看板娘グリータ
【グリータ視点】
朝陽が差し込む窓辺で、私は鏡に向かって練習していた。
「いらっしゃいませ! 輝きのゴブリン亭へようこそ!」
笑顔の角度、声のトーン、お辞儀の深さ、すべてが完璧になるまで何度も繰り返す。父は「人間は目で店を選び、心で料理を味わう」とよく言う。だからこそ、私の役目は大切なのだ。
私の名はグリータ。虹の滝の向こう、ゴブリンの村から来た給仕娘。オーロラハイドで働き始めてから三月が過ぎようとしていた。
鏡に映る自分の姿を見つめる。緑色の肌、大きな琥珀色の瞳、耳の先が尖っている。人間とは違う。でも、これが私。
「グリータ、準備はいいか?」
厨房からゴルゴンの声が響く。彼は腕利きのシェフであり、私の叔父でもある。太い腕は、長年料理と向き合ってきた証。
「はい、準備できています!」
エプロンを直し、店の正面扉に向かう。
店内を見回せば、すべてが整っていた。ランプの照明が心地よく灯り、壁には虹の滝の絵が飾られている。テーブルには新鮮な草花が活けられ、優しい香りを漂わせていた。窓からは朝市の賑わいが聞こえてくる。
輝きのゴブリン亭、この店は私たちゴブリンにとって、人間との新しい関係を築く場所。単なる食事処ではなく、二つの民の架け橋なのだ。
扉を開ける時間になった。深呼吸して、笑顔を浮かべる。
「いらっしゃいませ!」
***
正午になると、店内は活気に満ちていた。
「グリータさん、いつも通りで!」
常連の老商人が手を振る。彼は毎日、同じ料理……鳥モツの煮込みとキノコのスープを注文する。
「かしこまりました、すぐにお持ちします!」
メモを取りながら隣のテーブルへ。若い夫婦が初めて訪れたらしく、メニューを不安げに眺めている。
「初めてですか? よろしければ、おすすめをご紹介しますよ」
私は丁寧に料理を説明していく。人間の言葉を流暢に話せることは、私の誇りだった。父と叔父の教えのおかげで、人間の習慣にも詳しい。
「焼きウニは、ウニの身を取り出し、殻に戻して焼き上げます。海の香りと塩の風味が絶妙ですよ」
説明を聞いた夫婦は顔を見合わせ、不安げながらも頷いた。
「それでは、そちらをいただきます」
注文が続く中、私は笑顔を絶やさず動き回った。一皿一皿を運び、お客様の反応を見るのが楽しい。特に初めての方が「こんなに美味しいなんて!」と驚く顔は、何よりの励みになる。
厨房では、ゴルゴンが黙々と料理を作り続けていた。彼の手にかかれば、どんな素材も宝石のように輝く。
通路を行き交いながら、時折耳に入る会話にも注意を向ける。
「ねえ、あの店員さん、ゴブリンなのに愛想がいいよね」
「ゴブリン料理って怪しいと思ったけど、意外といけるな」
「王女様のアイデアだって? さすがだ」
大半は好意的な感想だが、中には「あの緑色が苦手だ」とか「ゴブリンに給仕させるなんて」といった声も混じる。そんな時は聞こえないふりをして、笑顔を絶やさない。
午後の陽射しが窓から差し込み始めた頃、店の扉が勢いよく開いた。
「こ、この店が噂のゴブリン料理店か!」
声の主は、豪華な衣装を身にまとった中年の男性。派手な衣装と金の装飾品が目を引く。側には若い従者が二人、控えめに立っていた。
店内が一瞬静まり返る。接客の流れを乱さないよう、私はすぐに対応に向かった。
「いらっしゃいませ、輝きのゴブリン亭へようこそ」
私は丁寧にお辞儀をする。男は私を上から下まで眺め、どこか驚いたような、そして軽蔑するような目で見た。
「おい、この席に案内しろ」
彼は窓際の席を指差した。あいにく、その席には既に別のお客様が座っていた。
「申し訳ございません。あちらのお席はいかがでしょうか」
空いている席を案内しようとすると、男は眉をひそめた。
「何をごちゃごちゃ言う。そこの緑女、言われたことをさっさとやれ!」
緑女……その言葉が胸に刺さった。笑顔を保つのに、少し努力が必要だった。
「申し訳ございません。窓際のお席は既にご予約いただいております。こちらの特等席はいかがでしょうか」
店の中央、装飾の美しい席へと案内する。男は不満げな顔つきながらも、その席に着いた。
「フン、まあいい。で、この店の一番高い料理は何だ? 金には糸目はつけん!」
彼の声は大きく、周囲のお客様も気にしている様子だった。私は平静を装いながらメニューを開いた。
「本日の最高級料理は『王者のカブト』でございます。時価となっておりますが——」
「よし、それを出せ! 酒も一番いいやつだ!」
男は自分の懐の豊かさを誇示するように大声で言った。私は丁寧に一礼し、厨房へと戻る。
「ゴルゴンさん、困ったお客様です……」
状況を説明すると、ゴルゴンは眉をひそめた。彼の太い腕の筋肉が緊張する。
「なんだと? お前を緑女と呼んだのか?」
ゴルゴンの目に怒りが浮かんだ。私は急いで手を振った。
「大丈夫です! お客様は王者のカブトを注文されました」
ゴルゴンは深く息を吐くと、頷いた。
「わかった。あんな奴には、最高の一品を食わせてやろう。味で分からせてやる……」
彼は冷蔵庫から小振りのマグロの頭を取り出した。鮮度抜群のその素材は、早朝の市場で手に入れたばかり。ゴルゴンの腕にかかれば、マグロの頭という素朴な食材も、王者の料理へと変貌する。
私は酒を運びながら、厨房からの音に耳を傾けていた。火が強く燃える音、包丁が素材を切り分ける音、調味料が煮立つ音、ゴルゴンの怒りと誇りが混じり合った音色。
しばらくして、彼が呼ぶ声がした。
「グリータ、できたぞ」
私が厨房に戻ると、そこには見事な一皿が待っていた。マグロの頭は丁寧に下処理され、香ばしく焼き上げられている。周囲には季節の野菜が色鮮やかに飾られ、特製のソースが添えられていた。
「これが『王者のカブト』です」
ゴルゴンは満足げに言った。その表情には職人としての誇りが輝いていた。
「いい香りだわ……」
私は思わず息をのんだ。カブトの焼き加減は完璧に見えた。香りからもそれが分かる。
丁寧に料理を持ち、男のテーブルへと向かう。店内の視線が集まる中、私は笑顔を絶やさずに料理を供した。
「お待たせいたしました。こちらが『王者のカブト』でございます」
男は目の前の料理を見て驚いた表情を見せた。
「これが一番高い料理だと? 魚の頭じゃないか!」
周囲から小さなため息が漏れる。私は冷静に対応した。
「はい。マグロの頭の中でも、特に美味な部分だけを選りすぐって調理しております。まず、こちらの頬肉からお召し上がりください」
私は小さな銀のフォークで、マグロの頬の部分を指し示した。男は半信半疑で一口を口に運んだ。
「これは……!」
横柄な態度だった男は目を見開く!
「なんという旨さだ! 柔らかくて甘みがある……こんな美味いものがあったとは!」
彼は夢中になって食べ始めた。私は静かに説明を続ける。
「次に目の周りのゼラチン質の部分も、特有の食感がございます。そして、ここにあるのは……」
一品一品、私は丁寧に食べ方を案内した。男は次第に声のトーンを落とし、真剣に料理と向き合っていった。
最後の一口を終えると、彼はゆっくりと私を見上げた。先ほどまでの横柄な態度はどこへやら、目には敬意の色が浮かんでいた。
「あの、すまなかった。最初は失礼な態度を取って……」
男は恥ずかしそうに言った。
「この料理、素晴らしい。ゴブリン料理をなめていた自分が恥ずかしい」
私は優しく微笑んだ。
「お気に召していただけて何よりです」
「シェフに会って礼を言いたい」
その言葉を聞いて、私はゴルゴンを呼びに行った。彼は少し緊張した面持ちで席に現れた。
「素晴らしい料理をありがとう。これほどの味を生み出せるとは……」
男はゴルゴンに深々と頭を下げた。
「実は私、料理店の主人でな。ぜひ、調理法を教えていただけないだろうか」
ゴルゴンは驚いた表情を見せたが、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「喜んで。いつでも来てくれたまえ」
男は会計の際、料金の倍近い金貨を置いていった。そして去り際、私に小さく言った。
「あなたの接客も素晴らしかった。心から謝るよ……」
***
夕暮れ時、店の掃除を終えた後、私は店の裏手のベンチに腰掛けていた。
「お疲れ様」
ゴルゴンが二つの飲み物を持って現れた。一つは私に渡す。
「ありがとう、ゴルゴンさん」
甘い香りのハーブティーを啜りながら、夕焼けを眺める。
「今日のあの男、最後には心を開いてくれたな」
ゴルゴンが言った。
「ええ。料理の力は素晴らしいです」
「いや、お前の対応があったからこそだ。あんな失礼な客に対しても、笑顔を絶やさなかった」
彼の言葉に、私は少し頬を赤らめる。
「でも、『緑女』と呼ばれた時は、少し悲しかった……」
正直な気持ちを口にする。ゴルゴンは静かに頷いた。
「差別はまだある。けれど、一皿の料理、一つの笑顔で変わる人もいる。輝きのゴブリン亭は、そういう場所を目指している」
彼の言葉に、私は胸が温かくなった。
「オーロラハイドに来て良かった。ここで働けて幸せです」
夕陽が沈みゆく空を見上げる。明日も新しいお客様が来る。新しい出会い、新しい会話、そして新しい理解が生まれる。私はそのための架け橋になりたい。
「さあ、明日の準備をしよう」
ゴルゴンが立ち上がった。私も続く。
輝きのゴブリン亭の看板娘として、私はこれからも笑顔を絶やさず、人間とゴブリンの絆を深めていく。それが私、グリータの誇りなのだから。
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