雪空の報せ
『街の酒場 夜』
酒場の空気は熱く湿っていた。天井から吊るされた鉄製のランプが揺れ、壁には無数の影が踊っている。木の床は何年もの酒と足音で染み込み、独特の匂いを放っていた。窓の外では粉雪が舞い、ときおり風に乗って窓ガラスを叩く音が聞こえる。
「ゼファー、覚えてるか? あの緑の絨毯……ゴブリンの物量戦だ! 斬っても刺しても前が詰まる。見渡す限り "緑・緑・緑" だったろう?」
ジョッキを掲げたヒューゴの声が、酒場のざわめきを突き抜けた。彼の太い腕には、過去の戦いで受けた無数の傷痕が刻まれている。口髭の下から覗く歯が白く輝き、赤ら顔をさらに赤くしている。
「……普通のゴブリンは奇襲ばかりだ。あれだけ正面で押してくるのは異常だったな」
向かいの席で、黒髪オールバックのシドがグラスを転がしながら言葉を返す。彼の細い指は、常に何かを計算しているかのように少しずつグラスを回転させていた。シドは普段ほとんど表情を変えないが、この手の動きだけが彼の内面を覗かせる窓だった。
「ああ。後で聞いたが、背後にゴブリンキングって怪物がいたらしい」
俺は眉をひそめて答える。記憶の断片がよみがえり、あの日の恐怖と混乱が脳裏を駆け巡る。緑の波が押し寄せ、鉄と肉の匂いが鼻を突き、耳をつんざく金属音と悲鳴。あれから何年経っても、あの光景だけは鮮明に覚えている。
隣のリリー『鎖の外れた元女騎士』は黙って耳を傾ける。
彼女は酒を舐める程度、言葉は少ない。流儀らしい。赤い髪が酒場の薄暗い灯りを受けて燃えるように見える。その黄金の瞳は遠くを見つめ、時折うっすらと眉を寄せる。彼女は今、語られる過去の戦いを自分の経験と重ね合わせているのかもしれない。
俺はというと、同じ昔話に若干うんざり。
ぬるいエールであくびを噛み殺した。このくたびれた酒場で、何度目になるだろう、同じ戦の話を聞くのは。だが戦友たちにとって、これは単なる武勇伝ではなく、生き残った者の義務のようなものなのだろう。忘れないために語り継ぐ、戦場に散った仲間たちへの鎮魂歌。
*
「終わったから笑えるが、あの戦がなけりゃ俺たち三人、こうして呑んでないぞ」
俺はジョッキを掲げながら強調する。琥珀色の液体が揺れ、泡がはじける。この安酒が命の重さに比べれば、何と軽いものか。それでも今、この瞬間を生きている喜びを噛みしめずにはいられない。
「そういやゼファー、お前は"本陣の見張り"で棒立ちだったよな?」
ヒューゴが豪快に笑う。シドまでが苦笑していた。周りの衛兵たちはゲラゲラ。その笑い声が酒場中に広がり、一時的に他の会話を飲み込んでしまう。
「敵影ゼロで暇だったんだよ」
肩をすくめる。……本当、あの日は気が抜けてた。当時の自分が情けなく思えるが、それが結果的に運命を変えた。人生とは皮肉なものだ。
テーブルに置かれた塩の小皿に目をやる。今や自分の生活を支える塩が、こうして何気なく使われている。あの戦いがなければ、今の自分もなかった。塩を炊く日々も、リリーとの出会いも、すべては繋がっている。
◆ 回想 ◆
粉雪が舞う昼下がり。空は灰色の雲に覆われ、視界は霞んでいた。
目を凝らした雪原に、人影が崩れるのが見えた。鹿かと思ったが……鎧の煌めき。
コモロ男爵だ。
血の跡が雪面に点々と続いている。男爵の鎧は黒く光る血で染まり、かつての輝きを失っていた。男爵の馬は既に倒れ、彼自身も膝をついていた。
俺とヒューゴは駆け出した。
男爵の鎧は割れ、血と泥。掠れ声で「ゴブリン…キング…」と。その呼吸は不規則で、意識は朦朧としていた。顔は土気色、目は恐怖に満ちていた。
二人で男爵を担ぎ上げ、本陣へと急ぐ。雪を踏む足音と、鎧のきしむ音だけが耳に残る。途中、男爵は何度か意識を失ったが、その度に俺の権能で引き戻した。権能の使い過ぎで頭がズキズキと痛むが、男爵を失うわけにはいかない。
シドの応急処置で男爵は辛うじて生還。彼の手際の良さと冷静さが男爵の命を救った。あの日シドが前線ではなく本陣にいたのも、運命の導きだったのかもしれない。
結果……俺は無人の辺境を領地として下賜され、ヒューゴは衛兵隊長、シドは一等地を手にした。
あの時見捨てていれば、全て無かっただろう。塩の村も、今のこの瞬間も。
だがゴブリンキング……そんな怪物が実在したのなら、男爵の恐怖も理解できる。ゴブリンを率いる王。その力は計り知れず、もし本当に襲来すれば、この街さえ危うい。
◆ 現在 ◆
思い出を噛み締めていた、その時……
バン!
扉が乱暴に開き、夜風が一気に酒場を冷やす。
息を切らした若い衛兵。顔面蒼白、瞳は血走り。彼の肩には薄く雪が積もり、急いで駆けてきたことが伺える。その表情に、酒場の笑い声が一斉に消える。
「報告っ! 街外周に……ゴブリン軍の旗!」
ジョッキが止まり、店全体が凍りついた。沈黙が酒場を支配し、瞬時に温かな喧騒が緊張感に塗り替えられる。テーブルを囲む者たちの顔が次々に青ざめ、手が武器を探るように動く。
「門を閉めろ! 警鐘を鳴らせ!」
ヒューゴは即座に怒鳴る。彼の声には躊躇いがなく、長年の戦場経験が滲み出ている。酒に赤らんでいた顔が引き締まり、眼光が鋭くなった。
俺も立ち上がる。胸の奥が冷たい手で握られる。
……悪夢が、もう一度?
過去の記憶と現実が重なり、一瞬だけ目の前が暗くなる。だが今、呆然としている場合ではない。村に戻らねば。リリーを連れて、急がねば。
リリーの手が無意識に剣の柄を探っていた。元騎士の戦闘本能が目覚め、彼女の表情も変わった。逃げるより戦うことを選ぶ眼差し。彼女は鎖こそ外れたが、騎士の矜持は失われていない。
シドは静かに席を払い、在庫表を畳む。彼の冷静さだけが、この混乱の中で頼りになる。既に彼の頭の中では、街の防衛態勢や物資の調達計画が組み立てられているのだろう。
盛り上がっていた酒場は、わずか数秒で戦時体制へと移行した。戦の準備をする衛兵たち、家族のもとへ急ぐ民間人たち、武器を求めて走る若者たち。
雪が止んだ夜空の下、再び"緑"が迫る。
俺たちは杯を置き、剣と算盤を握り直した。
酒場を出ると、既に街中に緊迫した空気が満ちていた。遠くで警鐘が鳴り響き、松明の灯りが行き交う。星明かりの下、塔の上では見張りの姿が影絵のように浮かび上がる。
俺たちは無言で四方に散っていく。ヒューゴは城壁へ、シドは物資庫へ、俺とリリーは村への道を急ぐ。
夜風が頬を刺す。
緑の悪夢は終わらない。
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