草原の民
【ゼファー視点】
果てしない青が広がる。
空と草原の境目が曖昧になる地平線の彼方へ、俺たちは馬を進める。
オーロラハイドの街の西は、薄暗い森が広がっていて、さらに西にはドワーフたちの住む青灰色の山脈がある。しかし、今日は少し南下してから西へと向かう。ちなみに東側は漁村などがあり、海だと分かっている。
南から西へと進路を変えた時、目の前に広がったのは、ただただ草原だった。
「ねえ、ゼファー。地図を作るのはいいんだけどさ。この平原の名前決めたほうが良くない?」
リリーの声が、風に乗って届く。彼女の赤い髪が風になびいていた。
馬を駆けていると風が心地良い。まるで時間が止まったかのような錯覚に陥る。
(そういえば、別れ際にシルクと抱き合った時も風が吹いていたっけ……)
「よし、風の平原と呼ぶことにしよう」
俺の言葉が空に消えるように、どこからともなく風が吹き抜けた。一同から「おー!」と言う声が上がる。声は風に溶け、やがて草原の広がりに飲み込まれていった。
騎兵隊の士気が上がったところで、さらに西を目指す。馬の蹄の音だけが、静寂を破る音となった。
そして、西へ進むこと十日が過ぎた。
空と草原はいつまでも続き、時間の感覚が曖昧になる。日の出と日没だけが、時の流れを教えてくれる。
昼と夜の繰り返しの中で、俺たちはこの草原の真の広大さを理解し始めていた。それは言葉で表現できないほどの広がりだった。
「ゼファー、あたしもう疲れた~。オーロラハイドへ帰ってヤキトリ食べたい~」
(気持ちはわかる。俺だってそうだ。持ってきた糧食は半分ほどになっている。潮時か?)
俺の心の中でも、帰還への思いが強くなっていた。土地の広さは確認できた。これ以上西に進む必要はあるのだろうか。
「よーし、引き返すぞー!」
「待って、ゼファー! 遠くに何か見えるよ! なんか動物の群れと、あれはテントかしら?」
リリーがその場で馬を止めた。彼女の声には、十日ぶりの驚きが含まれていた。
俺と十名の騎兵隊たちは、リリーの見ている方を見る。夕暮れ時の西日に照らされて、何かが小さく輝いていた。
「本当だ、何かいる!」
「草原に動物がいるのか?」
「テントがあるって事は、人がいるんじゃないか?」
兵士たちの言葉は、まるで夢から覚めたかのように現実味を帯びていた。
(無人だと思っていた草原に、人が住んでいるかも知れない……これは、お近づきになった方がいいかな?)
遠くから見える光景は、まるで蜃気楼のように揺らいでいる。本当にそこにあるのか、それとも疲れた目の錯覚なのか、判断しづらかった。
「総員、警戒。何が起こるか分からない。気を引き締めろ。ただし、できるだけ友好的にいくぞ」
「はい!」
返事の声は、緊張と好奇心が入り混じっていた。
俺を先頭に、調査隊はテントと動物の群れのほうに馬を歩かせた。夕日を背にして進む騎兵隊の長い影が、草原に伸びていく。
ある程度近づくと、ハッキリ見えてきた。
動物の群れは羊のようだ。白い毛が夕日に照らされて、金色に輝いている。
テントは一つ。そこに一人の人影。
遠くから、浅黒い肌をした若い男が、こちらに手を振っている。彼の姿は夕日に照らされて、まるで別の世界の存在のように思えた。
「手を振っているわね! おーい!」
リリーが男に向かって手をふる。彼女の声には、人を見た安堵感が混ざっていた。
「おおーい!」
俺も声を出して手をふった。
調査隊は、男の前まで来た。夕日はいよいよ低くなり、空が紫色に染まり始めていた。
俺が馬を降りると、全員が下馬する。蹄の音が止まり、再び草原の静けさが戻ってきた。
若い男が何か分からない言葉で挨拶してきた。その声は優しく、友好的に感じる。
だが、言葉が分からない。
彼は、なかなか整った顔立ちをしている。笑顔は純粋で、子供のように無邪気だった。
俺は、もしやと思い、地図作成用の羊皮紙とペンを出すと、紙に字を書く。
『こんにちは、初めまして。私たちは東の国から来ました。名前はゼファーと言います』
文字を見た男は、ふむふむと頷く。その仕草には、どこか親しみがあった。
(これは、通じていそうだな)
試しに羽ペンと羊皮紙を渡してみた。
すると、男も文字を書く。その文字は、風紋のように流れるような形をしていた。
だが、読めない。知らない文字だ。
悩んだ末に、地面に調査隊が進んで来たルートを書いてみた。小さな棒で描いた線でなんとか地図を表現する。
オーロラハイドの位置は丸。
進んだルートは矢印で書いてみた。
男は何度も何度も頷くと、自分が来たルートを書いてくれた。
どうやら、さらに西のほうから来たらしい。男のルートの出発地点には丸印がついていた。
それをリリーが地図に書き写していた。
(ナイスだリリー。これで探索の手間が省ける)
風が強くなり、地面に描いた線が少しずつ消えていく。
男は火種を持ってくると、俺たちの前で火を起こす。その手つきには長い経験が窺えた。火が点くと、辺りが暖かくなる。夜の冷気から守られる安心感があった。
「ねえ、ゼファー。燃やしているのって、もしかして土?」
リリーが燃料のようなものをつつく。その表情には好奇心が溢れていた。
「いや、これは乾燥した家畜のフンだな。軍学の本で読んだことがある。何も燃やすものが無いときは、そうしろって書いてあった」
俺の言葉に、男はにっこりと笑った。まるで俺の言葉を理解したかのように。
「ひえっ、フン!?」
リリーがあわてて手をひっこめると、生えている草で手を拭おうとする。彼女の慌てぶりに、俺は思わずクスッと笑ってしまう。
「リリー、たぶん大丈夫だぞ。乾燥していれば平気だと本に書いてあった」
それでも気になるのか、リリーは手をぬぐっていた。その仕草に、男は静かに微笑む。その笑顔には優しさと理解があった。
火が付いたので、みんなで火を囲んで座る。炎が揺れる影が、夜の帳の中で踊っていた。頭上には、数えきれないほどの星が輝き始めていた。
俺は懐から、ドワーフ金貨を一枚取り出すと、男に手渡した。金貨が炎の光を受けて輝く。お近づきの印だ。
男はウンウンと大きく頷くと、テントの裏へ走って行った。
しばらくすると、羊のものと思われる『メェ~』という断末魔の声がして、血の匂いが漂ってくる。
血の匂いに一同はギョッとする。生と死の境界を感じさせるような、鋭い緊張が走った。
腰を浮かせ、剣に手をかける兵士もいた。彼らの目には不安が浮かんでいる。
「まだ早い。こちらの方が人数が多い。恐れる事はない」
なるべく静かに言うと、兵士たちは落ち着いたようで、地面に座りなおした。炎の明かりが彼らの緊張した表情を照らし出す。
騎兵隊は全員が新兵だ。
浮足立つのも分かる。この果てしない草原の中で、異国の人と出会うという状況は、誰にとっても非日常なのだ。
しばらくすると、男が肉を持ってきた。その手には、まだ生々しい赤みを帯びた塊がある。
大きな肉に金属の棒をさすと、火であぶり始める。肉から滴り落ちる脂が、炎の中で小さくはじける音が聞こえる。
肉の焼ける匂いに、俺たちは思わず腹が鳴る。
男はニカッと笑うと、塊肉の外側の焼けた部分だけ、ナイフでそぎ落とし俺に出した。
「悪いな。先にいただくぜ」
香ばしい焼いた肉の香りがする。
口に入れる。
うまい。
これは羊の肉だ。草原の味がするような気がした。
(金貨を渡したお礼かな? 律儀だなぁ~)
こうして、俺たちは、不思議な男と共に飲み食いをした。言葉は通じなくても、食べることで心が通い合うような感覚があった。
俺たち騎兵隊は、お礼にワインを出す。液体が杯に注がれる音が、静かな夜に響く。
日持ちが良く、悪くなりにくいから、こういう長期間の行軍に酒があると便利である。男は少しだけ飲むと、その味を噛みしめるように目を閉じた。
星空の下、炎を囲んで過ごす夜。言葉を交わさなくても、何かが確かに通じ合っていた。時間の流れが、普段とは違って感じられた。
翌朝。
草原に、朝もやがたちこめる。
白い霧が地面を覆う。
俺たちは男と別れた。言葉は通じないし、文字も通じなかったが、何かが確かに通じたと感じていた。それは言葉以上の何かだ。
調査隊は、オーロラハイドの方へ向かって馬を走らせる。霧の中を進むと、まるで空中を浮かんでいるような不思議な感覚に陥る。
少し振り返ると、男がいつまでも手を振っていた。彼の姿は朝霧の中でぼんやりと霞み、まるで幻のようだった。やがて彼の姿は朝もやの中に溶け込み、見えなくなった。
風の平原を東へと進みながら、俺はふと思った。
あの男は本当にいたのだろうか。
それとも草原が見せた幻だったのか。
答えは風の中。
草原の風が、やさしく俺たちの頬を撫でていった。
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