ルシエント代官の苦悩
【カシウス・ヴァレン28歳 ルシエント領代官視点】
『リベルタス歴18年、フェリカ歴146年 10月28日 昼』
私、カシウス・ヴァレンは、このフェリカ王国ルシエント領の代官を務めている。先代ルシエント伯爵が反乱を起こし、その死後、この地が王家の直轄領となってから、もう長い。私は二代目の代官だ。
元々は由緒ある伯爵領であったこの地の代官職であるから、与えられた権限はそれなりに大きく、責任もまた重い。
そして、私の現在の上司は、先頃崩御されたエドワード陛下の後を継いだ、フェリカ王家のヘンリー新国王陛下……そのお方だ。
そして今、私は、その首都ヴェリシアから届けられたばかりの、国王陛下直筆の紋章が押された書状を片手に、怒りと絶望で全身を震わせていた。
「くっ……! 先日、当領を通過したメイドのステラと、レオン教皇を通した罪で、この私を逮捕だと!? 馬鹿な! 解せぬ、全くもって解せぬわ!」
私は、ここルシエント城の執務室で、苛立ちのあまり自分の金髪をかきむしった。
手には、何本か金色の髪の毛が抜け落ちて絡みついている。忌々しい。
「なんとか……なんとか、この状況を打開する方法はないものか……!」
私が苦悩していると、そこへさらに追い打ちをかけるように、王都からの早馬が、新たな書状を届けてきた。嫌な予感しかしない。
震える手で封を切り、中身に目を通した私は、絶句した。
「クソォッ! なんだこれは! 今度は、リベルタス帝国領であるリバーフォード村へ、我がルシエント領の兵をもって攻め込めだと!? 正気か! 何を考えているのだ、王都のあの馬鹿どもは!」
私は、書状を机に叩きつけた。
その時、執務室のドアが控えめにノックされ、数日前にリバーフォード村へ様子を探るために放っていた密偵が、息を切らせて帰ってきた。
「おお、戻ったか、アルド! ご苦労であった。して、リバーフォード村の様子は、どうであった? 何か変わったことは? 詳しく報告せよ!」
私は、椅子から身を乗り出して尋ねた。
「はっ! リバーフォード村は、以前と変わらず、我がルシエント領の民が治療や買い物のために訪れているようでございました。特に、彼らがリベルタス側から拒絶されるようなこともなく、実に平和な様子でございました。……ですが……」
密偵アルドは、そこで言葉を切り、何やら言いにくそうにしている。
「なんだ、アルド。歯切れが悪いな。何かあったのなら、包み隠さず申してみよ」
「はっ! それが……三日ほど前になりますが、リベルタス帝国の首都オーロラハイドより、およそ三千の歩兵部隊が、リバーフォード村へ到着したとのことでございます。そして、村人と兵士たちが一緒になって、盛大な祭りを催しておりました」
その報告を聞いた私は、言葉を失い、衝撃で背筋が凍るのを感じた。
三千の兵……! しかも、到着してすぐに祭りだと? これは、間違いなく、兵たちの士気を高め、結束を固めるための行為だ。
あるいは、これから始まる何か……例えば、戦争のための『前祝い』ということか?
しかも、あのリベルタス帝国の首都オーロラハイドから派遣された兵だと?
先のオルヴァリスの戦いで、勇猛果敢なグラナリアの軍勢を打ち破った、あの精強な兵たちだというのか!
「はっ。さらに、驚くべきことに、その祭りは、グラナリア公国から来たと思われる民も、楽しんでおりました」
「な、何だとっ!? あのグラナリアの民までもが、リベルタスの兵士たちと、同じ場所で酒を酌み交わしているというのか!」
信じられん……。グラナリアは、リベルタスに敗れたばかりのはず。それが、もう融和していると?
いや、それよりも厄介なのは、グラナリアの主力である、あの神出鬼没な投槍騎兵隊だ。
彼らは非常に身軽で、平原での戦いにおいては、正面から撃破するのは至難の業。
一撃離脱戦法を得意とし、槍を雨あられと放っては、すぐに馬首を返して逃走する。
そして、忘れた頃に、またどこからともなく現れて襲ってくるのだ! 実に厄介な相手よ。
それに、もしやとは思うが、以前、グラナリアのヴィレム公王妃である魔女伯ルクレツィア殿が、何者かの権能によって倒れた際、それを癒したのは……。
「……まさか、リベルタスのレオン教皇猊下なのでは……」
私は、自分の推測に慄然とした。
グラナリア公国は、レオン教皇に対して、計り知れないほどの大きな借りがあることになる。
リベルタス側から要請がなくとも、グラナリアは恩義に報いるため、喜んでリバーフォード村の救援に兵を出してくる。
そんな、リベルタスの歩兵三千に加え、グラナリアの援軍まで来るかもしれない場所に、我がルシエント領の兵で攻め込んだとしたら……結果は火を見るより明らかだ。
「こ、こんなものは、無謀を通り越して、単なる自滅行為ではないかッ!」
私は、怒りと絶望で、再び机を強く叩いた。ガタガタと音を立てて、インク壺が倒れそうになる。
「……それから、代官様。大変申し上げにくいことでございますが、この度の私のリバーフォード村への潜入任務ですが……どうやら、その動きは、大商会長シドに、看破された模様でございます。さらに、交易騎兵隊も、かなりの数がリバーフォード村に常駐しておりました」
アルドは、床に片膝をつき、深く頭を垂れた。
「な、何だとっ!? あの、シド殿に、動きを読まれていたというのか! おまけに『交易路の守護者』の交易騎兵隊までもが、すでにリバーフォード村に常駐しているだと!?」
もう、言葉も出ない。完全に詰みだ。
まずい、これは本当にまずいぞ……。もはや、王都の命令に従うなど、狂気の沙汰だ。
こうなったらいっそのこと……腹を括るしかない。
「……アルドよ。よく聞いてくれ。私は……いや、このルシエント領は、リバーフォード村のレオン教皇猊下に、全面降伏する。私が、代官として、直接白旗を掲げて出向き、恭順の意を示す。今すぐ、そのための準備を整えよ」
私は、静かに、しかしはっきりとした口調で命じた。
「ハッ!……代官様。私見ではございますが、それこそが、現状において最も懸命なるご判断かと、私も愚考いたします……。直ちに、降伏のための準備を整えさせていただきます」
アルドは、一瞬だけ驚いた顔をしたが、すぐに深く頷き、テキパキと動き始めた。
ああ……一度、降伏すると決めてしまえば、あれほどまでに重く私の肩にのしかかっていた苦悩や恐怖が、まるで嘘のようにすうっと消え、心が軽くなったような気がした。これで、ルシエントの民も、無駄死にさせずに済む……。
相変わらず抜け毛がひどいが、教皇猊下は抜け毛も治せるだろうか?
ちょっと聞いてみようと思うと、なぜか笑いが出た。
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