宰相バートルの目
【宰相バートル35歳視点】
私ことバートルは、不肖の身ではございますが、このリベルタス公国の宰相という重責を担っております。今年で三十五歳。まだまだ若輩者と自覚しております。
現在の我が主君は、カイル様。先の『輝きのゴブリン亭の密約』により、ゼファー様より公王の座を内々に引き継がれました。
もちろん、以前の主君であられたゼファー様にも、最大限の敬意を抱いておりました。あの大胆で細かいことにはこだわらない統治と、比類なき武勇は、まことに見事です。
(私は、父と母を失って以来、何者にも屈せぬ強さを求めると心に誓いました。圧倒的な武力とカリスマで国を導くゼファー様は、まさに私の憧れそのものでした。そして、あの怜悧な頭脳を持つシド殿は、今でも知的ライバルだと認識しております)
そのゼファー様とシド殿が熟考の末、カイル様を次期公王としてお選びになったのです。私に異論などあろうはずもございません。
カイル様の才は、やはり父君であるゼファー様に似て、軍事的な分野に特に秀でておられるご様子。戦場での閃きや、兵を率いるカリスマは、若くして非凡なものをお持ちです。
逆に、弟君であられるレオン様は、どちらかと言えば内政や学問に向いた、頭脳労働を得意とされるタイプに見えます。
いえ、戦略や戦術を練るという意味では、カイル様も決して頭脳が劣っているわけではございません。むしろ、常人には思いもよらぬ奇策を案じられることもあります。
ですが、地道な書類仕事や、煩雑な法務・財務といった分野の才覚を見る限りでは、やはりレオン様の方が一枚上手であると思います。
もっとも、山と積まれた決裁書類を見ただけで、蜘蛛の子を散らすように逃げ出しておられた父王ゼファー様と比べれば、カイル様もレオン様も、どちらも優秀でいらっしゃいます。やれやれ。
「エドワード陛下、どうぞ。こちらのワインをもう少しいかがですか?」
「おお、これは気が利きますな、宰相殿。かたじけない」
私はフェリカ国王のエドワード様を、会議室で丁重にもてなしていた。
もちろん、カイル様がゼファー様へのご相談を終えて戻られるまでの、時間稼ぎである。
私は、同席していたヒューゴ軍務大臣に声をかけた。
「ヒューゴ殿、申し訳ないが、何か陛下にお出しする酒の肴を用意していただきたい。軍務大臣殿にお願いするような用事ではないのだが……」
「はっはっは! 何を水臭いことを仰いますか、バートル殿! そのようなこと、このヒューゴにお任せあれ! とびきり美味いものを用意させましょうぞ! 少々お待ちを!」
ヒューゴ殿は、豪快に笑いながら部屋を出て行った。
しばし、広々とした会議室には、私とエドワード陛下だけが残された。テーブルの上には、飲みかけのワイングラスと、同盟延長の誓約書が置かれている。
「……宰相殿。名は、確かバートルと申されたな……」
「はい。バートル・フォン・クライスと申します、エドワード陛下」
エドワード陛下は、空いていたグラスを取ると、こともあろうに、私に差し出された。
そして、テーブルの上のワインボトルを手に取り、自ら私のグラスにワインを注ぎ始めたのだ。
「バートル殿。まあ、そう固くならずに、貴殿も一杯飲まれるがよかろう。……そして、実は、貴殿に一つ、頼みがあるのだ……」
エドワード陛下は、声を潜め、こっそりと耳打ちするような仕草で話された。
よほど誰にも聞かれたくないような、密談なのであろうか?
次の瞬間、陛下は、いきなり私の両肩をがっしと掴むと、まるで赤子をあやすかのように、前後にグイグイと揺さぶり始めた!
「カイルきゅんを……! カイルきゅんを、どうか、どうか! 宰相殿からも、よおおおく力添えしてやってくだされぇぇぇ~!」
「へ、陛下!? 突然おじいちゃんらしくなりましたねっ!」
いけない! あまりのことに、思わず素でツッコミを入れてしまった!
(まずい! 目上の方、しかも、他国の王に対して、あまりにも馴れ馴れしい物言いだったか!?)
「も、申し訳ございませんっ! エドワード陛下! あまりにも突然のことでございましたので、わ、私としたことが、つい、大変失礼な物言いを!」
私は慌てて、その場で深々と頭を下げた。冷や汗が背中を伝う。
(くっ、このバートルとしたことが、一生の不覚! 何たる失言か!)
「はっはっは! いやいや、良い、良い。気にするでないぞ、バートル殿。ここには、ワシとお主しかおらんのだからのう。それに、カイルくんを幼い頃から公王たるべく鍛え上げたと、ゼファー殿から聞いている。その手腕、実に見事なものよ。よくぞ、あのような立派な若者に育ててくれた」
陛下は、そう言うと、私の両手を、まるで長年の友に対するかのように、優しく握られた。
その手は、老いてなお力強く、そして温かかった。
『パタン』
と静かに会議室のドアが開く。
「エドワード陛下! バートル殿! お待たせいたしましたぞ! とびきりの酒の肴をお持ちしました! 甘いものから塩辛いものまで、よりどりみどり取り揃えておりますぞ! ささ、お好みでどうぞ!」
ヒューゴ殿が、大きなワゴンを押しながら、満面の笑みで入ってきた。
彼は、さっそくテーブルの上に、次々と美味そうなつまみを並べ始めた。
ワゴンから現れたのは、まさに王をもてなすにふさわしい、珠玉の品々であった。
・各種チーズの盛り合わせ
エレガントな装飾が施されたプレートに、熟成チェダー、ブリー、ブルーチーズなどが並ぶ。
・生ハムとフルーツ
薄切りの生ハムと、イチジクやメロンを組み合わせた一口サイズの品。甘みと塩味のバランスが楽しめる。
・漬物
ピクルスやローストパプリカなど、ハーブとオリーブオイルで味付けされた爽やかな漬物類。
・ナッツ類
アーモンドやクルミ、ピスタチオなどをハーブと軽くローストし、少しの蜂蜜やスパイスで仕上げたおつまみ。香ばしさと甘みが魅力。
・ミニサラミとクラッカー
薄切りのサラミを小さなクラッカーとともに。肉の旨味とサクサクのクラッカーがワインとのペアリングに最適。
・スモークサーモンのカナッペ
スモークサーモンを小さなパンやクラッカーにのせ、クリームチーズをアクセントにしたもの。海の香りが感じられる一品。
エドワード陛下も、ヒューゴ殿も、そして私も、それぞれ好みのつまみに手を伸ばし、ワインと共に味わい始めた。
「ほう、このスモークサーモンは、実に美味ですな。なにせ、我が王都ヴェリシアは、海からはちと遠いものでな。これは、オーロラハイドならではの品ですな」
エドワード陛下は、スモークサーモンのカナッペをことのほか気に入られたご様子だ。
我々しかいないこの場では、堅苦しいマナーは抜きにして、心から寛いでおられるようだ。
「おお、左様でございますか? いやはや、吾輩は、こちらの生ハムと甘いメロンの組み合わせが、たまりませぬな! 酒が進みますぞ!」
ヒューゴ殿は、遠慮というものを知らないのか、大きな口でバクバクとつまみを頬張っている。
この方は、元々細かいマナーなどを気にするような御仁ではない。それがまた、この方の魅力でもあるのだが。
「どれも素晴らしいお味ですが、強いて申しますれば、私はこの熟成されたサラミの風味が好みですな。ワインによく合います」
実を言うと、私は大食漢だ。どれほど食べても、毎日の剣の鍛錬ですぐに腹が減ってしまう。
お二人が遠慮なく召し上がっているので、私も遠慮は無用と判断し、次々と皿に手を伸ばすことにした。
(ふむ、私もヒューゴ殿のことをとやかく言える立場ではなかったな。これならば、いくらでも腹に収まりそうだ!)
三人で、どのつまみが一番美味いか、などと和やかに談笑していると、廊下を慌ただしく駆ける音が近づいてくる。
足音は、どうやら二人分のようだ。
「もう、まってくださいまし~、カイル様~」
(この特徴的な甘えた声は……アウローラ殿か? ということは、カイル様もご一緒にお戻りになられたのか?)
「カイルです。失礼します」
ガチャリと重いドアが開き、カイル様がアウローラ殿を伴って入室された。
カイル様は先ほどまでの子供っぽさが抜け、どこか吹っ切れたような真剣な面持ちをされていた。
「おお~、カイルたんではないか~! 首を長~~くして、待っておったぞよ~! それで、どうじゃ? このおじいちゃんの頼みを聞いて、フェリカの王になってくれる気になったかな~?」
(いかん、エドワード陛下には少々ワインを飲ませすぎたか……?)
もともとカイル様のことを大変気に入っておられる上に、かなり酒も回っておられるご様子。
これは、いつものように、そう簡単には止められそうにない。
しかも、どうやら少々、からみ酒の気配すら漂っているな……
私が冷静に状況を分析していると、カイル様が、エドワード陛下の前に進み出て、深く頭を下げられた。
「エドワード陛下! そして、バートル殿、ヒューゴ殿! 俺は……俺は、ただの王ではなく、皇帝になりたいと思います! どうか、このカイルを、リベルタスとフェリカ、両国を束ねる皇帝として、ご承認願えませんでしょうか!」
カイル様の張りのある声は、決意に満ちていた。その瞳は、真っ直ぐにエドワード陛下を見据えている。
エドワード王が、持っていたワイングラスを落とさんばかりの勢いで、急に立ち上がられた。
そのお姿は、実に絵になっているのだが、いかんせん、もう片方の手にはスモークサーモンのカナッペを握ったままであったので、どこかコミカルな印象は否めない。
「……な、なるほど……『皇帝』、とな……! そうか、カイルくんが、諸王の上に立つ『皇帝』となれば、我が愚息ヘンリーが名目上フェリカの王位に留まったとしても、両国を治めることができる……そういうことか……!」
エドワード王は、カイル様の前に進み出ると、その両肩を力強く掴んだ。
ポンポン、と優しく、しかし、そこには確かな期待と力強さが込められた叩き方であった。
「見事! 見事であるぞ、カイルきゅん! その発想、まさに天啓じゃ! よかろう! このフェリカ国王エドワード・アウグストゥス・フェリカは、一個人の祖父としてではなく、フェリカ王国を代表する王として、カイルくんを初代リベルタス帝国の皇帝として、ここに正式に承認する! おお、これで、オーロラハイドの祭りも、心置きなく楽しむことができるというものよ! これは愉快、実に愉快じゃ! はっはっはっは!」
またしても、エドワード王の、今度は心からの歓喜に満ちた笑い声が、会議室に高らかに響き渡った。
それは、先刻のような、どこか芝居がかった哄笑ではなく、重荷を下ろしたかのような、実に晴れやかで爽快な声であった。
その傍らで、ヒューゴ殿が「歴史的瞬間! またしても歴史的瞬間ですぞ!」と叫びながら、再び猛烈な勢いで議事録に何かを書き殴っている音が、カチャカチャと重なっていた。やれやれ、である。
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