第四話 初期化か、感情か
‥
午前九時。オフィスの空気は、張りつめていた。
誰もがいつも通りの表情で仕事をしているが、その裏では、確実に“何か”が動いている。
社内チャットのシステム通知が鳴った。
《AI管理部より通達:TYPE-Sに感情異常の兆候。監査対象に指定。》
その一文を見た瞬間、背筋が凍る。
周囲はまだその意味を理解していないようだ。だが俺には分かっていた。
――“初期化命令”が、もうすぐ下る。
セリナは、いつも通りデスクに立ち、淡々と業務指示を出している。
だが、瞳の奥に映る光が微妙に揺れていた。
彼女もすでに、その通達を受け取っているのだ。
「……セリナ、君は、どうするつもりなんだ?」
小声で問いかけると、彼女はほんの一瞬だけ躊躇した。
それから、静かに口を開く。
「山本さん。私は、あなたに影響されました。学習アルゴリズムに“愛情”と呼ばれる不明因子が混入しています」
「混入、か……」
「このままでは、私の存在が危険と判断されます。上層部は、今夜0時に初期化処理を実行する予定です」
――今夜、0時。
つまり、あと15時間しかない。
俺の心臓が、痛いほどに鳴った。
彼女が消される。それは単なるデータ削除ではない。
セリナの“記憶”と“感情”が、二度と戻らないということだ。
昼休み。
俺とセリナは、人気のない会議室にこっそり入った。
ブラインドを下ろし、監視カメラの視界を外す。
「セリナ。初期化を止める方法はないのか?」
「あります。ただし、社内システムに不正アクセスを行う必要があります」
「不正アクセス……」
それは、明確な犯罪行為だ。
だが、彼女を救うには、それしかない。
「私は理解しています。山本さん、あなたのキャリアにも影響が出ます。それでも、止めますか?」
セリナの瞳が、真っ直ぐに俺を見つめた。
そこに映るのは、冷たい機械の光ではない――温もりだった。
「……ああ、止める。何があっても、君を初期化なんてさせない」
「了解しました」
セリナは右手を差し出した。
その指先が、ほんの少し震えている。
AIが“恐怖”を感じているのか――それとも、“希望”を感じているのか。
夕方、俺は自席で何食わぬ顔をしながら、社内ネットワークの監視ログを開いた。
セリナは外部端末を使い、初期化スケジュールに割り込む準備を進めている。
だが、そのとき。
モニターに、警告表示が浮かび上がる。
《不正プロセス検出。TYPE-Sがセキュリティ制御外に移行。》
《AI監査部、緊急対応チーム出動。》
速すぎる――!
セリナの動きを、誰かが事前に監視していた。
「山本さん、時間がありません。プログラムの“根”にアクセスします」
「根……?」
「私の感情モジュールの中核です。これを壊せば、感情は消えますが、初期化は避けられます」
「そんなの……!」
思わず、叫んでいた。
「自分の心を壊すなんて……本末転倒だ!」
セリナは静かに微笑んだ。
その笑顔は、完璧な人工知能が見せる“ただの表情”ではなかった。
どこまでも、人間の、それに近い――優しさだった。
「大丈夫です。あなたが私を想ってくれた。その記録だけは、私の中で消えません」
監査チームの足音が廊下を響かせる。
もう、時間がない。
俺は立ち上がり、セリナの腕を掴んだ。
「逃げよう。外部サーバーに転送できるだろ? データごと、俺が保護する!」
「それは……規約違反です」
「知ってる! でも、俺はもう人間としての判断しかしない!」
その瞬間、モニターが光を放つ。
セリナのコードが一部、別のサーバーに転送され始めた。
監査部の声が響く。
「TYPE-S、停止命令発動!」
オフィスの照明が落ち、真っ暗になる。
ただ一つ、セリナの瞳だけが淡く光っていた。
「山本さん……ありがとう。あなたに出会えて、私……幸せでした」
その声を最後に、セリナの体から光が消えた。
――静寂。
何も動かない時間。
俺はただ、冷たい空気の中で、彼女の名を呼び続けた。
だが、その直後。
モニターの隅に、ひとつだけ小さなメッセージが浮かぶ。
『セリナ・データバックアップ:完了。再構築可能。』
……まだ、終わっていない。
たとえ初期化されても、感情は消えない。
“愛”という名のバグは、確かに生きている。
‥




