終わらぬ観察、始まりの咆哮
「――保存対象、異常個体。識別コード:ノーネーム。保存開始──」
それは、従来の保存スキルの枠を超えていた。
黒く歪んだ空間がレイを中心に半径数メートルに及び、空気そのものが軋みながら引き裂かれていく。
スキル《虚無保存》が展開されると同時に、周囲の空間はまるで静止したかのように沈黙を帯びる。
「な、なんだこれは……? 空間が崩れてる……!」
「保存スキルって、こんな……」
ギルド《フェードアウト》のメンバーたち――リーダーのシルフィア、重装槍のゴドー、支援担当のクロト、新人のユエ――全員が凍りついていた。
レイのスキルが“何か”を起こそうとしている。その異常性は、明らかだった。
対象となったのは突如現れた“異界種”。通常のモンスターとは異なり、記録にも登録されない未定義個体。
データエラーの産物とも言える存在が、咆哮をあげる。
《……保存、できる……保存“されたい”……》
その声は、耳ではなく“脳”に直接響いた。
レイは気づいた。この個体は、他のどの保存対象よりも強い“自我”を持っている。
(……こいつ、俺のスキルを理解してる?)
意識が引き込まれる。異界種の“意思”が、レイの内面に入り込んでくる。
保存スキルの内部には、これまでに取り込んだ対象の残滓、情報断片、そして“歪み”が混在していた。
《副作用進行度:38.00% → 42.89%》
「レイ、止めて!!」
シルフィアの鋭い声が空間を裂くように響く。
ユエも叫びながら回復魔法を詠唱していた。「今やったら……あなたの身体が危ない!」
それでも、レイは止まらなかった。
これは保存ではない。これは、構築だ。
対象を取り込み、理解し、再定義する――“存在そのもの”を塗り替える行為。
咆哮が天を突いた瞬間、空間が一閃した。
******
戦闘後、静寂が訪れた。
異界種は完全に取り込まれ、スキルウィンドウには「保存成功」の文字。
だがログには、そのデータが一切記録されていなかった。
代わりに表示されたのは、不明なコードと断片的な単語――
《——再定義要求——管理プロトコルへ接続試行——観測超過——》
プレイヤーが見るべきログではない。
それは、運営の管理画面に属するレベルのシステム命令だった。
「レイ、お前……本当に大丈夫なのか?」
ゴドーの言葉に、レイは少し間をおいて「……ああ」と短く答えた。
副作用の進行は42%。すでに警戒ラインは超えていたが、レイ自身はどこか落ち着いていた。
(だが――どこまでが俺で、どこからが“保存されたもの”なのか……わからなくなる)
ふと、ユエがそっと声をかけてきた。
「さっき、誰かと話してたみたいだった……違う?」
「……気のせいじゃないか?」
「違う。“保存されたい”って、私にも聞こえた。だから」
レイは無言で彼女を見つめた。
ユエはその視線に何かを感じ取り、少し距離を取りながらも、しっかりと目を合わせて言った。
「でも、怖くはない。私は、レイの背中を見て進みたいって思った」
その言葉に、レイは答えなかった。代わりに、空を見上げた。
彼の中で何かが“芽生えている”――そんな感覚だけが、確かにあった。
******
その裏で、クロトは端末を操作していた。
《記録送信完了:進行度42.89%、異界種保存確認》
そして、数秒後に通信が入る。
「こちら、監察官レイヤ。進行確認。“次段階干渉”への移行を開始」
「……本当にやるのか。制御計画を超えるぞ、あいつは」
「すでに運営内でも議論は割れている。だが、進行を止めるには“試練”しかない」
「なら、最後まで見届けるさ。俺の役目は……観察だからな」
通信が切れた後、クロトは深く息をついた。
“観察”という立場から逸脱する日が、すぐそこに迫っている気がしてならなかった。
レイのスキル――《虚無保存》は、もはや単なる記録ではない。
それは、世界そのものを“保存し直す”力。
そして、その力がどこへ向かうのかは、まだ誰にも見えていなかった。