見えない代償と、蝕まれる輪郭
ログアウトの瞬間、意識がふっと暗転した。
普段ならすぐに現実の感覚が戻ってくる。
だが、今回は違った。
耳の奥で、何かが擦れるような音が聞こえた。
視界が戻る直前──暗闇の中で、自分ではない“何か”が囁いていた。
「──まだ、終わってない。次を、残せ」
その声は低く、まるで自分の喉を震わせるような“内側の声”だった。
* * *
レイ──桐島澪は、自室のベッドで跳ね起きた。
「あっ……くそ、なんだ今の……」
額には冷や汗。視界がぼやけ、胸が苦しい。
心拍数が上がりすぎて、頭がぼーっとしていた。
「夢……? いや……現実で、身体が反応してる……」
ゲーム内で感じた感覚が、現実にまで波及している。
それは、これまでも薄々感じていた。
《虚無保存》を使った直後、いつもより目覚めが悪い。まるで何かを背負ってログアウトしているかのようだった。
だが──今日のは、明らかに違った。
「声……聞こえた。あれは“誰か”だったのか……それとも、“保存された何か”が……?」
レイは洗面所で顔を洗いながら、ふと鏡に映った自分の顔に違和感を覚えた。
「……目つき、変わったか?」
寝不足のせいかとも思ったが、それだけでは説明できない“奥の濁り”があった。
脳裏をかすめる、“あの腕”──ワイルドファングの保存部位が暴走したあの夜。
保存は、記録であり、模倣であり、再構築。そして──接続。
(保存って……単に記録するだけじゃない。保存することで、“相手の一部”を取り込んでる……?)
そんな仮説を否定する材料は、もはや何一つなかった。
* * *
その日の午後。
大学のサークル仲間に誘われて、レイは久しぶりに外へ出ていた。
駅前のカフェテリア。雑音、人混み、生活音──五感に現実の“質量”が戻ってくる。
「おい、澪。お前、最近ちょっと痩せた? 顔色悪いぞ?」
「え……? いや、寝不足なだけだよ」
「無理すんなって。ゲームばっかしてんじゃねーの?」
「……まあ、ね」
軽く笑って返したが、実際は自分でも気づかないうちに、“何か”が蝕んでいる感覚があった。
コーヒーを一口飲んだその瞬間──耳の奥に、またしても“音”が入り込んできた。
「──お前は、まだ“保存”していない」
(……!?)
反射的に立ち上がる。心臓がドクン、と跳ねた。
「お、おい、どうした!?」
「いや、ちょっと……トイレ行ってくる」
慌てて店の奥へ向かい、個室に駆け込む。
頭が割れそうだった。
「なんだよ……これ……」
耳を塞いでも声は止まらない。
「“壊れた存在”を、保存せよ──記録せよ──再現せよ──」
(違う、これは幻聴だ。現実じゃない。ログアウトしたんだ。ここはゲームじゃない……)
そう思おうとしても、耳の奥には“誰か”の残滓が居座っているような感覚があった。
体温は低く、手足は冷え、喉が焼けるように乾いていた。
鏡を見ると、自分の瞳孔がやや開いていることに気づく。
「……嘘だろ。これ、本当に“副作用”なんじゃないのか……?」
ゲーム内のスキルが、現実にまで侵食してきている。
いや、正確には、“スキルと一緒に保存された何か”が、レイ自身に干渉を始めている。
──それが、この異常現象の正体だった。
* * *
夜。帰宅後。
パソコンのディスプレイには、《アストラ・スリープ・オンライン》の運営公式ページが表示されていた。
「スキル“虚無保存”……取得者数:1」
それだけは確認できた。
だが、詳細は非公開。仕様も、由来も、開発チームすら存在を黙秘している。
それどころか、運営フォーラムには“保存スキルに関するスレッド”がなぜか一切存在していなかった。
(検索で引っかからない……?)
「本当にこのスキル、公式のものなのか?」
不安が膨らむ。
その瞬間、画面がノイズを帯びた。
一瞬だけ、モニターに“あの黒い球体”のような映像が映り込んだ気がした。
「……っ、気のせいか……?」
レイは慌ててPCを再起動するが、既にそれらしき映像は何も残っていなかった。
“存在を保存する”スキル。
それは、ただのデータ操作ではない。
“何か”をこの世界に連れてくる力だ。
──この世界に、かつて存在しなかった“記録”を、現実に接続する可能性を秘めている。
* * *
その夜。
夢の中で、レイは見知らぬ荒野に立っていた。
空は赤く、足元には崩れた塔の残骸。そして、黒い球体が宙に浮いている。
“あれ”が、こちらを見ていた。
──正確には、“保存されるのを待っていた”。
「君の中は、器だ。記録の器。情報の棺」
「次は、誰を記録する?」
その声に答えるように、レイの身体が勝手に動き出す。
手のひらが開き、黒い球体が再び出現する──
──その瞬間、目を覚ました。
「はっ、はっ……」
息が荒い。全身が冷たく濡れていた。
夢の中で開いたはずの手のひらには、爪を立てた跡が残っていた。
「これが……“夢”じゃないなら、いったいなんだ……?」
レイは、そっと呟いた。
「保存しているのは、俺じゃない。もしかすると……俺自身が“保存されている”のかもしれない」
そう思ったとき、スキルウィンドウの片隅に、小さく追加された一文に気づいた。
《※副作用進行度が一定値を超えると、保存対象との同期状態が一時的に“双方向”となります》
“保存されたもの”は、レイを通じてこの世界に還ってくる。
そして“保存した自分”もまた、保存される側になっているのかもしれない。
自我と記録の境界は、すでに──壊れ始めていた。