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宿場の灯

 馬車は王都ヴェリシアへ向けて疾走していた。轍を踏む度に車体が揺れ、疲労の蓄積した身体に鈍い痛みをもたらす。

 俺たちの胸に刻まれたルシエント伯爵領の光景は、なかなか消えてはくれなかった。


 窓の外、太陽は西の空へと傾きつつあった。薄い雲が夕暮れに染まり始める。

 俺とリリー、シドの三人は互いに沈黙を守ったまま、それぞれの思いに沈んでいた。


「シド、王都まではどのくらいかかる?」


 俺の声は疲れが滲み出ていた。ルシエント伯爵の蛮行を目にしてからというもの、休息どころか満足に食事も取れていない。精神的疲労が身体を蝕んでいく感覚があった。


 シドは地図を広げながら、やや伏せがちな声で答えた。


「……このまま行っても、今日中の到着は難しい。しかし、まもなく王家直轄の宿場町に着くはずだ」


 彼は地図上の一点を指差した。いつもの冷徹な声色を維持しようとしているが、その目には明らかな疲労の色が見えた。


「宿場町……」


 リリーが希望の灯を見つけたように、かすかに顔を上げる。


「そうだ。そこなら安全に宿が取れるだろう。伯爵領とは違い、王家の直轄領だ」


 シドの言葉に、俺もわずかに体を起こした。


「よし、そこを目指そう。リリー、申し訳ないが、もう少し馬を急がせてくれ」


「わかったわ」


 リリーは手綱を握り直し、軽く鞭を入れた。疲れた馬たちも、もう少しの我慢を強いられる。


 俺は馬車の窓から見える風景を見つめていた。道の両側に広がる畑は実り豊かで、遠くには羊の群れが見える。伯爵領との差は余りにも明白だった。


***


 夕闇が落ち始めたころ、宿場町の灯りが見えてきた。

 町の入り口には松明が灯され、往来する人々の姿が見えた。


 馬車が町に入ると、そこは伯爵領とはまるで別世界だった。

 通りには人々が行き交い、笑い声や商人の呼び込みが活気ある音を奏でている。市場では食料や衣類が豊富に並べられ、子供たちが駆け回る姿も見えた。


 広場に差し掛かると、大きな鍋が並べられていた。炊き出しだ。並ぶ人々の多くは粗末な身なりで、伯爵領から逃れてきた難民だろう。しかし彼らの表情には安堵の色が浮かんでいた。


「ああ、良かった……」


 リリーは目を潤ませながら、炊き出しの様子を見つめていた。

 シドも硬い表情が崩れ、安心したように肩の力を抜いた。


「王都は、まともそうだな……」


 彼の声には明確な安堵が含まれていた。


 俺も胸をなで下ろす。王都に向かう最後の関門、この宿場町が正常な状態であることは、最悪の事態ではないという希望を与えてくれた。


「宿を探そう」


 馬車を停め、俺たちは宿屋を探し始めた。しかし、町に入ると連日の難民流入で宿は軒並み満室だった。


「……まいったな……この時間から宿探しとは……」


 シドが珍しく困った表情を浮かべる。

 リリーも疲れを隠せない顔で俺を見上げた。


「どうしましょう、ゼファー?」


「仕方ない、民家に頼んでみるしかないだろう」


 俺たちは通りに面した民家を一軒ずつ訪ね、宿を探した。しかし、どの家も難民への支援で手一杯で、泊める余裕はないと言う。


 諦めかけた頃、一軒の小さな家の前で老婆が声をかけてきた。


「あら、宿をお探しですかい?」


 老婆は白髪を簪で結い上げ、穏やかな笑みを浮かべていた。


「はい、ですが町の宿は満室で……」


 リリーが答えると、老婆は頷いた。


「それなら、うちの空き部屋を使いなさい。狭いけど、寝るだけなら十分よ」


「よろしいのですか?」


 俺が尋ねると、老婆はくすりと笑った。


「夫は亡くなり、子供たちは巣立ってね。寂しいくらいだから、旅人が泊まってくれるのは嬉しいんだよ」


 その言葉に、三人は顔を見合わせ、頷いた。


 老婆の家は小さいながらも清潔で、居心地の良い空間だった。壁には手織りの織物が飾られ、暖炉には火が灯されていた。


「こちらの部屋をお使いください。ベッドは二つしかありませんが……」


 老婆は申し訳なさそうに言った。


「構いません。ありがとうございます」


 リリーが深々と頭を下げ、俺もシドも心からの感謝を伝えた。


 老婆は湯を沸かし、簡素だが心のこもった夕食を用意してくれた。熱いスープと焼きたてのパン、炊き立ての豆料理。伯爵領以来、まともな食事にありつけなかった俺たちは、食卓を前に涙ぐむほどだった。


 食事を終え、老婆は寝床を整えながら話してくれた。

 伯爵領の状況は、ここでも噂になっているらしい。若い伯爵が権能を悪用し、領民を虐げている噂は、王都にも届いているという。


「陛下も心を痛めておられるそうだよ。でも、貴族の権能を持つ伯爵には、簡単には手が出せないとか……」


 老婆の言葉に、三人は沈黙した。

 権能の乱用を止められるのは、同じく権能を持つ者だけなのかもしれない。


 老婆が去った後、俺とリリー、シドは就寝の準備をした。部屋には大きなベッドが二つある。


「……俺は暖炉の前の椅子で十分だ」


 シドがいつもの冷静さを取り戻したように言った。


「いや、シド、きちんと休め。明日は重要な日だ」


 我々の言葉に、シドは小さく頷いた。


「……わかった。では、甘えさせてもらおう」


 彼は別の部屋へ向かった。流石の老婆の家でも、シドにまで個室を用意するのは難しかったようだ。


 残された俺とリリーは、暖炉の前に腰掛けた。火が柔らかな明かりを部屋に投げかけ、二人の影を壁に映し出す。


「ゼファー……」


 リリーが小さな声で呼んだ。彼女は今にも泣き出しそうな表情で、震える手を俺の方へ伸ばした。


「どうした?」


「怖かった……あの伯爵が、あんな風に……」


 彼女の言葉は途切れたが、その意図は明らかだった。

 伯爵の権能による処刑。青白い光の中で消えた男の姿。彼女の脳裏から離れないのだろう。


 俺は静かに彼女の手を取った。小さいが、しっかりとした剣士の手だ。


「今日は、一緒にいてもいいですか……?」


 リリーの声は震えていた。彼女の目に浮かぶ恐怖と不安を見つめ、俺は優しく頷いた。


「ああ、もちろんだ」


 二人はベッドに腰掛け、互いの温もりを感じながら、今日の恐怖を少しずつ手放していった。彼女は身を寄せ、俺はそっと腕を回す。騎士としての矜持と誇りを持つ彼女が、こうして弱さを見せるのは珍しかった。


 暖炉の火がパチリと音を立て、やがて静かに燃え続ける。

 彼女の髪を優しく撫でながら、俺は思った。伯爵のような者がいる限り、オーロラハイドを守らねばならない。そして、リリーのような信頼する者たちを守らねばならないと。


 窓の外では、宿場町の灯りが闇夜を照らし続けていた。


***


 翌朝、陽の光で目を覚ました時、リリーはすでに起き上がり、髪を整えていた。彼女は少し照れくさそうに笑うと、軽く頭を下げた。


「昨晩は、ありがとう……」


 その言葉には、安堵と恥じらいが混ざっていた。

 俺も微笑み返した。


「気にするな。さあ、準備をしよう」


 シドと合流した後、老婆に別れを告げる。彼女は朝食まで用意してくれていた。温かいパンと茹で卵、そして清らかな水。


「これは、お礼です。お受け取りください」


 俺は銀貨を取り出し、老婆に差し出した。彼女は最初、遠慮したが、シドの説得もあり、ようやく受け取ってくれた。


「お気持ちだけで十分なのに……でも、ありがとう」


 老婆は目に涙を浮かべながら、扉口まで見送ってくれた。


 馬車に乗り込み、再び王都への道を進む。

 今日は晴れ渡った空が広がり、馬たちも生き生きとしていた。


 リリーが手綱を握り、シドは地図を確認し、俺は王都での報告の準備を始めた。

 伯爵の蛮行を国王に伝えなければならない。そしてオーロラハイドとゴブリンの国境線についても。


 道中、三人の会話は少しずつ戻ってきていた。

 昨夜の宿場町での温かさと安心が、伯爵領での恐怖を少しずつ洗い流していく。それでも、俺たちの胸に刻まれた使命感は消えていなかった。


 馬車は王都へと、まっすぐに進んでいった。

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