カシウスの決断
【カシウス・ヴァレン二十八歳 ルシエント領代官視点】
『リベルタス歴18年、フェリカ歴146年 10月30日 昼すぎ』
数刻後、私は腹心の密偵アルドに白旗を持たせ、それを先頭にほんの数名の供だけを連れて、リバーフォード村の境へと足を踏み入れた。心臓は、まるで早鐘のように鳴っている。
村の入り口には、アルドからの報告通り、リベルタス帝国の紋章を掲げた約三千の歩兵と、そして精強で知られる約千騎の交易騎兵隊が、整然と、しかし威圧するように布陣して我々を待ち構えていた。
私は、馬上からではあるが、リバーフォード村に展開するリベルタス軍の兵たちを注意深く観察した。
(兵たちの装備は、特に目新しいものではない、ごく普通の皮鎧に鉄兜、そして槍や剣といったところか。だが、その一つ一つがよく手入れされており、使い込まれているのが見て取れる。何より、兵たちの整列は見事だ。無駄口を叩く者は一人もおらず、戦意と規律、そして指揮官への信頼が満ち溢れている。野営のために張られたであろうテントも、寸分の狂いもなく規則正しく配置されている。……ああ、この兵と正面からまともに事を構えなくて、本当に良かった。我がルシエント領の兵は、かき集めても六千ほど。数ではあるいは勝るやもしれぬが、練度と士気では比較にならぬだろう。もし、ここにグラナリアの援軍まで加わっていたとしたら……勝負の結果は、火を見るより明らかであったろうな)
その威風堂々たる兵たちの中央最前列には、質素ながらも清浄な白い神官服を身にまとった、まだ年の若い男性がいた。その隣には、異国風の踊り子のような衣装を纏い、浅黒い肌が目を引く、美しい女性が一人立っていた。
間違いない。あれが、リベルタス帝国オーロラ教の若き教皇レオン猊下と、そして砂漠の国リヴァンティアから来たという『熱砂の姫君』ファリーナ嬢であろう。噂に違わぬお二人だ。
そして、そのさらに数歩下がった横には、リベルタス帝国の経済を一手に握ると言われる、大商会長シド殿の姿も見える。あの男の鋭い目は、まるで全てを見透かしているかのようだ。
私は、馬から降りるとアルドと共に、レオン教皇猊下の前まで静かに進み出て、その場に深くひざまずいた。もはや、私に迷いはなかった。
「レオン教皇猊下におかれましては、初めてお目にかかります。私、フェリカ王国ルシエント領代官を仰せつかっております、カシウス・ヴァレンと申します。本日は、降伏の使者として参上いたしました」
私は、できる限り平静を装い、しかし敬意を込めて言上した。
「オーロラ教皇のレオンです。カシウス代官殿、ようこそお越しくださいました。それで……先ほど、そちらの使者の方から、ルシエント領が我々に降伏される、とのお話を伺ったのですが、それは真でございましょうか?」
レオン教皇は、その若さに似合わぬ、落ち着いた、それでいてどこか柔らかな声で尋ねてこられた。
「はい、その通りでございます。もし、猊下がお認めくださるのであれば、たった今この瞬間より、ルシエントの地、そして民は、全てレオン教皇猊下と、リベルタス帝国の統治下に入るものと、心得ております」
私の言葉を聞くと、レオン教皇は「うーん」と小さく首をかしげ、少しばかり困ったような、子供っぽい表情を浮かべられた。意外な反応だ。
「……実はですね、カシウス殿。先日、フェリカ王国のガウェイン将軍がお見えになりまして、その際に『三ヶ月だけ、フェリカ国内の騒動が収まるのを待ってほしい』というお約束を、僕と交わしたばかりなんです」
「ガウェイン将軍と、お約束……でございますか?」
(やはり……! 初耳ではあるが、フェリカ王家への忠誠心篤いガウェイン将軍のことだ。主君ヘンリーの暴走を予見し、すでに先手を打って、リベルタス側と何らかの接触を図っていたのであろう。さすがは、エドワード陛下の懐刀だ)
「ええ。ですから、今ここでカシウス殿からの降伏を正式にお受けしてしまうと、僕がガウェイン将軍との大切なお約束を破ることになってしまう。それは、僕としても非常に困るんですよね……」
レオン教皇は、本当に心底困ったという顔をしている。清廉な方なのだろう。
「しかし、教皇猊下! それでは、このカシウス・ヴァレンは、王都からの命令に従わなかった罪で、逮捕されてしまいます! どうか、お察しください!」
私は、思わず声を荒らげてしまった。
「えっ!? 逮捕、ですか? カシウス殿、それは一体どういうことなのですか?」
レオン教皇は、驚いたように目を見開いた。
私は、懐から例の二通の書状を取り出し、レオン教皇の前にうやうやしく差し出した。一つは、この私に対する逮捕命令。そしてもう一つは、このリバーフォード村への攻撃命令書だ。
レオン教皇は、その二通の書状にサッと目を通されると、眉をひそめ、やがて、深い、本当に深いため息を一つ、小さく「はあっ」とつかれた。
「……なるほど。まずカシウス殿を逮捕すると脅し、言うことを聞かねば即座に攻撃せよ、というわけですか……。これは……なんとも、人のやる気を削ぐような、陰湿なやり方ですね……」
レオン教皇の声には、残念がり呆れたような、複雑な色がこもっていた。
「はい、左様でございます。正直なところ、この書状を拝見して、私のフェリカ王家、いえ、ヘンリー新国王陛下へのなけなしの忠誠心など、木っ端みじんに吹き飛んでしまいました」
私は、自嘲気味に言った。
「……分かりました、カシウス殿。そういう事情でしたら、話は別です。ガウェイン将軍には、後で僕から事情を説明しましょう。……あなたの降伏、謹んでお受けいたします! ねえ、シドさん! 今日も、急で申し訳ないんだけど、歓迎の宴って、開くことはできるかな?」
レオン教皇は、ぱっと表情を明るくすると、隣に控えていたシド殿にそう尋ねた。
「……やれやれ、またか。だが、めでたいことには違いないな。……分かった、レオン。夕刻までには、集められるだけの酒と肴を、大至急集めさせよう。任せておけ」
シド殿は、やれやれといった風に肩をすくめたが、その口元は微かに笑っているように見えた。
「おおっ! 歓迎の宴を開いてくださるということは……もしかして、私の降伏を、お認めいただけるということでございますか!?」
私の胸は、安堵と期待で大きくふくらんだ。
「はい、もちろんです、カシウス殿! あなたがこんな理不尽な命令で逮捕されるなんて、絶対にあってはならないことですし、僕たちも、あなたの大切なルシエント領と、無益な戦いをする気など毛頭ありませんからね! さあ、今夜は、あなたの決断を歓迎する宴を盛大に開きましょう!」
レオン教皇は、太陽のような笑顔でそう言ってくださった。ああ、このお方についていけば、きっと間違いはない……!
……さて、これで一安心だ。では、この際、長年気になっていた、もう一つの個人的な悩みを、この際思い切って聞いてみることにした。
「あ、あの、恐れながらレオン教皇猊下……。実は私、長年、この……その……頭頂部の抜け毛に悩んでおりまして……。つきましては、その、猊下の奇跡のお力で、この寂しくなった頭髪を、どうにか癒していただくことは、可能でございましょうか……?」
私は、一世一代の勇気を振り絞って、そうお尋ねした。
私のその言葉を聞いた瞬間、レオン教皇が、「ガクッ!」と音がつきそうな勢いで、その場にズッコケそうになる。隣にいた『熱砂の姫君』ファリーナ嬢が、慌てて、しかし力強くその細腕で支えられた。
「くううう~っ! レオン重いのじゃ~っ!」
「あっははは、ファリーナちゃんありがとう」
その場にいたシド殿や、ファリーナ嬢、そして周囲の兵士たちからも、こらえきれないといった風な「あはははは!」「ぶっ!」という大きな笑い声が響き渡る。私も、つられて少しだけ笑ってしまった。ああ、これで本当に良かったのだ。
抜け毛は個人的な悩みではあったが、聞いてよかったと思う。
なぜか、治せるような気がする。
いつの間にか雲は去り、秋の晴天が戻っていた。
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