奴隷たち
【カイル視点】
翌朝……
鳥のさえずりよりも早く、俺と親父は目を覚ました。いつも通り、日の出と共に朝稽古をするのが習慣になっているからだ。だが、今日の塩の村はいつもより騒がしい。
「なんだ? 外がやけにやかましいな」
親父が寝床から身を起こしながら、眉をひそめた。
「そうだな、親父。何かあったのかもしれない」
俺たちの泊まっている別荘の壁越しにまで、複数の男たちの怒鳴り声や、誰かを制止するような声が聞こえていた。
「……は……放せ……絶対に逃げてやる!」
「……考え直せって! お前のためを思って言ってるんだぞ!」
「……おい、みんな来い! こいつを押さえつけてくれ!」
なにやら男たちが揉めているような荒々しい声が、だんだんと大きくなってくる。俺と親父は顔を見合わせると、黙って頷き、窓からそっと外の様子を窺った。
「なんだ? あれは……もしかして、奴隷たちが騒いでいるのか?」
親父が低い声で呟く。窓の外、村の広場らしき場所で、数人の男たちが一人の男を取り押さえているのが見えた。
「オヤジ、行ってみようぜ!」
俺と親父は、念のため腰に愛用の剣を下げると、騒ぎのする方へと向かった。
広場に着くと、予想通りの光景が広がっていた。
「このバカ野郎! 逃げてどうするつもりだ!」
「そうだ、そうだ! 恩を仇で返す気か!」
数人の奴隷の男たちが、地面に押さえつけられた別の奴隷の男を囲んでいた。押さえつけられている男は、必死にもがいている。
「くっ、は、放せ! 俺は自由になるんだ!」
どうやら、この男が逃げようとして、他の奴隷たちに取り押さえられたらしい。
「おい、新入り! お前、逃げたところで行く場所なんてあるのか?」
「そうだぞ。ここなら、仕事もあって腹一杯食い物も食えるし、夜は暖かい寝床だってあるんだぞ」
「また、山に戻って、盗賊にでもなるつもりか?」
「ったくよォ、何が自由だ、飯も食えねぇ山奥でくたばりてぇのかァ?」
周りの奴隷たちは、逃げようとした男を諭すように、口々に説得しているようだ。その言葉には、怒りよりも心配の色が濃く滲んでいた。
その時、誰かが俺たちの存在に気づいた。
「あっ、ゼファー様が来てくださったぞ!」
「本当だ! カイル様もご一緒だ!」
その声を聞き、広場にいた奴隷たちが一斉にこちらを向いた。そして、次の瞬間には、皆が親父に向かって恭しく跪いていた。中には、両膝をついて深く頭を垂れている者もいる。
「へへーっ!」
「なんだ? 騒がしいと思ったら……逃げようとしたヤツがいたのか?」
親父は、いつものような軽口は叩かず、少し神妙な声で尋ねた。
「へい、その通りでさぁ、ゼファー様」
「こいつ、まだ新入りでしてね。ここの暮らしの良さが、まだ分からねぇんでさぁ」
「へい、ここは毎日働いていれば、まるで天国だってのに」
「まったくですぜ。塩の村は、俺たちみてぇな者にとっちゃ、本当に良いところです!」
奴隷たちが、口々に意見を述べ始めた。その言葉からは、今の生活に対する満足感が伝わってくる。
俺は黙って、事の成り行きを見守る。親父は、この状況をどう収めるつもりだろうか? 宰相のバートルさんは、いつも親父のことを高く評価している。
(俺から見れば、親父はただの親父なんだがなぁ……)
親父は、剣の腕はそこそこ立つと思う。ただし書類仕事は苦手で、ほとんどをバートルさんに任せている。今日のこの一件で、親父の本当の力と英知とやらを見ることができるかもしれない。
俺はゴクリと喉を鳴らし、親父の言葉を待った。
「まあ、なんだ、酒でも飲みながらゆっくり話そうじゃねぇか。おーい、誰か悪いけど、酒蔵の鍵を開けてきてくれ!」
「おっ、親父! まだ朝だぞ? いくらなんでも早すぎるって!」
思わず、親父に大きな声でツッコんでしまった。
しかし、親父のその一言で、広場の空気は一変した。
「おおっ! ゼファー様のお許しが出たぞ! 酒だ、酒持ってこ~い!」
「わかった~! おい、お前ら、手伝え! 酒樽を運ぶぞ!」
「さすがゼファー様は話が分かるわい!」
「そうだのう! こうでなくっちゃ!」
奴隷たちは、さっきまでの険悪な雰囲気が嘘のように、生き生きとした表情で動き始めた。十分もすると、広場には即席の宴会場が出来上がり、酒盛りが始まっていた。
塩を作る作業は重労働のため、奴隷たちは交代制で働いている。今日は非番だった奴隷たちは、皆こぞって宴に参加し、楽しそうに酒を酌み交わしている。今、塩田で働いている奴隷たちも、仕事が終われば後から合流するのだろう。
誰かがどこからか火鉢を持ってきた。別の誰かが、干物置き場から大きなホッケを数匹持ってきて、火鉢の上で焼き始める。じきに、香ばしい魚の焼ける匂いが広場に漂い始めた。少し焦げているようだが、ホッケは皮が厚いから問題ないはずだ。
「おい、カイルもこっちへ来て座れよ。一緒に飲もう」
あまりの急展開に、俺はただ黙って成り行きを見ていたが、親父に声をかけられ、おずおずと輪に加わった。
「だから、まだ朝だってば!」
「へへっ、いいじゃねえか、カイル。今日は特別だ。……そうだ、さっき逃げようとしていたヤツ! お前もこっちへ来て飲め」
親父は、先ほど取り押さえられていた奴隷の男に、なみなみと酒を注いだ杯を手渡した。男はまだ少し怯えたような表情をしていたが、震える手で杯を受け取り、恐る恐る一口飲んだ。
「……うまい……」
ぽつりと、男の口から言葉が漏れた。
「だろ? 遠慮しないで、もっと飲めよ」
親父はにっこりと笑いかける。いつの間にか、広場にいた奴隷たちは皆、車座になって地面に座り込んでいた。親父が言うには、これは西方の交易都市メルヴの風習なのだそうだ。俺も親父の隣にちょこんと胡坐をかいて座った。
「カイルは学校を卒業したからな。もう大人だ。少しぐらいなら飲んでもいいだろう。だが、みんなにはナイショだぞ? 特に、ママたちには絶対に言うなよ!」
「お、おう、分かったよ親父」
親父に勧められるまま、俺も初めてワインを口にした。少し酸っぱくて、大人の味だった。
結局、逃亡しようとした奴隷の件は、いつの間にかうやむやになってしまった。皆で火を囲み、肩を組み、酒を飲み交わす……誰かが陽気な歌を歌い出し、それに合わせて手拍子が起こる。中には、楽しそうに踊り出すヤツもいた。
(なんか……めちゃくちゃだけど、楽しいな)
俺と親父は、結局その日も塩の村にもう一泊することになった。飲んでみて初めて気づいたが、なんか酒っていい。
何となくではあるが、親父のことを尊敬した。うまく説明できない。理屈じゃない。
別荘の寝台で大きなイビキをかいて眠る親父の顔を見ていると、俺もいつの間にか眠りについていた。
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