リリーの子
【ゼファー視点】
「メエエエエ~ェ!」
耳元に届いた羊の鳴き声に、意識が現実へと引き戻される。まぶたが重く、開けるのに苦労する。ぼんやりとした視界が次第に明瞭になり、揺れる馬車の中にいることを思い出した。
(そうか、まだ旅の途中か……)
頭の下に柔らかな感触。リリーの膝だ。彼女の赤い髪が垂れ下がり、風に揺れていた。もう少し眠っていたい衝動に駆られるが、再び「メエエエ」という鳴き声が耳を打つ。
好奇心に負け、ゆっくりと上体を起こす。リリーはまだ眠っているのか、微かな寝息を立てている。その表情は子供のように無防備で、普段の強さを感じさせない。
馬車の窓から外を覗くと、目を見張る光景が広がっていた。
驚くほど羊の群れ。数えきれないほどの羊たちが、草原を埋め尽くしている。
(数百頭はいるのか?)
よく見れば、羊たちの間を白と黒のまだらな模様の犬たちが忙しなく走り回っている。彼らは群れを誘導し、はぐれそうになった羊を巧みに本隊へ戻していく。
オーロラハイドの騎兵隊は馬車に随行しながら、警戒の目を光らせている。彼らの鎧は銀色に輝き、馬上での姿勢は堂々としていた。
「我が王! お目覚めになられましたか!」
俺の顔を見つけた若い騎兵が馬を近づけてくる。金髪の髪が風になびき、青い目が遠慮がちに輝いている。西への探検でお腹を壊した若い兵士だ。名前はたしか……
「おお、ロイド。この羊たちは何なんだ?」
彼は敬意を込めて一礼すると、首を横に振った。
「分かりかねます、陛下。しかし、害はないようです。誰かが飼っているのでしょうか?」
牧羊犬がいるということは、野生の羊ではなさそうだ。
「なるほど、俺はもう少し休むとしよう。オーロラハイドに着いたら起こしてくれ」
「承知いたしました、陛下! どうぞごゆっくりお休み下さい!」
彼は敬礼すると、馬をくるりと回して仲間たちのほうへ戻っていった。
馬車の窓から見える羊たちの群れを、もう一度眺める。……風の平原で出会った、羊を連れた青年を思い出す。
(まさか……あの青年と関係があるのか?)
考えているうちに、また眠気が襲ってきた。ゆっくりとリリーの膝に頭を戻し、心地よい揺れに身を委ねる。次に目が覚めるときは、故郷の地であってほしい。
「ゼファー起きて、オーロラハイドについたよ!」
リリーの優しい声と肩を揺する感触で、再び目を覚ました。窓の外を見れば、見慣れた街並みが広がっている。石造りの建物と木造の建物が入り混じった、発展途上の街だ。
眠気でぼんやりしている間も馬車は進み、やがて領主の館の前で止まった。
入口のドアの前には、シルクが立っていた。彼女の金色の髪が風に揺られ、青いドレスが優雅に揺れる。表情は安堵と喜びが混ざり合っていた。
「あなた、お帰りなさいませ!」
俺が馬車から降りると、彼女は小走りに近づき、腕に飛び込んできた。その体は温かく、薄い香水の匂いが心を落ち着かせる。
「ただいま、シルク。留守の間、すまなかった」
彼女を抱きしめながら、穏やかな口調で告げる。久しぶりの我が家の空気に、緊張が解けていくのを感じた。
館の中へ足を踏み入れると、懐かしい空間が広がっていた。落ち着いた色合いの壁、木の温もりを感じる家具、窓から差し込む柔らかな光。すべてが記憶通りで、安心感を覚える。
「お風呂の準備は整っております。さぞかしお疲れでしょう」
シルクの言葉に頷き、まずは身を清めることにした。湯気の立ち上る浴室で、旅の垢を落とし、心身共にリフレッシュする。温かい湯に浸かりながら、権能を失った体の変化を感じ取っていた。
何かを失ったような、奇妙な喪失感がある。少し空腹の感覚にだが、家族の待つ館に戻れた安堵が、その感覚を和らげてくれる。
着替えを済ませ、髪も整え、居間へと向かった。
そこでは、女神官アウローラが赤ん坊のカイルをあやしていた。彼女の白い司祭服は清楚で、小さなティアラのような飾りが頭に輝いている。カイルはベビーベッドの中で、好奇心に満ちた目で周囲を見回していた。
「ヴェリシアであったことは明日、会議室でゆっくり話そう。今日は家族と過ごしたい」
そう言いながら、カイルに近づく。生まれたばかりの息子の顔を見るのは、いつも新鮮な感動をもたらす。金色の権能を持つ、未来を担う子。
「そうね、あなた。今宵は家族水入らずで」
シルクは優しく微笑みながら、テーブルに夕食の準備を整えていた。
「あ~あ、お二人さんはアツいですね~」
アウローラが皮肉めいた口調だ。彼女は部屋の隅を見ながら、口を『への字』に曲げている。
「なんだ、アウローラ、まだ男見つけてないのか?」
冗談めかして尋ねると、彼女は鼻を鳴らした。
「いいんでちゅよ~、わたしには、カイルちゃまがいますからね~」
彼女はカイルに赤ちゃん言葉で話しかける。不思議なことに、カイルは嬉しそうにキャッキャと笑い声を上げた。まるで会話を理解しているかのようだ。
「何々? なんの話してるの~?」
リリーが風呂から上がってきたのだろう。髪にブラシをかけながら部屋に入ってきた。彼女の赤い髪は濡れてさらに濃い色になり、健康的な頬には生気が満ちている。
アウローラがリリーをじっと見つめる。やがてアウローラは両手をパンと叩く。
「あら、リリーさん、おめでとうございます。お体、大事にしてくださいね」
突然のアウローラの言葉に、会話が途切れた。彼女はリリーのお腹のあたりを、意味ありげにじっくり見つめている。
「えっ、アウローラさん、それってどういう事?」
リリーは困惑した表情で、自分のお腹に手を当てる。
「あら、ご自分でお気づきでないのですね。ご懐妊おめでとうございます!」
部屋に一瞬の静寂が走った。
「え? そんな事が分かるのか?」
思わず詰め寄るように尋ねると、アウローラは自信たっぷりに頷いた。
「え、ええ、女神官の特技ですのよ。命の光が宿るのを、感じ取ることができるのです」
シルクが一番に駆け寄り、リリーの両手を取った。
「おめでとう! リリーちゃん、ようやくできたのね!」
その瞳には純粋な喜びが宿り、同じ母としての共感が光っている。
リリーは驚きと喜びで言葉を失い、頬を赤らめたまま呆然としていた。やがて彼女の目に涙が滲む。俺に向けられた視線には深い愛情が込められていが……
「そっかー、それじゃもうお酒飲めなくなっちゃうな~」
「酒の心配かよっ!」
俺がリリーの軽口に突っ込むと、彼女は頭をかきながら「てへっ」と笑う。一同も「ハハハッ」とつられて笑った。
シルクが最近雇ったというお手伝いさんたちが、料理を並べた。
焼きたてのパンは小麦の香りが立ち上り、口に入れると外はカリッと中はもっちりとした食感。野菜のスープは、優しい甘みが広がる。白身魚の焼き物は皮がパリパリで身はふっくらと。ゴブリン風の漬物はスパイスが効いており、食欲を刺激する。
(こういう質素な食事でいいんだよ……)
それはヴェリシアの王宮で食べた、どの料理よりも美味しかった。
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