雪空の報せ
第4話 雪空の報せ
【ゼファー視点】
酒場の喧騒の中、ヒューゴの声が、やけに大きく響いた。
「しかし、あの時は本当に死ぬかと思ったな」
ジョッキを片手に上機嫌なヒューゴは、赤ら顔で昔話を始めた。
「ゴブリンどもの物量作戦は、あれこそ正に悪夢だった。どこを見ても緑、緑、緑! 剣を振るっても振るっても、キリがないんだからな」
向かいに座るシドは、手にしたグラスを回しながら、冷静に相槌を打つ。
「……ゴブリンにしては、珍しい戦法だった。普通のゴブリンは奇襲戦術を得意とするはずだ」
「ああ、全くもって同感だ」
シドの言葉に、ヒューゴは大きく頷いた。
「まるで何かに駆り立てられているようだった。後で聞いた話だが、確か……ゴブリンキングとかいうのが、陣頭指揮を執っていたとか」
「……ゴブリンキング、か……」
補給屋上がりの商人であるシドは、興味深そうに眉をひそめる。
隣に座るリリーは、静かに二人の会話に耳を傾けていた。元女騎士は、酒は嗜むものの、口数は少ない。それが彼女の流儀らしい。
俺、ゼファーは、ヒューゴの武勇伝にも似た昔話に、正直少し飽き始めていた。あくびを噛み殺しながら、ぬるくなったビールを煽る。
「まあ、終わったことだ。それにしても、あの戦争がなければ、俺たちはこうして酒を酌み交わすこともなかったかもしれないな」
俺は、話を切り上げるように口を挟んだ。ヒューゴとシドと、そしてリリーと。この奇妙な縁が生まれたのは、確かにあのゴブリンとの戦争がきっかけだった。
「そういえば、ゼファーはあの時、コモロ男爵の本陣で、ぼーっと突っ立ってただけだったな?」
ヒューゴが、ニヤニヤしながらからかうように俺を見た。周りにいた衛兵たちも、つられて笑い声を上げる。まったく、酔っ払いは困る。
「一応、見張り役だったんだがな。敵が来る気配もなかったし、暇だったんだよ」
俺は、肩をすくめて応じた。実際、あの時の俺は、緊張感の欠片もなく、ただ時間を持て余していただけだった。まさか、あんなことになるなんて、想像もしていなかった。
「……フッ、暇を持て余していたゼファーが、まさか男爵を救出するとはな。誰も思わなかっただろう!」
シドが、珍しくこらえきれずに吹き出した。リリーも、わずかに口元を緩めている。
「笑い事じゃないぞ、シド。あれがなければ、今の俺たちはどうなってたか……」
あの時、俺は本当にあくびをしながら、男爵の本陣の見張りをしていた。粉雪がちらつく寒い日で、身体を動かすのも億劫だった。
遠くの雪原に目を凝らしていると、何かが倒れるのが見えた。最初は、鹿か何かだろうと思った。しかし、よく見ると、それは人だった。しかも、見覚えのあるシルエットだった。
「……まさか、男爵様!?」
俺は驚いて飛び出した。近くにいたヒューゴも、只事ではない様子に気づき、俺に続いて走り出す。
雪原を駆け抜け、倒れている人物に近づくと、それは間違いなくコモロ男爵だった。普段は威厳に満ちた男爵の顔は、泥と血に汚れ、苦痛に歪んでいる。鎧も肩や脚の部分に損傷が見られた。
「男爵様! 一体何が……!」
俺は、男爵を抱き起こしながら声をかけた。
男爵はかろうじて目を開けると、かすれた声で途切れ途切れに言った。
「……ゴブリン……キング……やられた……逃げて……きた……」
(ゴブリンキング? あの物量だけのゴブリン軍を率いているのが、まさか王族だとでもいうのか?)
信じられない話だったが、男爵の様子は尋常ではなかった。
「ヒューゴ! 早く男爵様を!」
俺はヒューゴに叫び、二人で男爵を本陣まで運び込んだ。
幸い、軍にいた頃のシドは、医術の心得も多少はあった。手際の良い応急処置のおかげで、男爵は一命を取り留めた。
後日、男爵はエドワード王に頼み込み、俺たちの功績を大いに称え、褒美を与えてくれた。俺は名もない村の領主という、名ばかりの地位を。ヒューゴは衛兵隊長という、街の守りの要となる地位を。シドは街の土地を、それぞれ手に入れた。
「あの時、俺たちが男爵様を見捨てていたら、どうなっていただろうな」
ヒューゴは、しみじみと呟いた。
(あの時、俺があくびをしていなかったら。あの時、俺が男爵を見過ごしていたら。今の俺たちは、一体どんな人生を送っていたのだろうか)
過去を振り返り、感慨に耽っていると、酒場の扉が勢いよく開かれた。冷たい外気が一気に流れ込み、店内の喧騒が一瞬にして静まり返る。
扉の前に立っていたのは、見慣れた衛兵だったが、その表情は尋常ではなかった。顔面蒼白で息を切らし、目は血走っている。
「ほっ、報告しますっ!」
衛兵は、かすれた声で叫んだ。
「たっ、大変です! 街の外に……ゴブリン軍が現れました!」
衛兵の言葉に、酒場の空気が一変した。
「な、なんだって!」
ヒューゴが、衛兵隊に門を閉めるよう指示を飛ばしている。
俺も、まさかの事態に息を呑んだ。
(ゴブリン軍が、街に現れただと? 一体、何のために? まさか、あの悪夢が再び繰り返されるというのか?)
不安と緊張が、俺たちの胸を締め付けた。
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