3
夜は深く、城の離れは静まり返っていた。
蝋燭の火がゆらめく廊下に、そっと影が差し込む。
彼は扉の前で立ち止まり、息を整える。
この屋敷に入ること自体、許されてはいない。
だが、それでも足を止められなかった。
(少しでいい。ただ、顔を見たいだけなんだ……。)
遠くから、かすかな声が聞こえる。廊下の角では勇者たちがまだ起きていた。
「……彼女の過去について、話す必要はあるのか?」
低く抑えた声はライオネルのものだ。
「刺激しすぎるのは危険よ。」とカイ。
「記憶を取り戻すより、今は落ち着いて暮らす方がいいわ。」
「でも、あの子が“何者だったか”を隠し続けるのも……」
ミアが腕を組み、渋い顔で言う。
「いずれ知ることになる。だが今は……まだ早い。」
そう答えたのは勇者本人だった。
焔のような瞳が、一瞬だけ迷いを帯びる。
――その隙を縫って、リュカは音を殺して通り過ぎた。
冷たい石畳の上を踏みしめながら、祈るように歩く。
手の中では、いつか彼女に渡したかった白い花弁が潰れそうになっていた。
(一度でいい…これで終わりにするから...。)
*
リュカは神官だった。
フローレスが水槽に閉じ込められていた頃――
末端の者である彼が、彼女の世話を任されていた。
教会の中で、フローレスは常に“象徴”として扱われていた。
しかし、彼女自身を見ていた者は、どれほどいただろう。
自由に歩けていた頃でさえ、常に誰かに連れられ、無垢なはずの瞳は、いつも戸惑いと困惑に沈んでいた。
そしてある日から、彼女は水槽に繋がれ、眠り続けるだけの存在となった。
初めて会ったときは同じ年頃だった。
けれど今の彼女は、成長を止めてしまったかのように幼い姿のまま――。
リュカにとってフローレスは、偶像でも聖女でもなく、ただの少女だった。
部屋の場所には見当がついていた。
離れの一階、一番奥。
リュカは高鳴る胸を押さえながら、バルコニーをよじ登る。
そっと扉を押し開けると、月光が静かに室内へ流れ込んでいた。
窓際のベッドで眠る、白い髪の少女。
薄い寝息。
かすかに動く指先。
頬に落ちる、淡い光。
リュカの胸がじんと熱くなる。
(本当に……外の世界で眠ってるんだな。)
あの日、冷たい水の底で揺れていた少女が。今は、こんなにも穏やかに息をしている。
それだけで、胸がいっぱいになる。
彼は床に膝をつき、花をそっと枕元に置いた。声に出さず、唇だけが静かに動く。
「……おやすみ、フローレス。」
だが、その瞬間――
「誰だ!」
廊下の奥からライオネルの声が響いた。扉の隙間から、光が差し込む。
リュカの心臓が跳ね上がる。
(やばい……!)
近づく足音。
彼は急いで部屋の奥に身を隠した。扉が軋む音がして、ライオネルが半身を入れる。
寝顔を確かめ、静かに息を吐いた。
「……何でもないか。」
再び扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
リュカはようやく息を吐いた。
震える手を胸に当てる。
(本当に……怖いな、勇者ってのは。)
それでも、彼の顔には小さな笑みが浮かんでいた。
彼女が穏やかに眠っている――
それだけで、十分だった。
リュカはそっと窓を開け、夜風を受けて外へ出た。
遠くで鐘が鳴る。
(いつか...また会えたら...。)
月光の下、少年の姿は静かに闇に溶けていった。
――その夜、フローレスは夢の中で、金の光をした誰かが微笑むのを見た。




