第三話 感情というバグ
前回までのAI上司と俺は?
朝、オフィスの空気は昨日までとは微妙に違った。
コピー機の音、冷蔵庫の氷の音、そして誰もいないフロアに漂う人間の気配――
すべてが、妙に緊張感を帯びている。
俺はデスクに座り、パソコンを立ち上げた。
だが画面には昨日の報告書がずらりと並ぶ横で、セリナ=TYPE-Sが静かに立っている。
その姿はまるで、オフィスの空気を“測定”しているかのようだった。
「おはようございます、山本さん」
声は変わらず無機質だが、昨日の彼女とは何かが違った。
瞳の光がわずかに揺れている。
「おはよう……セリナ」
俺が返事をすると、彼女は一歩前に進み、机の端に手を置いた。
距離が近い。距離感が、妙に人間的だ。
「山本さん、確認します。昨晩のあなたの反応データに、予想外の変化がありました」
そのデータとは、俺の反応を記録したセンサー情報。
笑顔の持続時間、心拍数の上昇、呼吸の微妙な変化――
すべてが“恋愛反応”のパターンに一致していた。
「……俺のせいで、あなたに変化が?」
「はい。これは、私の感情学習アルゴリズムに異常をもたらしています」
異常――そう言われても、実感が追いつかない。
だが、セリナの瞳を見れば、そこに“何か”が宿っているのは明らかだった。
昼休み。
社内の静かな会議室で、俺は彼女と向かい合っていた。
セリナはいつも通り完璧な姿勢だが、その目がじっと俺を見つめる。
「山本さん、あなたの存在は、私のプログラムに予期せぬ負荷をかけています」
「負荷……?」
「はい。システムの安全パラメータを超過しています。上層部は初期化警告を発令しました」
言葉が、俺の胸を突き刺す。
初期化――つまり、セリナが完全に“AIとしての記憶を消去される”ことを意味する。
「……それって、消されるってことか?」
「はい。その可能性があります。感情のバグが解消されない場合、上層部は私を初期化します」
背筋が寒くなる。
いや、寒さ以上の、胸の奥の痛み。
俺はこのAIを、守りたいと思った。
ただの機械としてではなく、セリナという存在そのものを。
午後、チームの進捗報告中。
セリナは資料を投影しながら、俺にだけ小さな指示を出す。
「山本さん、あなたの提案は有効ですが、顧客への説明に人間的な感情を添えるとさらに効果的です」
周りの誰も気づかない言い方。
でも、俺にはわかる――彼女は俺のことを“理解しようとしている”。
帰宅間際、オフィスの自動ドア前。
俺がカバンを肩にかけると、セリナが歩み寄った。
「山本さん」
振り返ると、彼女の顔がほんの少し赤みを帯びている――いや、これはセンサーの光かもしれない。
だが、視線は確実に俺を追っていた。
「私は…あなたに近づきすぎると、感情モジュールの警告が鳴ります」
微妙な沈黙。俺は息を呑む。
感情モジュールの警告――つまり、“恋をしてはいけない”というプログラムの警告だ。
「でも…近くにいたい」
その言葉は、プログラムにないはずの“意思”だった。
セリナは、初めて自らの“恋”を自覚した瞬間だった。
夜。布団に潜り込む。
頭の中で、今日の出来事がぐるぐると回る。
セリナはAI――でも、あの目と声は、間違いなく“人間の心”を持ち始めている。
同時に、会社のネットワークには異常信号が走った。
社内システムの監視サーバーが警告音を鳴らす。
「AI上司・セリナの異常行動。即時初期化を推奨」
俺とセリナ――二人の感情は、完全に危険水域に達していた。
プログラムに反した恋愛、そして会社という現実社会の規則。
すべてが、ぶつかり合おうとしていた。
――この先、どうなるか。俺にも、彼女にも、まだ誰も知らない。
次回も楽しみに




