異常領域と、保存される意思
異常領域《境界座標:D-13-X/ANOMALY》──
その空間は、まるで現実と仮想の境が曖昧になったようだった。
瓦礫の散らばる床、空間に浮かぶ断片的なオブジェクト。壁に貼り付いた文字化けのようなコード。
通常のフィールドとはまるで違う、不気味な静けさが辺りを包んでいた。
「これは……マップ読み込みバグ? いや、違う。意図的な“配置”だ」
レイが呟いた。
「うん、これ……運営の未公開領域か、それとも……“外部からの侵食”」
シルフィアの言葉が、空間に吸い込まれるようにかすれた。
突然、足元の床が震え、黒いひび割れが走る。
「──来る!」
ゴドーが咄嗟に構えた次の瞬間、空間が裂けた。
そこから現れたのは、黒く蠢く獣のような存在。
【???(ネーム不明)】
属性:??/分類:エラーコード種/レベル:???
表示されるはずの情報が、ほとんど“???”で覆われていた。
「ログに表示されない……敵の正体が運営データベースに登録されてない……!」
「つまり、これは……“システムの外側”から来た存在ってことか」
異形の敵は、ワイルドファングの姿に似ていたが、明らかに別物だった。
体表は黒く爛れ、コードのような帯が常に空中に浮いている。目はなく、ただ“歪み”がそこにあった。
「ゴドー! 引きつけろ!」
「了解!」
盾を構え、突進してくる敵を強引に受け止める。
だが、その瞬間──
「なっ……!?」
ゴドーが弾き飛ばされた。ダメージログが表示されず、HPだけが大きく削られている。
「システム介入型の攻撃だ……! ダメージ処理をスキップして直接ステータスを改変してる!」
「そんなのアリかよ……!」
だが、絶望している暇はなかった。
レイは敵の動きに集中する。脚の運び、首の揺れ、突進のタイミング──
「……見えた。保存できる」
彼は手を広げ、スキルを発動する。
「《虚無保存》!」
黒い球体が空間を切り裂き、敵の右腕──爛れた前肢が吸い込まれる。
途端に、敵が僅かにのけぞる。動きが鈍くなった。
「今だ、シルフィア!」
「《速度低下》《再行動封鎖》!」
彼女の呪文が敵の動きを封じ、レイは続けて斬りかかる。
左脚の関節に一撃。そこを支点に、ゴドーが背後から叩き込む。
連携が、効いた。
──しかし、そのときだった。
画面が歪み、システムログが赤く点滅した。
【保存領域に異常データが干渉しています】
【保存スキルにエラーが発生しました】
【──擬似人格との同期が始まります】
「……え?」
レイの脳に、冷たい何かが入り込んできた。
“思考”ではない、“意識の残滓”だった。
爪を立てるような執念、咆哮のような怒り、そして底知れない“飢え”。
(これは……保存した“何か”の意識!?)
一瞬、視界がブレる。自分が自分でない感覚。背骨を這い回るような不快な熱。
「──レイ! しっかりして!」
シルフィアの声が飛ぶ。
「大丈夫……でも、保存スキルが……暴走してるかもしれない」
「一度、“開放”して!」
レイはログを開く。
《保存中:異常個体(断片)/クラス:UNKNOWN》
状態:不安定
同期率:26%……37%……
(まずい、これ以上は……!)
「《開放》!」
球体が再び現れ、保存していた“右腕”が空間に戻される──だが、それはもう“敵の一部”ではなかった。
“独立した存在”として、暴れ出す。
「っ、保存した“データ”が、独自に生成された……!?」
“保存したもの”は時に、“新たな存在”として分裂する。
それが、《虚無保存》のもうひとつの側面──《複製錯乱》だった。
「保存は、記録。けれど、記録は“解釈”によって歪められる……!」
暴れまわる腕状のデータ体を、レイは刃で切り払う。すでに“敵”だった。
保存スキルの真価は“戦術”ではなく、“危険な可能性”の方にあったのだ。
* * *
それでも──3人は勝った。
エラーコード種の本体を、削りきった。
崩れ落ちる異形。次第に空間も安定し、通常の座標へと戻っていく。
だが、レイの顔は曇っていた。
「……今の、見てたか?」
「うん。“保存”は、ただのコピーじゃない。“記録”って、時に命すら生み出す」
「俺が保存した“腕”が、“俺の中に影響”を与えかけてた」
「スキルが成長するにつれて、“保存されたもの”は、きっと君の中にも痕跡を残していくと思う」
「まるで、複数の意識を抱えたプレイヤーみたいに……」
ゴドーが腕を組む。
「危ねえスキルだな。でも、お前なら扱える」
「……ああ。俺はまだ、このスキルに勝ってる。支配はさせない」
そう言って、レイは拳を握る。
《虚無保存》──保存することで、戦術が変わる。
だが保存することで、自分自身もまた変質していく。
“誰かを保存する”という行為は、同時に“自分の中にそれを招く”行為だったのだ。
「俺は……この力で、世界の“底”まで行く」
そう、レイは心の中で誓った。
どんな危険があろうと、この力を制し、自分の武器にしてみせると──
このとき、彼はまだ知らない。
《虚無保存》が、“この世界の真実”に最も近い場所から生まれたスキルであることを。
そして、やがて彼が保存するのは──“この世界そのもの”になるということを。