虚無保存(アビスストック)
視界が、青白い光に包まれた。
浮遊するような感覚とともに、音が消え、意識がゲーム世界に引き込まれていく。
──起動音と共に、視界が開けた。
そこには美しく整備された石畳と、遠くに霞む大聖堂。空をゆっくりと横切る雲、吹き抜ける風、遠くから響く鐘の音──
「……やば……本当に現実じゃん」
高校を卒業したばかりの桐島澪は、息を呑んだ。
何気なく登録したVRMMORPG。
全感覚同期により、あたかも“本物の世界”に入り込んだような体験ができるという触れ込みに、半信半疑だったが──
今、自分の五感はこの世界に支配されていた。
「キャラメイクとか……あ、ユーザーネーム。ええと……」
少し悩んだ末に、澪はこう打ち込んだ。
『レイ』
自分の本名から一部を取っただけの、シンプルな名前。
(うん、これでいいや)
その後、画面が切り替わり、職業選択──と見せかけて、まずは“初期スキルの選択”に移った。
【初期スキルを1つ選んでください】
「さて、何を選ぼうかな」
一覧には、有名どころのスキルがずらりと並んでいた。ファイアボール、ヒール、バフスキルに高速移動、召喚系まである。
「さすが自由度高いな。無難に火力系にしておこうかな……」
そう呟きながら、澪は画面をスクロールしようとした。
──その瞬間、画面が一瞬チカチカとフリーズし、バグのような音が鳴った。
「え?」
表示が乱れ、次の瞬間、選択画面が固定された。
そこには、たった一つのスキルしか残っていなかった。
『虚無保存』
(は? ……バグ?)
スキル名の横には、簡素な説明。
【“何か”を保存する。使用回数:1 クールタイム:24時間】
「何かって何だよ……いや、ていうか、選べねーし!」
画面上の他のスキルはすべてグレーアウトされており、選択不可能。
唯一、光っているこの“虚無保存”だけが、強制的に選択可能となっていた。
「まじかよ……」
仕方なく、澪はスキルを選択した。
その瞬間、画面が静かに切り替わり、“スキルを取得しました”の文字が表示される。
(完全にバグったんじゃ……いや、まだチュートリアルだし、後で変更できたりして)
わずかな希望を抱きながら、澪はキャラクター作成を完了させた。
──そして、次の瞬間、世界が“開いた”。
* * *
ログイン地点は、木漏れ日が差す緑の草原。
見渡す限り広がる大自然。風が肌を撫で、土と草の香りが鼻をくすぐる。
遠くには森と川、その奥にはかすかにダンジョンらしき石造りの建造物が見える。
「うわ、本当にすごいな……この没入感、ヤバい」
澪──いや、ゲーム内名“レイ”としての彼は、目の前に広がる光景に圧倒されながらも、気を取り直してフィールドを歩き出した。
「さて、とりあえず動き回ってみるか……スキルの確認もしたいし」
スライムらしきモンスターがのんびりと跳ねている。
レイは近づいてみたが、初期装備の短剣では攻撃力が低すぎて、倒すまでに苦労した。
「うーん……火力が無さすぎて効率悪すぎる」
何より、問題は“虚無保存”のスキルのほうだった。
(さっきの説明だと、一日一回だけ“何か”を保存できる……試してみるか)
彼は再びスライムに近づき、スキルを発動した。
──シュゥゥンッという低い音と共に、黒い球体が現れ、目の前のスライムが球体の中へ吸い込まれるようにして消えた。
「……え、マジで消えた……?」
レイは目を見張った。スライムは完全に消失し、ログにも“保存完了”のような記録が出ている。
すぐにメニューを開くと、“保存データ:スライム×1”という項目が表示されていた。
(……保存って、ただしまってるだけじゃなくて、データごと吸収してる感じか?)
スライムのステータスが確認できた。HP、攻撃力、属性耐性、弱点までも──まるで図鑑機能付きの記録のようだ。
「これ、……もしかして、とんでもなくヤバいスキルなんじゃ……」
当初は“仕方なく選ばされた”という思いだったが、今になってようやく理解できた。
これは、運営の想定すら超えた、“異質”な力だ。
レイは保存したスライムを“開放”してみた。すると、目の前にスライムが復元され、また元気に跳ね始めた。
(保存と開放を使いこなせれば、戦略の幅が大きく変わる……!)
保存中はダメージも時間も一切加算されない。つまり、時間を止めた状態で“保存”できるということだ。
(ボスの攻撃を保存しておいて、後で別のモンスターにぶつけるとか……いや、敵プレイヤーの動きを封じることも……)
発想が次々と広がる。
他の誰も気づいていない、使い方次第で“神スキル”になる可能性。
それを、たまたま選ばされた──いや、“選ぶしかなかった”自分が持っている。
「いいじゃん……悪くない、いや、むしろ最高かもしれないな……」
一人呟き、レイは青空を見上げた。
風が吹く。仮想の世界とは思えない、現実と地続きの空。
ここでなら、自分の力を試せる気がした。
誰も知らないスキル。誰も使いこなせない力。
無名で、チートもなく、ただ一人で始めたプレイヤーが──
いつか、最強の存在へと成り上がる。
その物語の、最初の一歩が、今、始まった。