王の贈り物
宿場町を出発し、丸一日かけて進んだ馬車が高台に差し掛かった時、ようやく王都ヴェリシアの全容が姿を現した。
息を呑む光景だった。
街を囲む城壁は高くそびえ、朝日を受けて輝いている。壁の内側には無数の建物が立ち並び、その中心には王宮の尖塔が天を突くように伸びていた。街の外周に広がる田園風景とは一線を画す、まさに王国の心臓部だった。
「これが……王都か」
俺は思わず声を漏らした。オーロラハイドとは比較にならない規模と壮麗さに、一瞬たじろぐ。
リリーは目を輝かせ、シドは珍しく感嘆の溜息をついた。
「……さすがは王都……一国の政治、経済、文化の中心地だ」
シドの声には敬意が混じっていた。
馬車は長い行列に加わり、城門へと近づいていく。門には鮮やかな王家の紋章が掲げられ、厳重な警備の下、旅人や商人たちが次々と入城していた。
城門をくぐると、そこは別世界だった。石畳の通りが整然と広がり、両側には三階、四階建ての建物が立ち並ぶ。ひしめく人々の中を、馬車や荷車が行き交い、商人の呼び声が響き渡る。
「活気があるわね」
リリーの目が輝いていた。辛い思いをしてきた彼女にとって、この光景は希望そのものだろう。
俺たちは馬車を進め、王宮の方角へと向かった。道中、市場を横切る。果物や野菜、織物、宝飾品──あらゆる品々が所狭しと並び、国中から集まった多様な人々が行き交っていた。
ルシエント伯爵領の死んだような静けさから、この場所の生命力は余計に眩しく感じられた。
「……宮廷への謁見手続きを」
王宮周辺に差し掛かると、シドが進言した。彼はすでに必要書類を準備していたらしい。さすが商人の鑑だ。
王宮への正門には衛兵が厳重に立ち、来訪者を選別していた。俺が馬車から降り、身分を告げる。
「オーロラハイド男爵、ゼファー・オーロラハイドにございます。エドワード陛下への緊急報告がございます」
衛兵は一礼し、別の兵士が王宮内へと走っていった。待つこと半刻、返事が戻ってきた。
「お通り願います。陛下がお待ちです」
俺たちは案内された通路を進んだ。王宮の内部は息をのむほどの豪華さだった。大理石の床は磨き上げられ、天井には精巧な彫刻が施され、柱には金箔が輝いていた。廊下の壁一面には歴代国王の肖像画が飾られている。
ついに玉座の間の前に案内された。
扉が開かれると、燦然と輝く広間が広がっていた。両側に並ぶ柱の間から差し込む光が、中央に据えられた玉座を照らしている。そこにエドワード・フェリカ国王の姿があった。
渋い青紫のローブを着た国王は、白髪混じりの鬚を蓄え、眼光鋭く俺たちを見つめていた。
「ゼファー卿、よく参られた。そなたに権能を授けてから、初めての謁見か」
国王の声は穏やかながらも、確かな威厳を宿していた。
「陛下、謁見を賜り恐悦至極に存じます」
俺は深々と頭を下げ、リリーとシドも同様に礼をとった。
「さて、用向きはルシエント伯爵領のことか。噂はすでに耳にしている」
国王の表情が冴えない。状況を把握していることに驚きはなかったが、すでに情報が届いているとは。
「はい、陛下。ルシエント伯爵の行状につきまして、ご報告申し上げます」
俺は詳細に伯爵の暴政を語った。重税、虐待、そして何より──権能による恐怖政治と処刑。
国王は沈黙して聞き入り、時折眉をひそめる。俺の言葉が終わると、重々しく頷いた。
「ルシエントの件は、王室にとっても憂慮すべき事態だ。彼は先代伯爵の息子。父親は誠実な統治者だったが……」
国王は深い溜息をついた。
「彼のような権能の乱用を座視はできぬ。権能は権力ではなく、責務だ」
国王は立ち上がり、窓辺へと歩いた。この会談には側近もおらず、言葉は率直だった。
「ゼファー卿、卿には余自ら権能を与えたな。卿にはどう見える?」
突然の問いに、俺は一瞬考えた。これは単なる意見聴取ではなく、俺自身の統治姿勢を問われているようだった。
「権能は使う者の心を映し出すものだと存じます。私は領民の幸せを願い、オーロラハイドの発展のためにのみ使ってまいりました」
真摯に答えると、国王は満足げに頷いた。
「よかろう。余はルシエント伯爵を召還し、裁定を下す。しかし、その地を統治する新たな領主が必要となる……」
国王は意味深な目で俺を見つめた。
「さて、そなたはゴブリン族との国境線も定めたと聞く。その報告も聞かせてもらおうか」
話題が変わり、俺はゴブリン王グリーングラスとの交渉、虹の滝を挟んだ国境線の策定、そして今後の交易可能性について説明した。
国王の表情がみるみる明るくなる。
「見事だ。余が知る限り、ゴブリン王と対等に交渉し、和平を結んだ初めての人間だ」
国王は手を叩き、侍従を呼んだ。
「祝宴の準備を」
侍従が去ると、国王は俺に向き直った。
「ゼファー卿、余は卿に褒美を与えたい」
「陛下、ご恩は十分賜っております。私はただ、与えられた領地のために働いただけで」
俺の言葉を国王は微笑んで制した。
「いや、褒美は必要だ。そなたはまだ若く、領地の将来を考えれば……配偶者は必要であろう」
予想もしない言葉に、俺は息を飲んだ。リリーも顔を上げ、シドは眼鏡の奥で目を細めた。
「余の娘、シルクをそなたに娶がせたい」
玉座の間に沈黙が落ちた。
「陛下、それは……」
「シルクは二十歳。年頃だ。だが彼女には権能がない。それゆえ、王都の貴族たちは敬遠している」
国王の表情に一瞬の哀しみが浮かぶ。
「王族として権能を持たぬ者は、『無能』と蔑まれる。だが、そなたのような領主であれば、権能の有無など問題ではなかろう」
実に政治的な提案だった。国王の娘を娶れば、王家との絆が強まり、オーロラハイドの地位は確固たるものになる。だが──
ちらりとリリーを見る。彼女は顔を伏せていたが、拳を握りしめているのが見えた。
「陛下、ご提案は光栄至極ですが……」
言葉を選びながら答えようとした時、リリーが一歩前に出た。
「陛下、お取り計らいありがとうございます」
彼女の声は落ち着いていた。
「ゼファー様はオーロラハイドの領主。領地の将来を考えれば、王家との絆は大切なこと。私は元奴隷身分──これ以上の幸せはすでに頂いております」
彼女は深々と頭を下げた。
俺は言葉を失った。この数日で芽生えた感情は何だったのか。だが、リリーの覚悟に満ちた表情を見るに、彼女にとっては揺るぎない決断のようだった。
「シド、お前はどう思う?」
商人として、そして友として、彼の意見が聞きたかった。シドは静かに言った。
「……通常、王女を妻とするような政略結婚は、より高位の貴族のためのもの。オーロラハイドという小領地の男爵に下されるのは、並々ならぬご厚意だ」
彼の言葉は冷静だったが、一瞬だけ目が柔らかくなった。
「……もしゼファーが『無能』と蔑まれる王女を娶れば、『心』で人を見る領主であることを示せる。それはオーロラハイドの誇りとなろう」
経済的な意味でも政治的な意味でも、この結婚は適切だというシドの判断。そして、リリーの覚悟。
俺は深く息をつくと、国王に向き直った。
「陛下、ありがとうございます。喜んでお言葉に従います」
国王は満足げに笑うと、侍従長を呼んだ。
「娘を呼べ」
程なくしてシルク王女が入室した。彼女は白いドレスを纏い、金色のストレートヘアを整え、小さなティアラを身に着けていた。顔立ちは初々しく、二十歳とは思えぬあどけなさが残る。
「父上、お呼びでしょうか」
シルク王女は優雅にお辞儀をした。国王は彼女を呼び寄せると、俺を紹介した。
「シルク、こちらはゼファー・オーロラハイド男爵だ。ゴブリン族と和平を結んだ勇者じゃ」
「初めまして、ゼファー様」
シルク王女の声は意外に落ち着いていた。彼女は俺をじっと見つめ、やがて小さく微笑んだ。
「父上から話は聞いております。どうぞよろしくお願いいたします」
彼女の態度には緊張こそあれ、嫌悪は見られなかった。むしろ、諦めと共に浮かぶ微かな希望の光が見える気がした。
国王は即座に結婚式の準備を整え、翌日には王宮の礼拝堂で儀式が執り行われた。豪奢な式ではなく、国王夫妻、側近、そして俺の伴としてリリーとシドが参列するという親密な形だった。
儀式で誓いを交わす間、俺の胸には複雑な思いが渦巻いていた。シルクは凛とした佇まいで誓いの言葉を述べる。果たして彼女の胸中はいかなるものだろうか。
簡素な祝宴が催され、食事と音楽で祝福された。小規模ながらも心温まる祝宴だった。
リリーは祝宴の間、終始微笑みを絶やさなかったが、そのまなざしには確かな諦めと寂しさが浮かんでいた。俺は彼女が席を離れた隙に、後を追った。
「リリー……」
回廊の片隅で彼女は立ち止まり、振り返った。
「ゼファー様、おめでとうございます」
強がりの笑顔に胸が痛む。
「すまない。俺は……」
「大丈夫です」
彼女は首を振った。
「私は元奴隷。この身分で王宮に入れたことも、ゼファー様に仕えられることも、すでに十分すぎる幸せです」
「それでも、俺はお前を大切に思っている。それは変わらない」
言葉に込めた想いは、彼女に届いただろうか。リリーはわずかに目を潤ませ、頷いた。
「私も……ゼファー様の幸せを願っています。シルク様は素敵な方です。きっとオーロラハイドにも馴染まれるでしょう」
彼女の言葉には嘘がなかった。
祝宴の後、出発の準備が整えられた。エドワード国王は豪華な贈り物を与えた。新しい馬車、護衛の騎士、シルクの嫁入り道具一式、そして何より──ルシエント伯爵領の一部を、オーロラハイドに組み込むという約束。
「ゼファー卿、余の娘を頼む。彼女は心優しい子だ。嫁ぎ先で幸せにしておくれ」
国王はシルクを抱きしめると、彼女の頬に別れの口づけをした。
「父上、母上、元気でお過ごしください」
シルクは涙ながらに両親に別れを告げた。彼女にとっては生まれ育った王都を離れる大きな旅立ちだった。
馬車に乗り込み、王都を後にする。シルクは窓から王宮を眺め、俺はリリーの横顔を見つめていた。三人三様の思いを抱きながら、オーロラハイドへの長い帰路が始まった。
数日後の夕暮れ時、オーロラハイドの輪郭が見えた時、シルクは好奇心に満ちた瞳で前方を見つめていた。
「あれが、私の新しい家……ですね」
彼女の声には不安と期待が混じっていた。
「ああ。小さな街だが、人々は温かく、これからもっと発展していく」
俺は笑顔で答えた。
町の入り口では、噂を聞きつけた住民たちが集まっていた。護衛の騎士や豪華な馬車、そしてその中の美しい花嫁の噂は、俺たちより早く街に届いていたようだった。
「ゼファー様、お帰りなさい!」
「あれが王女様ですか?」
「ヒューゴ様もシド様も無事でよかった!」
彼らの声に迎えられ、シルクは不安げに俺を見つめた。
「大丈夫、みんな温かい人たちだ」
俺は彼女を安心させるように言い、馬車から降りた。
「皆、ただいま戻った! ルシエント伯爵の悪行は国王陛下の耳に届いた。そして、これより王女シルクを我が妻として迎える。彼女をオーロラハイドの一員として歓迎してくれ!」
住民たちは歓声を上げ、女性たちは花を投げかけた。シルクは緊張しながらも馬車から降り、丁寧にお辞儀をした。
「皆様、初めまして。シルクと申します。これからオーロラハイドの一員として、皆様と共に歩んでいけることを嬉しく思います」
彼女の言葉に、人々は驚きの声を上げた。王女でありながら、あまりに謙虚な態度。それがさらなる歓迎の声を生み出した。
ヒューゴは即座に護衛の騎士たちを迎え入れる準備を始め、シドは馬車の荷物の整理を陣頭指揮していた。リリーは静かに後ろに下がり、距離を置いていた。
領主の館へと向かう道中、俺は先日送り込んだ元賊たちの姿も見かけた。彼らは塩田で働き、汗を流していた。一人が俺に気づき、深々と頭を下げる。その表情には以前の憎悪はなく、むしろ感謝の色が浮かんでいた。
これから始まる新しい日々。王家との結びつきを得て、オーロラハイドはさらに発展するだろう。だが同時に、複雑な人間関係が新たに編み出される。
シルクの横で、俺はリリーの姿を探していた。彼女は群衆の中に溶け込み、静かに笑顔を浮かべていた。その微笑みには哀しみが混じっているようにも見えた。
「ゼファー様?」
シルクの声に我に返る。
「さあ、あなたの領地を案内してください」
新妻の明るい声に、俺は頷いた。
明日からの日々は、きっと今までとは違うものになるだろう。
「とても面白い」★五つか四つを押してね!
「普通かなぁ?」★三つを押してね!
「あまりかな?」★二つか一つを押してね!




