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冬の貴族

【ゼファー視点】


 五日間の旅路を経て、ルシエント伯爵領へ到着した瞬間、馬車の中が静まり返った。

 視界に広がる光景に、誰もが言葉を失った。


 馬車は傾いた石畳の上を進み、軋む音が不穏に響く。道は至る所で崩れ、深い轍が刻まれている。両側に立ち並ぶ家々は朽ち果て、窓ガラスは割れたまま放置され、壁には大きな亀裂が走っていた。煙突から煙の上がる家はほとんどなく、街全体が灰色の幕に覆われたように生気を失っていた。


「これが……ルシエント伯爵領……?」


 リリーの声が震える。信じられないという表情で、彼女は街を見渡していた。


 シドは静かに頷き、唇を固く結んでいる。普段の無表情とは違い、目には明確な怒りが灯っていた。


「わずか三年前までは違った」


 シドの言葉は低く、しかし重い。


「伯爵様は、この地方で最も寛大な統治者と謳われていたはずなんですけど」


 リリーの言葉に、シドは首を横に振った。


「……ルシエント伯爵は、五年前に亡くなった。今の伯爵は息子だ」


 彼の言葉に、俺は眉をひそめた。以前オーロラハイドで会ったときは、悪い人物には見えなかったのだが……それがこの荒廃の原因なのか。


 空っぽの広場を横切り、朽ちた噴水の傍を通過する。噴水の彫像は、天使を象ったものだろうが、今は表面が剥げ落ち、醜く変形していた。


 市場に辿り着くと、さらに痛ましい光景が広がっていた。店先には、乾ききった野菜とひからびた魚がわずかに並ぶだけ。埃を被った商品は、まるで時間が止まったかのように放置されていた。店主たちは虚ろな目で、通りを見つめている。


 リリーが小さく呻いた。彼女の表情に痛みが浮かぶ。


「この人たち、まるで生きる気力を失っているみたい……」


 俺は胸の内で怒りが燃え上がるのを感じた。領主として、こんな状況を許すことなどできない。オーロラハイドでは、どんなに苦しくとも、人々の顔に活気があった。それは希望があるからだ。


 だがここには、希望の欠片も見当たらない。


 馬車がルシエント城に近づくにつれ、喧騒が聞こえてきた。城門前の広場に、一人の痩せこけた男が立っていた。擦り切れた服を着た彼の周りには、鎧をまとった衛兵たちが円陣を組んでいる。


「税率九割など、あり得ない! どうやって生きろというのだ!」


 男の声は絞り出すように弱々しく、それでも必死に叫んでいた。衛兵たちは冷ややかな表情で彼を取り囲み、槍先を突きつけている。だが興味深いことに、衛兵たちの顔も青ざめ、鎧は手入れもされず錆びついていた。


「静かにしろ! これは伯爵様が決めたことだ!」


「このままでは、飢え死にするしかない! 少しでいい、税を下げてくれ!」


 男は膝をつき、嘆願するように訴えかけた。その姿に、俺は馬車を止めるよう命じた。シドとリリーを見る。二人とも緊張した面持ちで頷いた。


 次の瞬間、城のバルコニーに一人の男が現れた。


 豪奢な青いガウンを纏い、首には宝石の首飾りが煌めいている。若く整った顔立ちだが、目に宿る光は冷酷そのものだった。


「ルシエント伯爵……」


 シドがうわずった声で呟く。


 伯爵はバルコニーから、抗議する男を見下ろしていた。


「貴様は何と申したか。税が高すぎるとでも?」


 伯爵の声は甘く、しかし冷たい。それは蜜に塗られた刃のようだった。


 男は伯爵の姿を見て、恐怖に震え上がった。


「ご、ご容赦を……伯爵様……!」


「ならば教えよう。税金を払わずに済む方法を」


 その言葉と共に、伯爵の体から青白い光が放たれた。


貴族神授領域ロード・ミスティック・フィールド


 伯爵の権能が発動し、青白い光条が男へと伸びていく。俺は咄嗟にリリーとシドの頭をつかむと伏せさせる。同じ権能を持つ者として、その危険を察したからだ。


 次の瞬間、男の体が青白い光に包まれた。


「ギャアアアアアア!」


 金切り声が広場に響き渡る。男の体は光の中で歪み、一筋の煙となって消え去った。灰すら残らない完全な消滅。


 風が吹き、虚空を撫でる。男がいた場所は、ただの空間と化していた。


 激しい悪寒が俺の背筋を走った。


 権能を使って人を――領民を殺した。しかも罪もない、ただ苦しみを訴えただけの男を。


 リリーは青ざめ、シドは拳を握りしめている。


「これが……貴族の権能……」


 リリーの震える声。彼女はゴブリンとの戦いで俺の権能を見たはずだが、今の光景と重ねたのだろう。


 伯爵はふと、俺たちの馬車に気づいたようだ。彼は顔を向け、優雅に微笑んだ。


「ようこそ、オーロラハイドのゼファー男爵。ごゆっくりお寛ぎください」


 その態度はまるで、先ほどの出来事など何もなかったかのようだった。


 胸の奥に怒りが渦巻く。だが今、感情に任せるわけにはいかない。俺は冷静さを保ちながら返答した。


「ご配慮に感謝します。しかし私たちは急ぎの用件があり、すぐに王都へ向かわねばなりません」


 伯爵は残念そうに肩をすくめた。


「そうですか。それはお気の毒に。また機会があれば、どうぞお立ち寄りください」


 彼は手を振り、バルコニーから姿を消した。


 馬車は再び動き出した。城を離れる間、誰も口を開かなかった。皆、伯爵領の境界を越えるまで、その緊張から解放されなかった。


 ようやく開けた街道に出ると、リリーが小さく息を吐いた。


「あれが……本当の貴族なの?」


 彼女の問いに、沈黙が流れる。


「違う」


 俺は静かに、しかし強く言い切った。


「貴族とは力を与えられた特権者ではない。弱きを守り、強きを正す者だ。力を乱用し、己の欲のままに領民を虐げるような者は、貴族の名に値しない」


 シドが眼鏡を直しながら頷いた。


「……正しい。だからこそ我々は、必ず王に報告せねばならん」


 リリーも真剣な表情で頷いた。


「でも……王が知っていたら? もし王の承認のもとで、伯爵がこんなことをしているとしたら?」


 彼女の言葉に、全員が固まった。確かにそれは考えられる可能性だった。


 俺は馬車の窓から、伯爵領の最後の風景を見つめながら決意を固めた。


「たとえそうだとしても、真実を伝えなければならない。そして俺はオーロラハイドを、あんな風にはしない」


 馬車は風を切りながら、王都へと進んでいった。

 まだ見ぬ未来と、知らざる真実に向かって。


 遠くから、鍛冶屋の金槌の音が響いていた。

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