一人前の条件
【カイル視点】
どれくらいそうしていただろうか。不意に、顔に冷たいものが当たった。見上げると、鉛色の空から、ポツリ、ポツリと雨が降って来た。
それは、この季節特有の、生ぬるい、まとわりつくような雨だった。
俺は、腕の中で少しずつ冷たくなっていく親父の体を、ただただ強く抱きしめていた。温もりが、消えていく。
やがて雨脚は強くなり、俺の体も、親父の体も、あっという間にずぶ濡れになった。
頬を伝うこの熱い雫が、降りしきる雨のせいなのか、それとも俺自身の涙のせいなのか、もう分からなくなっていた。
その時、背後から泥水を跳ね上げる、バシャリという足音が近づいてくるのが聞こえた。
「……いつまでそうしているつもりだ、カイル。ゼファーを連れて帰るぞ……」
振り返らなくても分かった。シドだ。
その声は、こんな時でさえ、いつもと変わらない、冷静な声だった。
「なんで……! なんでオマエは、そんなに冷静でいられるんだ! 親父が……親父が死んだんだぞ! 分かってんのかぁぁぁぁ、シドォォォォ!」
その冷静さが、俺の中で何かのタガを外した。不意に、腹の底からどうしようもない怒りがこみ上げてきた。
全身の血が沸騰するみてぇに、カッと熱くなる!
「……感傷に浸るのは後にしろ。今は、ゼファーとの別れを済ませ、オーロラ教の作法に則り、火葬の準備をするのが先だ」
シドの、あまりにも淡々とした声が、俺の神経を逆撫でした。
俺は、親父の亡骸をそっと地面に横たえると、ゆっくりと立ち上がり、シドへ向かって一歩、強く踏み出した。
もう、この燃え上がるような怒りは抑えられそうになかった。
「シドォォォォォォォォッ! テメェ、澄ました顔しやがって……! 一発殴らせろやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
俺の突然の剣幕に、シドは一瞬だけ意外そうな表情を浮かべたが、次の瞬間には、何かを覚悟したように、奥歯をぐっと食いしばった。
『バシィッ!』
俺の渾身の右ストレートが、シドの左頬を捉えた、まさにその瞬間。まるで空が裂けたかのように、遠くで激しい雷鳴が轟いた。
殴られたシドは、後ろへ数歩よろめいたが、倒れはしなかった。
「……フッ……。なかなか、いいパンチじゃないか、カイル。まるで、ゼファーだな。……だが、お前も分かっているな? 一発は、一発だ……。今度は、俺の番だ」
シドは、口の端から血を滲ませながら、不敵に笑った。
「おうっ! 望むところだ! 遠慮はいらねぇ、思いっきり来いやぁーーーーっ!」
シドは、細身の体には似合わないほど、右の拳を大きく振りかぶった。
その構えを見て、俺は本能的に悟った。
こいつ、一切手加減するつもりはねぇぞ!
鋭い呼気と共に、シドの右フックが、嵐のような速さで俺の顔面に飛んで来る。
俺は、奥歯をギリギリと食いしばり、雨でぬかるんだ大地を強く踏みしめて、その一撃に備えた。
『ガッ!』
シドの拳は、俺の左頬にめり込むようにクリーンヒットし、俺の体は、まるで木の葉みたいに軽々と、斜め後ろへと吹き飛ばされた。
(ぐっ……! シドの野郎……強ぇ…………)
降りしきる雨音と、遠くで鳴り続ける遠雷の音を聞きながら、俺の意識が急速に遠のいていくのを感じた……
……どれくらいたったのか。次に気がつくと、俺はいつの間にか自分の部屋のベッドの上に寝かされていた。
「いっ……痛っててて……」
殴られた左頬に手をやると、ジンジンとした熱い痛みが走った。どうやら、何か薬が塗り込まれているらしい。
スーッとする清涼感のある、いい匂いの薬だ。
「あっ! シド様! カイル様がお目覚めになられましたわ!」
声のした方を見ると、メイドのユリアちゃんが、小さな薬瓶を手に持って、心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
その大きな瞳は、不安と、それから優しさで潤んでいるように見えた。
部屋の隅のソファーからは、シドが「こっちへ来い」というように、黙って手招きをしていた。
よく見ると、シドの左頬も、俺と同じように薬が塗られていて、少しだけ赤く腫れている。俺の一撃も、まんざらじゃなかったってことか。
いつの間にか、俺は血と泥で汚れた軍服から、清潔なパジャマに着替えさせられていた。ユリアがやってくれたんだろうか。
俺は、ベッドサイドに置かれていたサンダルを履くと、まだ少しふらつく足取りで、シドが座るソファーの向かい側へと腰を下ろした。
「……フッ、なかなかいいパンチだったぞ、カイル。……今日から、オマエのことを、一人前と認めてやる」
シドは、相変わらずの無表情のままだ。
(あれっ? なんだか、シドの奴、ほんのちょっとだけ照れてるみてぇだな……。そういえば、昔、親父が言ってたっけか。『シドの本当の気持ちが分かるようになったら、カイルも一人前だ』って……)
「それで、シドさん。……親父は、もう……火葬したのか?」
俺は、声を震わせながら尋ねた。
「……ああ、シドでいい。皆で別れを告げ、雨が上がったあと、天へと送った……」
ここオーロラハイドで信仰されているオーロラ教では、亡くなった人が、なるべく早く天国へとたどり着けるように、すぐ火葬にするのが習わしだ。
「……そっか……。じゃあ、今夜の宴は……やるのか?」
「ああ、もちろんだ。みんな『輝きのゴブリン亭』でお前が来るのを待っている。お前も来い、カイル。ゼファーを盛大に送り出してやろう」
シドが静かに立ち上がったので、俺も頷いて立ち上がった。
ユリアに手伝ってもらいながら、急いで夏用の白い麻のシャツと、動きやすい紺色のズボンに着替えた。
「カイル様、シド様、いってらっしゃいませ……」
俺たちが部屋を出ようとすると、ユリアが、健気に微笑んで、小さく手を振って見送ってくれた。
「ああ、そうだ、ユリア。よかったら、君も一緒においで」
「えっ!? わ、わたくしも、ご一緒してよろしいのですか? 親しい方々だけの、お集まりのはずでは……」
ユリアが、恐縮したようにもじもじしている。
オーロラ教の死後の宴……
きっと今頃、天国では、親父が昔のダチとかと集まって、バカ騒ぎしながら大宴会を開いてるはずだ。だから、地上に残った俺たちも、親父に負けないくらい、楽しく飲んで食って、親父を天国へ送り出してやろう……
今日の宴は、そういう趣旨の宴だ。
だから、基本的には、本当に親しい間柄のヤツしか呼ばれない。
「ユリア、いいんだよ。……それから、もし……もし、……よかったらでいいんだが、俺の部屋へ来てくれないか? 本当にいつでもいい……」
親父の最後の言葉が、頭の中でこだまする。
「えっ……!? カ、カイル様……! もしかして、それって……あの……その……!」
ユリアの顔が、さっきよりもっと、リンゴみたいに真っ赤になった。
頭からは、今にも湯気が出そうだ。まるで沸騰したヤカンみたいだ。
「……ああ……君を……抱きたい……」
ユリアの目を真っ直ぐ見る。これが、今の俺にできる、精一杯の誠意だった。
そんなこんなで、しんみりした気分と、なんだかよく分からないドキドキした気分が入り混じったまま、俺たち三人が城の外へ出る……
さっきまでの雨が嘘のように、空は綺麗に晴れ渡っている。
まるで俺たちを見守ってくれているかのような、満天の星空が広がっていた。
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