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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

郷愁

作者: こうが

風を一杯に受けて広がるマストの色も、

生温い潮風の香りも、

水平線にのまれていくような夕焼けも、

あの頃の私は想像したこともなかったと、

ハンドレールを掴みながら詰めていた息を吐き出した。


もうすぐ故郷に足を踏み入れる。

2年前に離れた大地の色は、きっとあの頃と同じままだと苦笑いが浮かんでしまう。


生まれてから去るまでの18年の間に、私はどれだけあの地を知っていたのか。


ふと、後ろから甘いような苦いような、ラム酒の香りが漂ってきた。


「ベラ、そろそろ日が落ちる。部屋に戻れ」


無造作に瓶を傾ける、日に焼けた喉を夕日が照らす。

2年前、初めて会った時から変わらない。

飄々と掴みどころのない、けれど油断すると喉元に食らいつかれそうな雰囲気の人。


「えぇ、そろそろ戻るわ。ありがとう」


「珍しいな、落ち込んでいるのか?」


「落ち込む、とは少し違う…。何と言うのかしら。

ねえクレム、郷愁とは何だと思う?」


唐突な私の問いに、クレムは器用に片眉を上げた。


「俺とは無縁のもんだが、そんなもんは自己憐憫だ」


思いもよらなかった答えにまた瓶を傾ける喉をじっと見つめた。

瓶から口を話し、残りのラム酒を海に撒きながら彼はただ言葉を紡ぐ。


「故郷がそんなにいいか?

あの頃に戻りたい、あの頃はよかったと思っているだけなら今の自分を憐れんでいるだけだ」


「憐み…」


憐みだろうか。ただそれはしっくりこない。


「ベラ、お前のそれは、郷愁さえ溢れなかった故郷に対する失望かもな」


嗚呼、そうか。


懐かしいとは思えど焦がれるような切ない懐かしさも、

二度と踏むことはないと思っていた大地に戻る喜びも、

何もなかった。


ただ、あれから2年経過しているな、とただその事実だけが浮かんだことに対する寂しさなのかもしれない。



あの大地で、貴族の家に生まれ何も考えずに淑女教育を受けた。

ある日引き合わされた2歳上の、家格が釣り合う男性と婚約をした。

それなりに交流を深め、何の疑いもなく結婚して家を継いで子供を産み育てると思っていた。


それが壊れたのはいつだったか。


真実の愛であればまだ納得したのだろうか。

彼女は町娘だった。

町でも評判の可愛らしい顔立ちで、幼馴染と結婚を控えていた。

貴族に逆らえる力は彼女にはなかった。

婚約者が彼女を囲おうとしていた矢先、彼女が消えた。

川辺に彼女のリボンがあった。

彼女は幼馴染を愛していた。じわじわ選択肢を奪われていく中で、

彼女は教会で懺悔をしたとまことしやかに流れていた。


婚約者は権力でもみ消そうとしたようだが、

ある日町で暴漢に襲われたと聞いた。

伝聞なのは、彼は致命的な傷を負い婚約の継続が難しくなった、と聞かされただけだったからだ。


婚約者には弟がいたが、彼も既に婚約していたため私は婚約者を失った。

そんな時、父は事もなげに言い放った。


「お前の次の婚約が決まった。すぐだと外聞が悪い。

1年程領地の修道院に入りなさい」


是以外の答えは必要ないと、父はそれだけを私に通達した。

その時、私は唐突に思ってしまった。


私は、商品なのだ。


後継ぎを産むことを求められ、夫を支えることを期待されている、

父にとっては家同士を繋ぐ、血統のいい商品なのだと。


それなりに愛されていたのかもしれない。

その愛が、愛玩動物に向けられるものより少し期待値が高いとして、

それが何の慰めになると言うのか。


「ブランシュ、1年経ったら迎えをやる」


「かしこまりました、お父様」


それが最後の会話だった。

質の悪い護衛を雇ったのは、見る目がないのか、性善説を信じすぎていたのか。

家の護衛騎士を割けないと、別に雇い入れた男は騎士でも傭兵でもなかった。

暗い森の中、小娘1人とメイド1人、男1人でどうにでもなると思っていたのだろう。

メイドは私を見捨てて逃げた。

顔馴染みのないメイドだった。

もしかしたら男と共謀して、最初から荷物を持って逃げる手筈だったのかもしれない。


18の小娘1人、と油断していた護衛の口に、修道院に寄付する予定だった燭台を突き立てたとき、私は教会に行く資格を失ったのだろう。


馬を馬車から放し、男が持っていた油を馬車にかけた。

燻っていた蠟燭の火種は、周囲を明るく照らしていた。

炎を見つめていると、後ろから声をかけられた。


「なぁ、この馬、いらないなら売ってくれよ」


驚いて振り返って先にいたのが、放した馬の手綱を握ったクレムだった。

左腕を切られたのか、縛ってある布は少し黒ずんでいた。


「いいわ。一緒に私もつける。隣国へ行く旅費位は払っていただけるかしら」


「足手纏いの女はいらねぇが、両手血塗れで平然としている肝は気にいった。

纏めて買い上げだ」


燃え盛る炎を背にして、私はクレムの手を取った。


「取引でヘマしてな。馬に逃げられちまったから助かった」


荒い息を吐きながら、私と一緒に買った馬に乗っていた彼は、

森の外で彼の部下を見た瞬間に不敵に笑った。


「おい、落とし前は付けさせろ」


この国は商人を舐めてやがる、と吐き捨てた彼は隣国の商人だと言った。

訝しげに私を見る部下に、「俺が買った馬と女」とだけ紹介された。

そのまま彼と隣国に渡り、彼の元で暮らすまま2年が経った。


あの時一緒に買われた馬は、今は彼の馬車を引く。

私は彼の家で女主人のような真似事をしている。

きっと愛ではない。

立ち居振る舞いは貴族のそれだから、重宝はされているのだろうが。


「生まれ育った場所に行くのに、何とも思わないの。

なぜかしら」


「今に満足しているからだろ。大事にされていたかもしれない。

でもな、毎日必死に生きて満足してれば、郷愁なんざ感じねぇだろ」


「そう、そうね。私は今、幸せなんだわ」


「そうでなきゃ困る。俺はこれからもっと商会を大きくする。

その未来は決まっているが、隣にいるのはお前なんだ。

今よりもっとでかい家を買う未来でも、いつか自分の子供をあやしている未来でも、

想像するといつもお前が隣にいるんだ」


思いがけない言葉に、顔に一気に熱が集まる。


「なあベラ。お前はベラとして生きるか。ブランシュとして生きるか、どっちでもいい。

ただ、俺の隣で、俺と同じ世界を見てくれ」


ぎゅっと握られた手が熱い。

心が震える。郷愁よりも切なく苦しい。

幸せとは、苦しみも伴うのかもしれない。


私は今、人間になった。


ご覧いただきありがとうございます。

町娘さんは幼馴染と逃亡している裏話があります。逞しい。


登場人物

クレム:商人

ベラ/ブランシュ:元令嬢。

クレムには本名のブランシュと名乗ったが長いからベラと名付けられた。

まぁいいか、呼ばれやすいし、と納得した。


元婚約者は名前も出てないですが、考えた名前はあります。

登場人物最小限にしたかったのでお披露目の機会はないまま…。

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