耳としっぽのある少女
【レオン教皇17歳視点】
『リベルタス歴18年、フェリカ歴146年 11月16日 朝』
翌朝の食卓は、なんとも言えない重苦しい空気に包まれていた。暖炉の火は静かに燃えているが、部屋の温度よりもずっと冷ややかに感じる。
僕たちは村長さんからお借りしている家の、質素な木のテーブルを囲んでいた。カルメラさんが気を利かせて、いつもより少しだけ丁寧に淹れてくれたお茶の湯気だけが、気まずそうに立ち上っている。誰もが俯きがちにパンをかじり、ベーコンと目玉焼きにフォークを突き刺す音だけが、カチャカチャと響いていた。
食事も終わりに近づいた頃、沈黙を破ったのはファリーナちゃんだった。彼女は、まだ湯気の立つお茶のカップをテーブルに置くと、僕をじろりと睨みつけ、ボソッと呟いた。
「ザイナよ。ゆうべ、『いたして』おった声、聞こえておったぞ」
その言葉に、僕は飲んでいたお茶を危うく噴き出しそうになった。
「はい……その……申し訳ございません……」
ザイナさんが、小さな声で、でもはっきりとそう謝罪した。彼女の頬はほんのりと赤く染まっている。僕も、なんと返していいか分からず、ただ黙って俯くしかなかった。
会話はそれきりで、食事が終わると、ファリーナちゃんとカルメラさん、そしてステラちゃんの女性陣三人は、ザイナさんを伴って、奥の寝室へと入っていった。ドアが閉まる直前、ファリーナちゃんが僕を鋭く一瞥したのが見えた。きっと、女性だけの秘密の会議が開かれるのだろう。なんだか、少し怖い。
僕は、その気まずい雰囲気から逃れるように、いつもの往診のため、村の診療所へと向かった。
幸い、ここ数日の僕の治療の甲斐あってか、入院している患者さんの数はごくわずかになっていた。一人一人丁寧に診察し、癒しの権能を施していく。
こういう気まずい気分の日でも、権能の力は不思議と衰えることはない。むしろ、患者さんの苦しみを和らげることに集中することで、僕自身の心の重荷も少しだけ軽くなるような気がした。
その日の外来で、僕のところに回されてきた患者さんは、たった一人だけだった。他の軽い症状の患者さんたちは、キュアリエ騎士団の団長であり、元はこの村の薬師だったリノンさんが、手際よく診てくれているのだろう。
だが、これは逆に問題だった。
僕のところにまで回ってくるということは、つまり、リノン団長でも手に負えない、かなり症状の重い患者さんだということだからだ。いわば、リノン団長がサジを投げた患者さん、と言ってもいいのかもしれない。
診療所の奥にある個室のベッドに寝かされていたのは、ひどく衰弱し、痩せこけた少女だった。年の頃は、十五か十六といったところだろうか。その顔色は土気色で、呼吸も浅く、か細い。
僕は、リノンさんが書き残してくれたカルテを手に取り、慎重に目を通した。
(ふむふむ……『患者は今朝方、村の外れの森の中で倒れていたところを、巡回中の交易騎兵隊が発見し、保護。外見は人間と思われるが、頭部には猫のような獣の耳があり、臀部からは同じく猫のようなフサフサとした尻尾が生えている。意識は混濁しており、身元を示す所持品はなし。人間以外の種族については専門外のため、教皇猊下の御判断を仰ぎたく、こちらへ搬送す』……か)
僕は、これまでエルフやドワーフ、ゴブリンといった、オーロラハイドで暮らす様々な種族の人たちの診察も経験してきた。何せ、僕の故郷オーロラハイドは、多種族が共存する都市だ。他の種族だからといって偏見を持っていたら、とても暮らしてはいけない。それに、肌の色や耳の形、体の大きさが多少違っていても、基本的には人間と何も変わらない。何より、彼ら他種族同士でも、愛し合えば子供だって作れるのだから。
(しかし、まいったな……。猫耳にしっぽ、か。こんな種族がいるなんて、僕も初めて聞いた。アウローラさんの古い医学書に、載っているといいな……)
とりあえず、カルテだけでは何も分からない。まずは本人に直接話を聞いてみるのが一番早そうだ。とは言っても、今はまだ意識がない。
こういうひどく衰弱している人に、いきなり強い権能をかけるのは危険だ。ショックでかえって容態が悪化してしまう可能性もある。ここは、じわりじわりと染み込ませるように、少しずつ権能の力を注いでいく必要がある。
僕は権能を発動させた……ただしいつもより優しく……。
どれくらいの時間が経っただろうか。僕が額に汗を浮かべながら、慎重に癒しの力を送り続けていると、少女の瞼がかすかに震え、うっすらと目を開いた。
ここぞとばかりに、僕は心の権能を使い、彼女の記憶の断片をそっと読み取る。僕のこの権能は、戦闘には全く向かないけれど、こういう時には本当に役に立ってくれる。
(この娘……ファニルと名乗っているようだ。食べられそうなものは……ふむふむ、どうやら山や森で暮らしていたみたいで、木の実やキノコ、小動物の肉や川魚、時には木の皮や草の根のようなものまで、何でも食べて生き延びてきたようだ。クルミも好んで食べていたみたいだな。それなら、麦や米のような穀物も、きっと問題なく食べられるだろう。野草も色々と食べているみたいだ)
僕は、部屋の隅で心配そうに控えていた、濃い青色のスクラブ(医療用の簡易服)を着たキュアリエ騎士団の女性に声をかけた。スクラブは、キュアリエ騎士団の平時の制服として、シドさんが新たにデザインしてくれたものだ。ちなみに、リノン団長や、薬師、医師の資格を持つ者は、オーロラハイドの医師たちと同じように白い清潔な白衣を着用している。
「この娘さんのために、入院食を持ってきてください。できるだけ消化の良い、一番軽いやつをお願いします」
「はいっ! ただいま!」
騎士団の女性が、テキパキと厨房へと走っていく。僕は、今日はこのファニルという少女の面倒を、つきっきりで診ることに決めた。
それから一時間ほど経っただろうか。少女……ファニルさんが、再びゆっくりと目を開けた。
「急いで食事を持ってきてください!」
「はい、ただいまお持ちします!」
すぐに、騎士団の女性が、お盆に乗せた食事を運んできた。それは、栄養価の高い麦を、ドロドロになるまでじっくりと煮込んだ、消化の良いスープだった。これなら、そのまま飲んでも胃に負担はかからないだろう。
「さあ、ファニルさん、お食べなさい。……ただし、急がないで、ゆっくりとね……」
僕が木のスプーンを彼女に手渡すと、ファニルさんは、まるで飢えた獣のように、すごい勢いでそのスープをすすり始めた。
そして、案の定、ケホケホと激しくむせてしまった。
「あっ、もう、だからゆっくりって言ったじゃないか」
僕が苦笑いしながら、癒しの権能で彼女の喉の通りを良くしてあげると、ファニルさんは、今度は少しだけ落ち着いて、再びスープを食べ始めた。
そして……。
「……美味しかったニャ……。なんだか、とっても眠いニャ……」
ファニルさんは、満足そうにそう言うと、まるで糸が切れたように、再び深い眠りに落ちてしまった。
僕は、アウローラさんから譲り受けた、分厚い医学書を取り出した。様々な病の症状や治療法、薬草の知識などがびっしりと書き込まれた、貴重な本だ。
その本を丹念にめくり、新しい知識を一つ一つ頭に叩き込みながら、時間をつぶした。正直なところ、今朝の気まずい一件もあって、どうにも家に帰りにくい。
でも、窓の外を見ると、日は既に西の山へ大きく傾き、空は茜色に染まり始めている。そろそろ夕方だ。さすがに、いつまでもここにいるわけにもいかない……。
今夜、家でどんな修羅場が待っているのか、想像もつかなかったけれど、僕は重い足取りで、帰路についたのだった。
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