消された記録、現れた敵
「──この街、本当に変わったな。ここまで賑わってるのを見るのは初めてだよ」
穏やかな日差しが降り注ぐ城塞都市の中央広場。
石畳の上に並ぶ露店には、色とりどりのアイテムと騒がしいNPCたち。プレイヤーたちはクエスト報告や素材の取引に奔走していた。
その喧騒の中、ひとつだけ奇妙に静かな一角があった。
クロトは、紅茶の入った小さなカップを傾けながら、目の前に座る男と会話していた。
相手はスーツのような黒いローブを纏い、システムエンブレムを胸に刻んでいる──運営側の監察者だった。
「ここのスコーン、意外と美味いんだ。……で、そっちは?」
「予定通り、“彼”は深淵裂谷で《渦巻く影蛇》を保存した」
男は、カップを傾けながらも声は笑っていなかった。
「副作用の進行は?」
「37.31%。まだ自覚はないが、保存体との境界が曖昧になりつつある。“再現”ではなく“再定義”へと向かっている」
「……クロト、お前は彼に肩入れしすぎてるように見える」
「観察対象に関心を抱くのは、職務の一部だろ? 好奇心なしに監察などできるか」
男は眉間にしわを寄せたが、それ以上は突っ込まなかった。
「“制御計画”は進行中だ。次のフェーズで、本格的な“試練”を与える予定だ」
「試練、ね……。どんな内容だ?」
「“データ異常”──一部のログが強制的に消去される。彼の保存スキルそのものが信頼できなくなったと感じさせる構成にする」
「つまり、“自分の力に疑念を抱かせる”」
「そう。それによって精神的揺さぶりを与え、スキルへの依存を減らす。
このまま進行を放置すれば、彼はゲームの枠を超えかねない」
クロトは、紅茶を一口啜った。
「お前はそれで“止められる”と思ってるのか?」
男は言葉を失った。
「……あれは、“保存”じゃない。“認識の上書き”だよ。敵を、世界を、そして……自分自身を作り変えていくスキルだ」
「なら止めなければならない」
「それは君たちの判断だ。俺は、“記録するだけ”だからな」
そう言って、クロトは笑った。
だがその裏にあるのは、単なる観察者の表情ではなかった。
***
その頃、レイはギルドクエストのログ整理をしていた。
《保存ログ:喪失。対象コード:影蛇−β03》
「……保存が、消えてる……?」
明らかに保存に成功したはずの対象が、丸ごとログから消滅していた。
しかも、1件や2件ではない。ここ数日で保存したはずの中型以上の個体が、ことごとく抜け落ちている。
「ウイルスか……? いや、この世界にそんな概念は……」
否。あるとすれば、意図的な“干渉”──
(誰かが、俺の記録に手を加えている)
思考を巡らせるうちに、ふと耳の奥で何かが囁いた。
《──保存は、すべてに優先される……》
それは幻聴か、あるいはスキルが生み出す自律的な意思か。
「また……かよ」
レイは額を押さえながら、ふと自分のログウィンドウの一部に“システムログ”が残っているのを見つけた。
《未認可アクセス:サブプロトコル・AUX-394/通信元:クロト?》
「……やっぱり、あいつか」
確証とは言えないが、直感は告げていた。
仲間の中に、運営と繋がる“スパイ”がいる──
「だとしたら……俺は」
ギルドメンバーの前では、これまで通り振る舞わなければならない。
だがその裏で、レイは静かに自分の“次の一手”を練り始めていた。
「記録が消されるなら、別の保存方法を試すだけだ」
ログに頼らず、記憶と直感、スキル自体の“書き換え”による変則的な保存。
それはある種の“発展形”、つまり──“保存の意思”による支配。
***
同時刻、クロトは運営の指示を受けて再び端末を起動していた。
《レイの挙動異常検出:感情干渉レベル+1/行動分岐パターンβに移行》
《試験対象、フェーズⅢに突入》
「……面白くなってきたな、レイ」
彼は小さく笑った。まるで、“その先”を知っているかのように。
だがその視線の奥には、初めて“揺らぎ”が宿っていた。
もしかしたら──この観察は、制御ではなく、覚醒の序章なのかもしれない。