をしてくれたようで、熱を帯びたあの熱狂的な目ではなかった。
普通、瘴気を浄化するには儀式が必要だ。
魔術師の魔力と、司祭の祈りが揃って、やっとわずかに取り払えるもの。
だから暁星の旅団は、いつも教会から司祭を派遣してもらう。
だが、今は王権と教会が微妙に対立している時期で――
協力してくれる司祭は多くない。
結果的に、イムラは数少ない“味方側に立つ司祭”だった。
カイも口では嫌がっているそぶりを見せるが、本心では悪く思っていない。
「さっさと終わらせるわよ。」
「とーぜん。」
二人が手を合わせると周囲からどんどんと黒い靄が集まってくる。
時折二人は苦しそうな表情を見せながら、その手から漏れ出す淡い光で浄化する。
しかし瘴気の量が多すぎるようで、集まってくるスピードに比べて消えていく量が少ない。
ライオネルが手を叩く。
「よし、いったん休憩だ。」
その合図とともに倒れ込む二人。慌ててミアが受け止めに行く。
「お疲れ様。このペースだと明日までには終わりそうね。」
「ぎづい‘‘い‘‘い‘‘...」
「体が...重すぎる....」
カイはさっきまでイムラをばっちい扱いしていたのも忘れ、全力で背中を預けて脱力する。
瘴気があるだけで空気のまとわりつくような重さを感じるのだ。そりゃその渦中に放り込まれ、己の魔力まで取り込まれるのはさぞかし辛いだろう。
ふと、フローレスはこの瘴気の存在が気になり、
近づいた瞬間――
フローレスの指先に触れた瘴気は、
わたあめが水に溶けて消えるように、じゅわっと光が染みて消えた。それと共に自分を形作っている膜が引っ張られるような感じがした。
「……え……?」
ミアが息を呑む。
ライオネルの目が大きく見開かれる。
フローレスはその感覚に導かれるままに、次々と黒い靄に触れていく。あるだけで息苦しかった空気がだんだんともとに戻っていく感じがする。
周囲の人々はただ息をのんで見守っていた。イムラは乾いた笑いが出てきた。
(はは...。そりゃ教会も血眼で手に入れたがるわけだ...。)
フローレスはその感覚に導かれるままに、次々と黒い靄に触れていった。
あるだけで息を詰まらせていた空気が、透明になっていく。
最後の一片を消し終えたとき、フローレスは膝から力が抜け、ぺたんと座り込んだ。
「」
周りの人々が口々に賞賛を口にする。
しかしあのころと違うのは、フローレス自身に向けられたまっすぐな賞賛。
「ありがとう。助かった。」
「……すごいな。お嬢ちゃん。」
「飯、食ってくか?」
差し向けられたのは祈りではなく、湯気の立つスープだった。
あたたかい。
それだけで胸がくすぐったい。
(わたし……いま……笑ってる?)
ガルドが横目で見てニヤリとする。
「働いた後の飯はうまいだろ。」
フローレスはこくりと頷き、
そして――初めて、はっきりと笑った。




